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最終話
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「一花ちゃん、どういうことか話して」
「えっと……色々考えた結果、日本で勉強した方がいいかなって思って」
「留学を希望して、この学校を選んだんだよね?」
「…………」
倉間酒店は現在、タキくんの独断により臨時休業中。
わたしたちは小さなちゃぶ台を挟み、向かい合って正座をしている。
タキくんに、アンケート用紙を見られてしまった。わたしがフランス留学を希望しないという決断をしたことを、知られてしまった。
「前も、フランス留学は狭き門だっていうのは聞いてた。だけど、自らそのチャンスすら掴みにいかない理由はなんなの?」
「…………」
この学校を選んだことを、ここにフランス留学という制度があるとタキくんに話した以前の自分の行動を、すべて後悔してしまいそうになる。
このアンケートさえ見られなければ、もし聞かれても「試験に落ちた」とごまかすことが出来ただろう。そのままここで働きながら、学ぶことができたはずだ。
どうして家で書かなかったんだろう。
勢いのままに行動してしまったことを悔やんでも、もう遅い。
無言のまま俯き続けるわたしに、タキくんはやはり問いかける。
「一花ちゃん、お菓子職人になりたいんでしょ?」
「……日本にいたって、なれます」
「本場のフランス菓子を学びたいって、ずっと言ってた」
「…………」
じりじりじりと、追い詰められていくわたし。崖っぷちぎりぎりに立っているのに、タキくんはそれでもわたしを逃がさない。
「一花ちゃん、なんで? あんなに行きたがってたのに。夢を叶えるための、大きなチャンスなんじゃないの?」
なんでそんなに問い詰めるの? どうしてそんなに怖い顔をしているの? なんでタキくんに怒られなきゃいけないの? わたしの人生なんだから、わたしの好きにしたっていいでしょ?
むくむくと膨れ上がる、わたしの黒い、嫌な気持ち。タキくんの行動はわたしのことを想ってのことだ。それは分かるのに、どうしても素直に受け取れない。
タキくんは、わたしがフランスに行っても寂しくないんだ。わたしのいない間にこの路地の空き店舗がなくなっても、がっかりしたりなんかしない。むしろ賑やかになったって、喜ぶんだろう。
そうやってどんどん皮肉さが顔を出し、じわじわとわたしの心を蝕んでいく。じりじりと痛くて苦しくて、だけどそれをどうしたらいいのかもわからない。
そんなわたしの気持ちなんて、タキくんはこれっぽっちも気付いていないのだろう。
なんで?の理由は──。
「……好きだから」
ここにいたい。そばにいたい。この空間の、一員でいたい。
目の前の彼をまとう空気が、氷のようにぴきりと固まる。わたしはその氷を打ち砕くよう、顔を上げて力任せに想いをぶつけた。
「タキくんが、好きだからだよ!」
ぱた、とちゃぶ台にまるいシミができる。それが涙だと気付くと同時に、雫はいくつもいくつも溢れて落ちる。
苦しい。痛い。つらい。
こんな形で伝えるつもりじゃなかった。もっとちゃんとした形で、笑顔でしっかり伝えたかった。
だってきっとわたしたち、ここまでうまくやってこれてたはずだから。然るべきときに恥じらいながらも想いを伝え、もしかしたら恋人同士になれたかもしれない。だけど今こんな形で伝えたって、タキくんがそれを喜んでくれるとは思えない。
それでも、言ってしまった。言わざるをえなかった。なんでどうしてと追い詰められたわたしは他に、この場で言うべき言葉がわからなかったのだ。
膝の上、握った拳がぷるぷる震える。爪先が手のひらに食い込んでヒリヒリする。だけどどうしようもなかった。この涙の止め方も、この震えの収め方も、この状況のまとめ方も、なにもわからない。
ただひたすらに、俯いたままに涙を落とすことしかできない。
「……一花ちゃん」
彼がゆっくりと、わたしの名を紡ぐ。
「ごめんね。もう、ここには来ないでほしい」
心臓が張り裂ける音を、わたしはどこか他人ごとのように聞いたのだった。
◇
「娘! 本当助かるわぁ! まずこの資料全部日付並び変えて。それ終わったらこの領収証を日付と種類ごとにわけて。飲食代はこっち、衣服はこっちね。そのあとにはメールの返信任せたいから声かけて! ああ忙しい!」
数日後、学校帰りのわたしはジョーさんのサロンにいた。タキくんに拒まれた翌日、スマホにジョーさんからバイトを頼みたいと連絡があったのだ。
「ほらっ早く手を動かしなさいよっ! 人間暇だと、ろくなこと考えないんだからっ!」
あれからわたしは、腑抜け状態になっている。タキくんとはあれ以来、一度も顔を合わせていない。タキくんは本当に優しいひとだ。そんな彼が軽率にあの言葉を吐いたとは思えない。
あのときのことを思い出すと、じわりと涙が滲んでしまう。学校の実習でも、失敗ばかりしてしまっている。
「娘、タキとなにがあったの? 仕方ないから聞いてやってもいいわよ」
「……ジョーさぁん」
涙を浮かべて顔をあげたわたしを見て、ジョーさんは大袈裟なため息をついた。
「なるほどね。それにしても娘、思ったより頑張ったじゃないの」
一連の話を聞いたジョーさんは、そう言うとわたしの頭をわしゃわしゃと撫でた。てっきり『それは娘が悪い!』などと言われることを覚悟していたので、少し拍子抜けしてしまう。
「フランスには行かないっていう意志は、もう学校側には伝えたの?」
「いえ……。来週提出することになっていて」
本当は、今日先生から提出するように言われたのを、忘れてしまったとごまかした。それは多分、自分でも自分がどうしたいのかわからなくなってしまったからだ。
「わたし、本当にフランスに行きたいと思ってたはずなんです。推薦してもらえるようにしっかりと頑張って、練習もたくさんして……。なのにいざそのチャンスがやって来たら、現状とそれを天秤にかけてしまって」
タキくんに恋をして、タキくんとの距離が近くなりすぎて、一緒にいる時間を重ねすぎて、その幸福感がわたしのすべてになってしまった。恋人でもないくせに、告白する勇気もなかったくせに。
「夢と愛、どっちを取るか──ねぇ」
ジョーさんの言葉に、わたしは心の中で『愛なんかじゃない』とつぶやく。わたしのこれは、そんな綺麗なものなんかじゃない。もっとどろどろとしていて、重たい油のようなものだ。
わたしがいない間に、タキくんに素敵な人が現われたらどうしよう。
わたしがいない間に、路地のテナントがいっぱいになったらどうしよう。
──自分の居場所がなくなったら、どうやって生きていけばいいのだろう。
そんなエゴを、愛だなんて呼んでいいわけがない。
「タキくんにはもう来るなって言われたので、フランスに行かない理由もなくなっちゃったんですけどね……」
タキくんのそばにいることも、この路地にお菓子屋さんを開くことも、もう二度と叶わない。わたしがフランスに行こうがどうしようが、タキくんとこの路地には関係のないことなのだ。
「わたし……なにがしたかったんだろう……自分のことなのに、わかんない……」
「あんたは、どんな自分でいたいのよ? なにをしたいかじゃなくって、どんな自分でいたいわけ?」
──どんな自分で?
そのとき、カランコロンと軽快なドアチャイムが鳴り響いた。
「あらっ! ヨッシーじゃないの!」
サロンに入ってきたのは、ジャケット姿の吉三さんだ。わたしは慌てて涙をぬぐうと、そちらへと笑顔を向けた。
入り口から少し距離のあるところにいたわたしの涙は、吉三さんからは見えなかったらしい。吉三さんは杖を持った右手を、「おう」と持ち上げてわたしに笑いかけた。
「今日はおめかししちゃって、またデートかしら?」
「いんやいんや、契約したいっちゅう人がおるもんでな。今タキが話してるんやが、一応同席しとこうと思っての」
「たしか残りの物件は、タッキー名義になってるんだったかしら?」
「そじゃそじゃ、生前贈与ちゅうもんがこないだやっとこ済んでの」
どくんと心臓が大きく揺れる。
テナントは、残りふたつ。ひとつは倉間酒店の三件奥で、もうひとつは隣の物件だ。ついこの間も不動産会社から、別の人が物件を検討していると電話が来ていたばかり。もしかしたら今から決まるその場所が、この路地で最後の空きスペースかもしれない。
