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第1章:婚約破棄の屈辱と決意
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侯爵令嬢マイラ・グランシェルがこの世に生を受けたのは、王都の北西に広がる広大な領地を治めるグランシェル侯爵家。その家名が示す通り、グランシェル家は代々、国王に忠誠を誓いながら王家の政治と軍事を支えてきた名門である。マイラの父、デゼル・グランシェル侯爵は誠実かつ厳格な人柄で知られ、同時に芸術や学問への理解も深く、領地経営ではいつも新しい取り組みを意欲的に推し進める人物として高い評価を得ていた。
そのため、侯爵令嬢として生まれたマイラは幼い頃から何不自由なく、しかし甘やかされることもなく、厳しい教育のもとに育てられてきた。礼儀作法や文学、社交界での立ち振る舞いはもちろんのこと、経営学や歴史、そして魔法理論にいたるまで多岐にわたる分野を学んできた。その結果、美しい容姿はもちろんのこと、高い知性と観察眼を兼ね備えた女性へと成長し、社交界では「氷の美姫」として知られるようになる。
だが実際のところ、マイラの内心は「氷」と呼ばれるほど冷ややかなものではなかった。ただ、自分の感情を表に出すのが苦手であり、相手によってはそっけなく見える態度が目立つせいで、そう呼ばれてしまうだけなのだ。彼女自身もその評判を否定するようなことを進んで行う性格ではないので、いつしか「クールで完璧な侯爵令嬢」というイメージが確立されてしまっていた。
そんなマイラは十六の歳を迎えたころ、第二王子ラウル・エストレイドから婚約を申し込まれた。王位継承権を持つ王子との縁談は、貴族社会でも非常に名誉ある話だった。グランシェル侯爵家が古くから王家に仕えてきたとはいえ、王子との縁組は別格の一大事である。これによってマイラは将来、王族に準ずる立場になることが内定し、一層注目を浴びることとなった。
ラウル王子は当時まだ十八歳。第一王子の兄が優秀だったこともあり、王家の序列としては「継承候補のひとり」といった程度だったが、それでも王族であることに変わりはない。整った容姿と柔らかな物腰から、貴族の令嬢たちの間でも非常に人気があった。婚約の報せを聞いたとき、マイラは心の中で「こんなに順調でいいのかしら」と戸惑ったほどだ。
それでもラウルは、表面上は常にマイラを気遣う態度を見せていた。マイラもまた、王族の婚約者という立場から周囲が期待する「完璧な令嬢」の役を演じ続けるうち、感情を率直にぶつける機会を失っていったのだろう。結果として互いの内面に踏み込むことのない、どこか形式的な関係が続いたまま、三年余りの月日が流れたのである。
そして迎えた、マイラ十九歳の冬。王宮にて盛大に催された舞踏会が、すべての転機となった。
この舞踏会は元来、王族主催の恒例行事であり、各地の貴族や大商家の人々が華麗な衣装に身を包み、王宮の大広間に集う一大イベントだ。そこには、普段は公の場に出ない女性や、地方の領主の息子・娘たちも多く訪れる。社交界におけるネットワークを広げる絶好の機会でもあるため、特に若い貴族令嬢や令息たちはこぞって参加する場でもあった。
マイラはいつものように白を基調としたドレスを選んだ。純白のレースが幾重にも重なり、胸元には宝石が繊細にあしらわれている。金色がかった栗色の髪を夜会巻きにまとめ、首筋を上品に見せる形で装い、さらに侯爵家の紋章をあしらった髪飾りをさりげなく添える。化粧も控えめながら、もともとの整った顔立ちを引き立てる程度にとどめ、全体として清廉さと上品さを強調していた。
周囲の令嬢たちはため息混じりにその姿を見やり、「さすが氷の美姫」と口々に囁き合う。マイラは彼女たちの視線を受け止めながらも、慣れた様子で自分の立場を全うしようとしていた。
ところが、その日のラウル王子はどこか様子が違っていた。普段ならば彼は笑顔を絶やさず、婚約者であるマイラにも軽やかに声をかけ、手を取ってエスコートしてくれる。しかし、その日は遠巻きにマイラを眺めているだけで、なかなか近寄ってこようとはしない。
不審に思ったマイラは、舞踏会が始まって間もなく、王子の侍従から「ラウル殿下が個別にお話をしたいそうです」という連絡を受けた。大広間の隅にある小部屋で待っているらしい、と告げられたので、マイラはすぐにその場を離れ、彼のもとに向かうことにした。
王宮の大広間から少し外れた場所にある応接室。マイラが扉を開けると、そこには青い衣装をまとったラウルの姿があった。明るい光を放つシャンデリアの下、いつになく深刻な表情で立っている王子を見て、マイラは胸騒ぎを覚える。
「マイラ、来てくれてありがとう」
ラウルはそう言って微笑んだが、それはどこか乾いた笑みだった。彼の背後には、あまり見慣れない少女が立っている。マイラから見れば十七、十八歳ほどの、はつらつとした印象の娘。贅沢なドレスではないが、よく見ると質素な中にも丁寧に仕立てられた服を身につけている。おそらくは平民の出自なのだろう、とマイラは察した。
そのため、侯爵令嬢として生まれたマイラは幼い頃から何不自由なく、しかし甘やかされることもなく、厳しい教育のもとに育てられてきた。礼儀作法や文学、社交界での立ち振る舞いはもちろんのこと、経営学や歴史、そして魔法理論にいたるまで多岐にわたる分野を学んできた。その結果、美しい容姿はもちろんのこと、高い知性と観察眼を兼ね備えた女性へと成長し、社交界では「氷の美姫」として知られるようになる。
だが実際のところ、マイラの内心は「氷」と呼ばれるほど冷ややかなものではなかった。ただ、自分の感情を表に出すのが苦手であり、相手によってはそっけなく見える態度が目立つせいで、そう呼ばれてしまうだけなのだ。彼女自身もその評判を否定するようなことを進んで行う性格ではないので、いつしか「クールで完璧な侯爵令嬢」というイメージが確立されてしまっていた。
そんなマイラは十六の歳を迎えたころ、第二王子ラウル・エストレイドから婚約を申し込まれた。王位継承権を持つ王子との縁談は、貴族社会でも非常に名誉ある話だった。グランシェル侯爵家が古くから王家に仕えてきたとはいえ、王子との縁組は別格の一大事である。これによってマイラは将来、王族に準ずる立場になることが内定し、一層注目を浴びることとなった。
ラウル王子は当時まだ十八歳。第一王子の兄が優秀だったこともあり、王家の序列としては「継承候補のひとり」といった程度だったが、それでも王族であることに変わりはない。整った容姿と柔らかな物腰から、貴族の令嬢たちの間でも非常に人気があった。婚約の報せを聞いたとき、マイラは心の中で「こんなに順調でいいのかしら」と戸惑ったほどだ。
それでもラウルは、表面上は常にマイラを気遣う態度を見せていた。マイラもまた、王族の婚約者という立場から周囲が期待する「完璧な令嬢」の役を演じ続けるうち、感情を率直にぶつける機会を失っていったのだろう。結果として互いの内面に踏み込むことのない、どこか形式的な関係が続いたまま、三年余りの月日が流れたのである。
そして迎えた、マイラ十九歳の冬。王宮にて盛大に催された舞踏会が、すべての転機となった。
この舞踏会は元来、王族主催の恒例行事であり、各地の貴族や大商家の人々が華麗な衣装に身を包み、王宮の大広間に集う一大イベントだ。そこには、普段は公の場に出ない女性や、地方の領主の息子・娘たちも多く訪れる。社交界におけるネットワークを広げる絶好の機会でもあるため、特に若い貴族令嬢や令息たちはこぞって参加する場でもあった。
マイラはいつものように白を基調としたドレスを選んだ。純白のレースが幾重にも重なり、胸元には宝石が繊細にあしらわれている。金色がかった栗色の髪を夜会巻きにまとめ、首筋を上品に見せる形で装い、さらに侯爵家の紋章をあしらった髪飾りをさりげなく添える。化粧も控えめながら、もともとの整った顔立ちを引き立てる程度にとどめ、全体として清廉さと上品さを強調していた。
周囲の令嬢たちはため息混じりにその姿を見やり、「さすが氷の美姫」と口々に囁き合う。マイラは彼女たちの視線を受け止めながらも、慣れた様子で自分の立場を全うしようとしていた。
ところが、その日のラウル王子はどこか様子が違っていた。普段ならば彼は笑顔を絶やさず、婚約者であるマイラにも軽やかに声をかけ、手を取ってエスコートしてくれる。しかし、その日は遠巻きにマイラを眺めているだけで、なかなか近寄ってこようとはしない。
不審に思ったマイラは、舞踏会が始まって間もなく、王子の侍従から「ラウル殿下が個別にお話をしたいそうです」という連絡を受けた。大広間の隅にある小部屋で待っているらしい、と告げられたので、マイラはすぐにその場を離れ、彼のもとに向かうことにした。
王宮の大広間から少し外れた場所にある応接室。マイラが扉を開けると、そこには青い衣装をまとったラウルの姿があった。明るい光を放つシャンデリアの下、いつになく深刻な表情で立っている王子を見て、マイラは胸騒ぎを覚える。
「マイラ、来てくれてありがとう」
ラウルはそう言って微笑んだが、それはどこか乾いた笑みだった。彼の背後には、あまり見慣れない少女が立っている。マイラから見れば十七、十八歳ほどの、はつらつとした印象の娘。贅沢なドレスではないが、よく見ると質素な中にも丁寧に仕立てられた服を身につけている。おそらくは平民の出自なのだろう、とマイラは察した。
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