推しにも彼にも私にも

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 翌朝、ずきずきと痛む頭を持ち上げると、見覚えのある六畳間が視界に映った。

 ──あれ、なんでわたしここに……。

「あ、起きた? おはよう」

 ぼんやりとする頭で、意識と視点をフォーカスさせる。
 
 えっと、昨日は芽衣とバイト先で飲んでそれからタキくんに会ってみたいって言う芽衣を連れてここに来て、黒沢とジョーさんが来てそれで──。

 バッと勢いよく体を起こし、手元にあったタオルで顔を隠す。
 こんな寝起きの顔をタキくんに見られるなんて!
 どうやら酔った末にここで眠ってしまったらしい。周りを見るも、わたしより先に寝落ちたはずの三人の姿はない。恐る恐るタオルから目だけ上げると、タキくんはそんなわたしを気にする風でもなく、とぽとぽと緑茶を淹れていた。

「二日酔いとか、大丈夫?」
「は、はい……」
「じゃあ一杯飲んだら、行こうか」
「へ?」

 タキくんは黄色いプラスチックの丸い桶を持ち上げて笑う。

「銭湯。朝風呂、気持ちいーよ」



 カポーン、とどこか懐かしい音が脳天を突き抜ける。こんな銭湯が近くにあったなんて、知らなかった。

 緑茶をすすったわたしたちはタキくんの宣言通り、十五分ほど歩いた場所にある小さな銭湯に来ていた。知らなかったのだが、あのお店にあるのは小さなシャワーだけ。そのためタキくんは週の半分ほどは、この銭湯に通っているとのことだった。
 早朝六時から深夜二時までやっているこの銭湯は、イメージ通り壁に富士山が描かれている。

「一花ちゃーん」
「はっ、はいッ!」

 多くの銭湯がそうであるように、女湯と男湯の間にはコンクリートの壁があるだけ。しかも上部はあいているため、こんな風に姿見ずとも会話することができてしまう。
 時刻は午前九時半で、ちょうど男湯も女湯も、タキくんとわたし以外にお客さんがいないと番頭さんが教えてくれた。

「ごめんっ、一花ちゃんのセットに石けん入れ忘れた!」

 もくもくと湯気がたちこめるこの空間で響く、タキくんの声。それはなんだかいつものとは少し違く聞こえてしまって、わたしはひとりでドキドキする心臓を必死に抑える。
 タキくんはきちんとお風呂のセットをわたしの分まで用意してくれていた。銭湯でよく見かけるカエルのキャラクターが印刷された黄色い桶。綺麗なタオルが二枚と、携帯用のシャンプーリンス。それらはどれもぴかぴかの新品で、本当にわたしが使っていいのか、ちょっと躊躇してしまったほどだ。

「あのさ、壁に穴があいてるでしょ? いまからそっちに石けん落とすから、それ使ってね!」

 わたしは熱めの湯舟から出ると、さきほど確認した〝石けん渡し〟のそばへと向かう。これは、まさに今みたいな状況のときに石けんを渡せる便利なものだ。男湯と女湯では空いている穴の位置が違うため、もちろんそこからなにかが見えることはない。
 その穴から、つるんと白い石けんが転がり落ちる。わたしはそれをキャッチすると、洗い場へとそのまま向かった。

「タ、タキくん! 受け取りました! ありがとう!」

 声を張り上げると、自分の声もまたぼわんぼわんと反響する。お風呂場だからだろうか、それだけなのになんだか恥ずかしく感じてしまう。

 タキくんと、同じ石けんを使う。

 やましいことがあるわけでもないのに、そんな些細なことがひどくひどく恥ずかしい。それでいて、胸の奥がきゅうっとなる。心臓を取り出して、思いきりカリカリと掻きたくなっちゃうくらい、このあたりがむず痒い。だけどすごく、幸せだなとも思ってしまう。

 低い椅子に腰をかけ、真っ白なタオルに石けんを包んで泡立てる。普通のタオルだから、スポンジのようにもこもこの泡はできないけれど、なんだかこれもまた〝銭湯に来た〟って感じがする。