だけどそれももう、わたしには関係のないことだ。
「このあたりも、いつの間にか本当に息を吹き返したわよねぇ」
「そうなあ。ほんに、生き返ったわな。ほいたら、行くわな」
「タッキーによろしく伝えて。〝約束通り、預かってるわよ〟って」
ファッファッという特徴的な笑い声と共に、吉三さんは店を後にした。シンと静まり返る店内で、くるりとジョーさんがこちらを振り返る。
それからツカツカと一本線を歩くようにこちらへやって来ると、シンクに置いてあった洋菓子の袋をぺりっと破く。これは百貨店にも入っている有名なお店の焼き菓子だ。
「この路地にも、もうちょっと洒落た店が入るといいわよねぇ」
「…………」
「そうそう、噂によるとテナント希望者はパティスリーを出したいらしいわよ」
「えっ……」
「その希望者が、三十ちょっとくらいの女なのよ。一年くらい前から希望を出し続けてるらしいんだけど、タッキーがごねてるらしいのよねぇ」
「一年くらい前……」
「あらっ、そういえばそのくらいの時期だったかしらね。娘がお菓子職人になる、って言い始めたのも」
ジョーさんの言葉に、ひとつの可能性が浮かび上がる。もしもそれが本当だとしたら、もしもわたしが考える通りだとしたら──。
「まあ一年越しの猛アピールを受けたら、タッキーもそろそろ折れる頃かしらねえ」
「──わたしっ! ちょっと行ってきます!」
そう言ったわたしは、ジョーさんのサロンを飛び出した。
タキくんと出会ってから、こんなことばかりだ。
いつも頭で考えすぎて、なかなか行動にうつせなかったわたし。そんなわたしが、この路地に足を踏み入れてからは、頭で考えるより先に体が動くという経験を何度もしてきた。
衝動に突き動かされるように。自分の心に、突き動かされるように。
タキくんのことがすき。タキくんのそばにいたい。できればここで、お菓子職人として生きていきたい。
──だけど、中途半端な自分で彼のそばにいたいわけじゃない。
「すみませんっ……!」
建付けの悪いガラス戸を勢いよく開くと、小上がりに腰掛ける吉三さんとタキくん、並べたパイプ椅子に座る不動産会社の人と三十代くらいの女性がいた。きっとこの人が、パティスリーを出したいと言っている人だろう。
わたしは「失礼します」とぺこりと一礼してから、まっすぐにタキくんを見つめた。
「一花ちゃ──」
「わたしフランスに行きます!」
届け、届け、届け──わたしの想い。
「フランスに行って、たくさん勉強して、すごい職人になって帰ってきます! 胸を張ってタキくんに想いを伝えられるような、そんな女性になって帰ってきます! だから、待っててください!」
一気に言わなければ、足がすくんでしまいそうだった。言葉が出なくなってしまいそうだった。
だって状況を冷静に考えたら、話し合いの最中に突然飛び込んできたわたしは、まるで意味不明の第三者だ。
そうやって今までは、なんでもかんでも考えすぎて、なにも動けなくなっていた。だけどそんな自分を変えてくれたのは、紛れもなくタキくんとこの路地のみんなだ。
「一花ちゃん……」
「わかってます! フランスから帰ってきたってすぐに店を出すことはできないし、何年かかるかわからないってこともわかってる。こんなお願いをするのが常識外れだってことも……」
だけどどうしても、譲れないものがある。譲れない自分がある。
「倉間酒店の隣には、わたしがお店を出すんです!」
コンクリート作りの古い店内に、しんとした静寂が広がっていく。わたしの息遣いだけが、これが現実であると証明する音となる。
それを破ったのは、吉三さんがパンッと打った、手の音だった。
「ま、そゆことでの。お話はさきほど、孫からあった通りですので。ささ、わしらは外へ出ましょうや。ほれ、路地の出口まで送りましょう。ささ」
吉三さんに促され、他の二人は何度かこちらを振り返りながらも店を出ていく。最後に出た吉三さんが、ガラガラぴしゃりと、扉を閉めた。
それを合図にしたかのように、固まっていたタキくんが力を吐く。突然襲ってきた現実味に、再び自分の行いを後悔しそうになったわたしは、強く歯を食いしばった。
──後悔なんか、しちゃだめだ。いまのわたしは、自分でこうありたいと願ったわたしだ。
