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スイ

〈9〉

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愛昼は服を着替え、やらなければならないことをメモに書き込んでポケットにしまった。更衣室を出たところで神妙な顔をした笹木と会った。
嫌な予感がした。愛昼の顔がさっと暗くなる。
笹木は愛昼の顔を見ながらゆっくりと口を開いた。
「被害者が亡くなった」
覚悟はしていたものの、一瞬意味のある言葉として頭に入ってこなかった。その後素早く意味を理解して、愛昼は落胆と失意に襲われた。
「……そう」
絞り出せた言葉はそれだけだった。自分のことながらもっといい言葉が思い付かなかったのかとも思うが、そのときはそれが限界だった。
「こうなると加害者とドライブレコーダーしか証言がなくなる」
笹木の言葉に愛昼は頷く。ショックで固まった頭をなんとか動かす。
「ドライブレコーダーは見つかったの?」
笹木が首を振る。
愛昼はがっかりしたが、今度は
「加害者の主張に何か進展は?」と尋ねた。
笹木は頷くと、愛昼に向かって手招きをして歩き出した。愛昼が後を追いかける。
笹木は誰もいない部屋に愛昼を招き入れると辺りを憚りながら静かに扉を閉めた。そして机に浅く腰かける愛昼の方を振り返る。
「昨日、周辺住民が何度かクラクションの音がなったと言っていたことを伝えただろう」
笹木の言葉に愛昼は頷く。
「そのことを加害者に聞いてみたところ、加害者は『あのとき被害者は蛇行運転を繰り返していた』と言った。そのため、注意を促すために何度かクラクションを使ったそうだ」
「蛇行運転?」と愛昼がピクリと眉を動かす。
「ああ。速度調整もおかしく、危ないと思った加害者は、そのバイクを追い抜こうとして速度をあげたときに追突したそうだ」
愛昼が腕を組む。
「おかしなところがあるわね。危ないと思ったならどうしてバイクの後ろをついていったのかしら?別の道を行けば追い抜くより安全なはずよ」
笹木が頷いて手元の資料をめくる。
「それについて加害者は『目的地への行き方をその道以外知らなかったから』と述べている。車についているカーナビは一度も使ったことがなかったらしい」
それを聞いて愛昼はすっきりしないような顔で考え込む。
「被害者は蛇行運転をしていた……。何故かしら」
笹木も首を捻る。
「朝も早かったから居眠りをしていたのかもしれないな」
そう何気なく笹木が言った言葉に愛昼ははっとした。確かにバイクはその日の朝、被害者が急いでいたと証言していた。
そしてその後『いつもと違うことは何かあった?』という質問にたいして口を閉ざしてしまった。『いつもと違うこと』が居眠りによる蛇行運転や不適切な速度調整だったとしたら……。
そこまで推理して愛昼は違和感を感じた。
(いくら寝不足だからといって、バイクの運転手って運転中に眠くなるものかしら?)
自動車の運転手が居眠り運転をすることはよくあるが、バイクは風を自分の体で受け止めている。眠気など吹っ飛んでしまうような気がするのだが……。
考え込んでいる愛昼を見ながら笹木が言う。
「まあ、ドライブレコーダーが見つかれば全て明らかになるだろう。もう少しくまなく車内を探索してみてくれないか?」
笹木の頼みに愛昼は頷いた。
「よし。では頼む」
笹木はそう言ったあと、愛昼を見て心配そうな顔をした。
「そうはいっても、凪。あまり無理はするなよ。休むときは休め」
笹木の言おうとしていることに気づいて、愛昼は安心させるよう微笑んでみせた。
「ええ。ありがとう」
愛昼がそう言うと笹木は恥ずかしそうにそっぽを向いた。そしてそそくさと部屋から出ていった。
愛昼もその後に続いて部屋を出ようとしたとき、ふとあの男の言葉を思い出した。
『もし被害者が亡くなったら、真っ先に俺に教えてください』
(真っ先に、ね……)
愛昼は扉を閉めると迷うことなく階段の方へ向かった。

パトカーの近くに男はいなかった。恐らく今は人型で出てきていないのだろう。愛昼はパトカーの窓をコンコンと叩いた。
しかし返事はない。
「ねえ、あなたに話があるんだけど」
そう言ってみるもパトカーはうんともすんとも答えない。
(もしかして、無視されてる?)
そう思いながら車の中を覗きこんでいると背中側から
「そいつ、今お出掛け中ですよ」と声がした。
振り返るが誰もいない。隣に停まっているパトカーがあるだけだ。
しかし、今の愛昼には誰が話したかすