婚約継続中なのに逃亡?元悪役令嬢、勘違いで癒しカフェ開店中

しずく葉

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⒌木の温もりと、静かな癒し

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その日、《cafe fuu》には春のやわらかな光が差し込んでいた。
クラリッサは庭先のハーブの鉢を手入れしていたが、ふと店の扉が開く音に振り返った。


「いらっしゃいませ――」

扉の前に立っていたのは、大柄な男だった。
くたびれた作業服に、重い足取り。それでもどこか、静かな目をしていた。

「……こんなところに、カフェがあったんだな」

迷いながらも男は中へと足を踏み入れ、窓辺の席に腰を下ろした。
その足元へ、いつの間にかルアが寄ってきて、静かに座り込む。

「……珍しいな。動物ってのは、気まぐれなもんだと思ってたが……」

クラリッサは微笑み、そっと紅茶を差し出す。

「本日の一杯は、リンデンとオレンジフラワーのブレンドですの。
心をすうっと軽くして、元気を少し分けてくれますのよ」

男は、しばらくカップを見つめてから、それを口に運んだ。


「……ああ、あいつが淹れてくれたのも……こんな香りだったな」

その言葉とともに、静かに心の扉が開いていく。

──「行ってらっしゃい。今日も遅くなるの?」
──「ああ、注文が立て込んでてな。帰る頃にはもう真っ暗だろう」

それが、いつものやりとりだった。
笑顔で見送る妻。黙々と仕事に打ち込む日々。
家のため、彼女のため――そう信じて、腕一本で木を刻み、作り続けてきた。

だが――ある日、帰宅すると、妻が床に倒れていた。

「ただの風邪よ、バート。すぐに治るから、大げさにしないで」

「……ごめん……最近ずっと顔色悪かったよな。それなのに、俺は……」

診察の結果は――静かに進行する病だった。

「あと数ヶ月」と告げられた時、バートの頭は真っ白になった。

もっと早く医者に見せていたら、もしかしたら……。

「バート。あなたが私のために頑張ってくれてたの、知ってるよ。……それだけで、十分だから」

「……そんなこと言うなよ。まだ……何も返せてないのに……!」

彼女は最期まで、微笑んでいた。やさしくて、温かくて、どこまでも静かだった。

それ以来、バートは道具を手にすることができなかった。
削る木の香りも、槌音も、何もかもが――彼女を思い出させた。

森の外れの小屋で、最低限の蓄えで細々と暮らす。
仕事もせず、誰とも関わらず、ただ、日々をやり過ごすように生きていた。

だが、この店に足を踏み入れたとき――

「……少しだけ、あの頃の香りがしたんだ」

男は呟いた。目は伏せられたまま。

クラリッサはそっとルアの毛を撫でながら、やさしく答える。

「温かい記憶がある方は、きっと今も、それに支えられて生きていらっしゃるのですわ。
無理に忘れようとしなくても……その痛みごと、抱きしめてしまっても、いいのですのよ」

男は、しばらく無言でカップを見つめ――ゆっくりと、もう一口を飲んだ。

「……あんた、不思議な人だな。……ふっと、軽くなる。ほんの少しだけど」

――それから、男はふとした時にこのカフェを訪れるようになる。
無骨な背中をほんの少しだけ軽くして――。



* * *



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