「──フランスに行くって?」
「はい」
「俺に、待っててほしいって?」
こくんと無言で、顎を引く。
「何年も先の店のために、隣の物件をあけておいてほしいって?」
「……そうです」
「お店を本当にやるかどうかも、わからないのに?」
「絶対にやります!」
噛みつくような言い方になってしまったのに、タキくんはそこでくしゃりと顔を崩す。それが見えた瞬間、近づいた彼の腕の中へ、わたしは一気に包まれた。
タキくんの柔軟剤の匂い。やさしい温もり。トクトクと聞こえる、胸の鼓動。
──なにが起きているんだろう。どうしてタキくんが、わたしを抱きしめているんだろう。なにがなんだか、よくわからない。
「一花ちゃんは俺を救ってくれた人だから。俺も一花ちゃんの夢を全力で応援しようって決めてたんだ」
きつくきつく、彼の腕がわたしを包む。ドキドキして、それなのに安心して、わたしの視界はぶわりとあぶくで揺らいでしまう。
「もし想いを伝えたら、一花ちゃんの夢の邪魔になると思って。ずっとずっと我慢してた」
ああ。どうしよう。タキくんから聞く、本当の彼の気持ち。それは嘘や偽りではなく、心からの想いだと、彼の声や温度、小さな手の震えが語っている。
「──最初から、うちの店の隣は誰にも貸す気はなかったよ」
あたたかな腕の中、わたしはそっと視線を上げる。タキくんの眼差しが、やわらかなシャワーのようにわたしの体へ降り注いだ。
「一花ちゃんだけなんだ。俺の隣に、いてほしいって思う相手は」
自分という人間は、ときには誰より理解するのが難しい。
好きなものを好きと言って、嫌なことにはノーと言って、おもしろいことには声を上げて笑い、おかしなことには異議を唱える。
そうやって自分の思うままに生きていければいいけれど、実際にはそううまくいくことばかりじゃない。
だからわたしたちは、時には自分をごまかして、無理やりに納得させて、傷つかないよう偽って、本来の自分を失いそうになってしまう。
そんなときでも、自分を取り戻せる場所がこの世界にはきっとある。
そしてそこには、あなたの全部をわかってくれる人がいる。
どれほどたくさんの愛情をもらっているアイドルだって
すべてをなくし、からっぽになってしまったオンボロ酒店の店主だって
なりたい自分がわからずに、なんとなく息をしていた女子大生だって
そんなのは、みんなみんな同じなんだ。
──推しにも彼にも私にも、それからそこのあなたにも。そんな場所がきっとあるから。
完
「えっと……色々考えた結果、日本で勉強した方がいいかなって思って」
「留学を希望して、この学校を選んだんだよね?」
「…………」
倉間酒店は現在、タキくんの独断により臨時休業中。
わたしたちは小さなちゃぶ台を挟み、向かい合って正座をしている。
タキくんに、アンケート用紙を見られてしまった。わたしがフランス留学を希望しないという決断をしたことを、知られてしまった。
「前も、フランス留学は狭き門だっていうのは聞いてた。だけど、自らそのチャンスすら掴みにいかない理由はなんなの?」
「…………」
この学校を選んだことを、ここにフランス留学という制度があるとタキくんに話した以前の自分の行動を、すべて後悔してしまいそうになる。
このアンケートさえ見られなければ、もし聞かれても「試験に落ちた」とごまかすことが出来ただろう。そのままここで働きながら、学ぶことができたはずだ。
どうして家で書かなかったんだろう。
勢いのままに行動してしまったことを悔やんでも、もう遅い。
無言のまま俯き続けるわたしに、タキくんはやはり問いかける。
「一花ちゃん、お菓子職人になりたいんでしょ?」
「……日本にいたって、なれます」
「本場のフランス菓子を学びたいって、ずっと言ってた」
「…………」
じりじりじりと、追い詰められていくわたし。崖っぷちぎりぎりに立っているのに、タキくんはそれでもわたしを逃がさない。
「一花ちゃん、なんで? あんなに行きたがってたのに。夢を叶えるための、大きなチャンスなんじゃないの?」
なんでそんなに問い詰めるの? どうしてそんなに怖い顔をしているの? なんでタキくんに怒られなきゃいけないの? わたしの人生なんだから、わたしの好きにしたっていいでしょ?