「一花ちゃんさ、学校どこにするか決めたのー?」

 どうやらタキくんはこのまま、会話をすることにしたらしい。断る理由もないわたしは、恥ずかしさを押し込めてそれに応えることにする。

「一応、第一志望は決めましたー。音羽製菓学校っていうところがいいなって」

 いまの家は気に入っている。専門学校の学費は自分でまかなうと両親には話したため、バイトも続けたい。
 同じ新宿区にある音羽製菓学校は立地的にも申し分なく、そしてなにより、カリキュラムや校風が魅力だった。専門学校とは言っても、やはりそれぞれに特徴やカラーがある。見学や相談会に何度か足を運んだ中、この学校で学びたいと強く思ったのだ。

「春からは、寂しくなっちゃうな」

 少しの沈黙のあと、タキくんの声が響く。それはここまでの張り上げたものとは異なり、彼の独り言が湯気と湯気の隙間から落ちてきたような感じのものだ。
 もしかしたらタキくんは、それがわたしに届いているとは思ってもいないのかもしれない。

 きゅっと胸がまた、切なく鳴き声をあげる。

 タキくんも、わたしと一緒にいることを楽しいと思ってくれていますか?
 タキくんも、わたしと過ごす毎日が当たり前になっているのかな。
 ──そうだったら、嬉しいな。

「手伝いにはいけなくても、毎日倉間酒店に行きます! タキくんに、会いに行きます!」

 今日一番の、大きな大きな声を出した。タキくんの「待ってるね」が響いたのは、それからちょっと経ってからのことだった。







 時間は驚くほどの速さで過ぎていった。倉間酒店を手伝っている間にあっという間に秋が通り過ぎて冬が来て、大学を卒業したわたしは専門学生となった。
 昼間は学校、夕方にタキくんに顔を見せ、バイトへ向かう。シフトに入っていない日には倉間酒店を閉店までのお手伝い。倉間酒店の経営が軌道にのってきたため、わたしはボランティアからアルバイトへと昇級したのである。

「井上さん、ちょっといい?」

 ある日、講義が終わって帰り支度をしていたわたしに、先生が声をかけてきた。この先生は過去、フランスの有名パティスリーで働いていた経験を持つベテランの先生だ。味はもちろんのこと、繊細で独創的なスイーツを作るそのオリジナリティに、わたしは強いあこがれを持っている。

「あなた、大学でフランス語学んでたって言ってたわよね?」
「あ、はい。第二外国語で選択していたというだけなので、そこまで話せるわけじゃないんですが……」

 先生からは、たまにこうして個人的に声をかけてもらうことがあった。同期生たちはみな高校を卒業して入ってきた子たちばかりだから、年齢が四つ分頭抜けていたわたしのことをなにかと気遣ってくれているのだと思う。
 先生は美しい姿勢のまま微笑むと、「やっぱり井上さんを推薦するわ」と手元の資料にペンを走らせた。それからこう言ったのだ。

「フランスに、行ってみない?」







「一花ちゃん大丈夫? 体調悪い?」

 タキくんの声に、わたしはハッと我に返る。今日は倉間酒店でバイトの日だ。せっかくタキくんと一緒に働けているというのに、知らぬうちにぼうっとしてしまったらしい。

「ううん大丈夫です! めっちゃ元気!」

 そう言って大袈裟なほどに腕まくりをして見せると、タキくんはえくぼを作って笑った。その笑顔はわたしを癒し、幸せな気持ちで満たしてくれる。

 タキくんとわたしの関係は、以前変わらぬ平行線を辿っている。いや、お手伝いさんと店主さんから、アルバイトと雇用主という関係には変わったけれど。

 わたしのタキくんへの想いは、日を重ねるごとにどんどん大きくなっていく。好きという感情に、上限はないのだろうか。たまにそんなことを考えてしまうほどには、わたしは彼のことがだいすきだった。
 そしてタキくんも、わたしのことをそれなりに特別に思ってくれているようには感じている。
 ほぼ毎日のように顔をあわせているにも関わらず、寝る前には電話でおしゃべり。銭湯だって、週に一度くらいは一緒に向かう。そうそう、あのときに用意されていた銭湯セットは、実はわたしのために買いそろえてくれていたらしい。のちにジョーさんが教えてくれた。
 倉間酒店で働く日の夕飯はふたりで必ず一緒に食べるし、お休みの日にはちょっと出かけたりもする。今年の初詣だって、ふたりで行ったのだ。

 わたしたちは恋人同士なんかじゃない。だけどきっと、もしかしたら、そこまであと少しなんじゃないかなと思ってしまう自分もいる。自惚れだって、笑われちゃうかもしれないけれど。

「あ! 今日学校でマカロン作ったんです。タキくんに食べてもらいたいなと思って持ってきた!」
「お、ほんと? 一花ちゃんの作ったお菓子は俺が食べないと」

 ほら、鼻歌を歌いながらこんなことを言ってくれる。だけど誰にでもいうわけじゃないってことも、今のわたしはわかってるんだ。
 胸の奥がきゅんとする。だけどそれと同時に、今日の先生の話がわたしの心に暗雲を渦巻いていく。

 音羽製菓学校の大きなウリは、在学中にフランスの有名パティスリーに一年間、修行に行けるという点だ。この学校を選んだときには、そこに大きな魅力を感じていた。
 もちろん海外へ行かずとも、お菓子職人になることはできる。それでも、できれば本場の地で学んでみたいと思っていたことも事実だ。しかし、まさか自分がその立場になるとは正直思ってもいなかった。
 そのプログラムに参加できるのは、講師陣が推薦し試験をパスしたわずか五人。まだ試験はあるけれど、まさか推薦をもらえることになるとは。

 うまい!と目の前でわたしの作ったお菓子を食べるタキくん。本当においしそうに食べてくれる。どんなお菓子でも、褒めてくれる。「一花ちゃんは世界一のお菓子職人になれるね!」って、応援してくれる。

 ──離れたくないな。

 そんな想いが、わたしの中心にすとんと落ちる。

 恋愛なんかで夢を手放すなんて、ばかばかしいって思ってた。ましてや付き合っているわけでもなんでもない。それでも今一緒にいるこの瞬間が、なによりも愛おしい。絶対に、失いたくない。

 それになにより、別に夢を諦めるわけじゃない。そもそも、お菓子職人になってこの路地にお店を出すのがわたしの目標だ。それは、フランスに行かなくても努力次第で実現させることができる。
 この路地のテナントで現在あいているのは、倉間酒店の隣の元スナックと、三軒先の元カラオケバーのふたつ。いつ誰が入っても、おかしくはない状況だ。

 わたしはいつかここに自分のお店を出すのだと、勝手に夢を見ていた。しかし、想像していた以上のスピードでこの場所の噂は広まっていき、今では人気の物件と呼ばれるようにまでなってしまったのだ。
 もちろん専門学校を出ていきなりお店を出せるような実力や財力、そして信頼もわたしにはない。学校を出たらしばらく別のケーキ屋さんで働き、満を持してお店を持つという流れになるだろう。
 それにはきっと、数年の月日がかかる。

 じりりとした焦燥感がわたしの胃のあたりを圧迫する。

 一度入ったテナントは、よっぽどのことがない限り、そこを離れはしないだろう。

 フランスに行けば、本場のお菓子作りを学ぶことができる。
 だけど日本にいれば資金集めや経営など、お店を出すための知識を蓄えることができる。

 一日も早く、ここでお店を出したい──。
 タキくんのそばで、夢を叶えたい──。

「……決めた」

 わたしはそう言ってタキくんに背を向けると、リュックからクリアファイルを取り出す。そこに挟んであるのは、今日配られたアンケート用紙。これは生徒全員に配られる、フランス留学を希望するかどうかを調査するものだ。

「どうかしたの?」
「ううん、ちょっと学校のことで」

 背中からの問いかけに、わたしは振り向かずにその場で用紙にペンを走らせる。

 クラス : 製菓A
 氏名 : 井上一花

 その勢いのまま、最後の項目に丸をつけた。

 ──フランス留学を 希望しません。

「ちょっと待って」

 多分わたしは、焦燥感とタキくんへの想いからの決断を下したばかりで、ちょっと高揚していたのかもしれない。タキくんが後ろからわたしの手元を覗いていたことに、わたしはそのときはじめて気づいたのだった。





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