むくむくと膨れ上がる、わたしの黒い、嫌な気持ち。タキくんの行動はわたしのことを想ってのことだ。それは分かるのに、どうしても素直に受け取れない。
タキくんは、わたしがフランスに行っても寂しくないんだ。わたしのいない間にこの路地の空き店舗がなくなっても、がっかりしたりなんかしない。むしろ賑やかになったって、喜ぶんだろう。
そうやってどんどん皮肉さが顔を出し、じわじわとわたしの心を蝕んでいく。じりじりと痛くて苦しくて、だけどそれをどうしたらいいのかもわからない。
そんなわたしの気持ちなんて、タキくんはこれっぽっちも気付いていないのだろう。
なんで?の理由は──。
「……好きだから」
ここにいたい。そばにいたい。この空間の、一員でいたい。
目の前の彼をまとう空気が、氷のようにぴきりと固まる。わたしはその氷を打ち砕くよう、顔を上げて力任せに想いをぶつけた。
「タキくんが、好きだからだよ!」
ぱた、とちゃぶ台にまるいシミができる。それが涙だと気付くと同時に、雫はいくつもいくつも溢れて落ちる。
苦しい。痛い。つらい。
こんな形で伝えるつもりじゃなかった。もっとちゃんとした形で、笑顔でしっかり伝えたかった。
だってきっとわたしたち、ここまでうまくやってこれてたはずだから。然るべきときに恥じらいながらも想いを伝え、もしかしたら恋人同士になれたかもしれない。だけど今こんな形で伝えたって、タキくんがそれを喜んでくれるとは思えない。
それでも、言ってしまった。言わざるをえなかった。なんでどうしてと追い詰められたわたしは他に、この場で言うべき言葉がわからなかったのだ。
膝の上、握った拳がぷるぷる震える。爪先が手のひらに食い込んでヒリヒリする。だけどどうしようもなかった。この涙の止め方も、この震えの収め方も、この状況のまとめ方も、なにもわからない。
ただひたすらに、俯いたままに涙を落とすことしかできない。
「……一花ちゃん」
彼がゆっくりと、わたしの名を紡ぐ。
「ごめんね。もう、ここには来ないでほしい」
心臓が張り裂ける音を、わたしはどこか他人ごとのように聞いたのだった。
◇
「娘! 本当助かるわぁ! まずこの資料全部日付並び変えて。それ終わったらこの領収証を日付と種類ごとにわけて。飲食代はこっち、衣服はこっちね。そのあとにはメールの返信任せたいから声かけて! ああ忙しい!」
数日後、学校帰りのわたしはジョーさんのサロンにいた。タキくんに拒まれた翌日、スマホにジョーさんからバイトを頼みたいと連絡があったのだ。
「ほらっ早く手を動かしなさいよっ! 人間暇だと、ろくなこと考えないんだからっ!」
あれからわたしは、腑抜け状態になっている。タキくんとはあれ以来、一度も顔を合わせていない。タキくんは本当に優しいひとだ。そんな彼が軽率にあの言葉を吐いたとは思えない。
あのときのことを思い出すと、じわりと涙が滲んでしまう。学校の実習でも、失敗ばかりしてしまっている。
「娘、タキとなにがあったの? 仕方ないから聞いてやってもいいわよ」
「……ジョーさぁん」
涙を浮かべて顔をあげたわたしを見て、ジョーさんは大袈裟なため息をついた。
「なるほどね。それにしても娘、思ったより頑張ったじゃないの」
一連の話を聞いたジョーさんは、そう言うとわたしの頭をわしゃわしゃと撫でた。てっきり『それは娘が悪い!』などと言われることを覚悟していたので、少し拍子抜けしてしまう。
「フランスには行かないっていう意志は、もう学校側には伝えたの?」
「いえ……。来週提出することになっていて」
本当は、今日先生から提出するように言われたのを、忘れてしまったとごまかした。それは多分、自分でも自分がどうしたいのかわからなくなってしまったからだ。
「わたし、本当にフランスに行きたいと思ってたはずなんです。推薦してもらえるようにしっかりと頑張って、練習もたくさんして……。なのにいざそのチャンスがやって来たら、現状とそれを天秤にかけてしまって」
タキくんに恋をして、タキくんとの距離が近くなりすぎて、一緒にいる時間を重ねすぎて、その幸福感がわたしのすべてになってしまった。恋人でもないくせに、告白する勇気もなかったくせに。
「夢と愛、どっちを取るか──ねぇ」
ジョーさんの言葉に、わたしは心の中で『愛なんかじゃない』とつぶやく。わたしのこれは、そんな綺麗なものなんかじゃない。もっとどろどろとしていて、重たい油のようなものだ。
わたしがいない間に、タキくんに素敵な人が現われたらどうしよう。
わたしがいない間に、路地のテナントがいっぱいになったらどうしよう。
──自分の居場所がなくなったら、どうやって生きていけばいいのだろう。
そんなエゴを、愛だなんて呼んでいいわけがない。
「タキくんにはもう来るなって言われたので、フランスに行かない理由もなくなっちゃったんですけどね……」
タキくんのそばにいることも、この路地にお菓子屋さんを開くことも、もう二度と叶わない。わたしがフランスに行こうがどうしようが、タキくんとこの路地には関係のないことなのだ。
「わたし……なにがしたかったんだろう……自分のことなのに、わかんない……」
「あんたは、どんな自分でいたいのよ? なにをしたいかじゃなくって、どんな自分でいたいわけ?」
──どんな自分で?
そのとき、カランコロンと軽快なドアチャイムが鳴り響いた。
「あらっ! ヨッシーじゃないの!」
サロンに入ってきたのは、ジャケット姿の吉三さんだ。わたしは慌てて涙をぬぐうと、そちらへと笑顔を向けた。
入り口から少し距離のあるところにいたわたしの涙は、吉三さんからは見えなかったらしい。吉三さんは杖を持った右手を、「おう」と持ち上げてわたしに笑いかけた。
「今日はおめかししちゃって、またデートかしら?」
「いんやいんや、契約したいっちゅう人がおるもんでな。今タキが話してるんやが、一応同席しとこうと思っての」
「たしか残りの物件は、タッキー名義になってるんだったかしら?」
「そじゃそじゃ、生前贈与ちゅうもんがこないだやっとこ済んでの」
どくんと心臓が大きく揺れる。
テナントは、残りふたつ。ひとつは倉間酒店の三件奥で、もうひとつは隣の物件だ。ついこの間も不動産会社から、別の人が物件を検討していると電話が来ていたばかり。もしかしたら今から決まるその場所が、この路地で最後の空きスペースかもしれない。
だけどそれももう、わたしには関係のないことだ。
「このあたりも、いつの間にか本当に息を吹き返したわよねぇ」
「そうなあ。ほんに、生き返ったわな。ほいたら、行くわな」
「タッキーによろしく伝えて。〝約束通り、預かってるわよ〟って」
ファッファッという特徴的な笑い声と共に、吉三さんは店を後にした。シンと静まり返る店内で、くるりとジョーさんがこちらを振り返る。
それからツカツカと一本線を歩くようにこちらへやって来ると、シンクに置いてあった洋菓子の袋をぺりっと破く。これは百貨店にも入っている有名なお店の焼き菓子だ。
「この路地にも、もうちょっと洒落た店が入るといいわよねぇ」
「…………」
「そうそう、噂によるとテナント希望者はパティスリーを出したいらしいわよ」
「えっ……」
「その希望者が、三十ちょっとくらいの女なのよ。一年くらい前から希望を出し続けてるらしいんだけど、タッキーがごねてるらしいのよねぇ」
「一年くらい前……」
「あらっ、そういえばそのくらいの時期だったかしらね。娘がお菓子職人になる、って言い始めたのも」
ジョーさんの言葉に、ひとつの可能性が浮かび上がる。もしもそれが本当だとしたら、もしもわたしが考える通りだとしたら──。
「まあ一年越しの猛アピールを受けたら、タッキーもそろそろ折れる頃かしらねえ」
「──わたしっ! ちょっと行ってきます!」
そう言ったわたしは、ジョーさんのサロンを飛び出した。
タキくんと出会ってから、こんなことばかりだ。
いつも頭で考えすぎて、なかなか行動にうつせなかったわたし。そんなわたしが、この路地に足を踏み入れてからは、頭で考えるより先に体が動くという経験を何度もしてきた。
衝動に突き動かされるように。自分の心に、突き動かされるように。
タキくんのことがすき。タキくんのそばにいたい。できればここで、お菓子職人として生きていきたい。
──だけど、中途半端な自分で彼のそばにいたいわけじゃない。
「すみませんっ……!」
建付けの悪いガラス戸を勢いよく開くと、小上がりに腰掛ける吉三さんとタキくん、並べたパイプ椅子に座る不動産会社の人と三十代くらいの女性がいた。きっとこの人が、パティスリーを出したいと言っている人だろう。
わたしは「失礼します」とぺこりと一礼してから、まっすぐにタキくんを見つめた。
「一花ちゃ──」
「わたしフランスに行きます!」
届け、届け、届け──わたしの想い。
「フランスに行って、たくさん勉強して、すごい職人になって帰ってきます! 胸を張ってタキくんに想いを伝えられるような、そんな女性になって帰ってきます! だから、待っててください!」
一気に言わなければ、足がすくんでしまいそうだった。言葉が出なくなってしまいそうだった。
だって状況を冷静に考えたら、話し合いの最中に突然飛び込んできたわたしは、まるで意味不明の第三者だ。
そうやって今までは、なんでもかんでも考えすぎて、なにも動けなくなっていた。だけどそんな自分を変えてくれたのは、紛れもなくタキくんとこの路地のみんなだ。
「一花ちゃん……」
「わかってます! フランスから帰ってきたってすぐに店を出すことはできないし、何年かかるかわからないってこともわかってる。こんなお願いをするのが常識外れだってことも……」
だけどどうしても、譲れないものがある。譲れない自分がある。
「倉間酒店の隣には、わたしがお店を出すんです!」
コンクリート作りの古い店内に、しんとした静寂が広がっていく。わたしの息遣いだけが、これが現実であると証明する音となる。
それを破ったのは、吉三さんがパンッと打った、手の音だった。
「ま、そゆことでの。お話はさきほど、孫からあった通りですので。ささ、わしらは外へ出ましょうや。ほれ、路地の出口まで送りましょう。ささ」
吉三さんに促され、他の二人は何度かこちらを振り返りながらも店を出ていく。最後に出た吉三さんが、ガラガラぴしゃりと、扉を閉めた。
それを合図にしたかのように、固まっていたタキくんが力を吐く。突然襲ってきた現実味に、再び自分の行いを後悔しそうになったわたしは、強く歯を食いしばった。
──後悔なんか、しちゃだめだ。いまのわたしは、自分でこうありたいと願ったわたしだ。
「──フランスに行くって?」
「はい」
「俺に、待っててほしいって?」
こくんと無言で、顎を引く。
「何年も先の店のために、隣の物件をあけておいてほしいって?」
「……そうです」
「お店を本当にやるかどうかも、わからないのに?」
「絶対にやります!」
噛みつくような言い方になってしまったのに、タキくんはそこでくしゃりと顔を崩す。それが見えた瞬間、近づいた彼の腕の中へ、わたしは一気に包まれた。
タキくんの柔軟剤の匂い。やさしい温もり。トクトクと聞こえる、胸の鼓動。
──なにが起きているんだろう。どうしてタキくんが、わたしを抱きしめているんだろう。なにがなんだか、よくわからない。
「一花ちゃんは俺を救ってくれた人だから。俺も一花ちゃんの夢を全力で応援しようって決めてたんだ」
きつくきつく、彼の腕がわたしを包む。ドキドキして、それなのに安心して、わたしの視界はぶわりとあぶくで揺らいでしまう。
「もし想いを伝えたら、一花ちゃんの夢の邪魔になると思って。ずっとずっと我慢してた」
ああ。どうしよう。タキくんから聞く、本当の彼の気持ち。それは嘘や偽りではなく、心からの想いだと、彼の声や温度、小さな手の震えが語っている。
「──最初から、うちの店の隣は誰にも貸す気はなかったよ」
あたたかな腕の中、わたしはそっと視線を上げる。タキくんの眼差しが、やわらかなシャワーのようにわたしの体へ降り注いだ。
「一花ちゃんだけなんだ。俺の隣に、いてほしいって思う相手は」
自分という人間は、ときには誰より理解するのが難しい。
好きなものを好きと言って、嫌なことにはノーと言って、おもしろいことには声を上げて笑い、おかしなことには異議を唱える。
そうやって自分の思うままに生きていければいいけれど、実際にはそううまくいくことばかりじゃない。
だからわたしたちは、時には自分をごまかして、無理やりに納得させて、傷つかないよう偽って、本来の自分を失いそうになってしまう。
そんなときでも、自分を取り戻せる場所がこの世界にはきっとある。
そしてそこには、あなたの全部をわかってくれる人がいる。
どれほどたくさんの愛情をもらっているアイドルだって
すべてをなくし、からっぽになってしまったオンボロ酒店の店主だって
なりたい自分がわからずに、なんとなく息をしていた女子大生だって
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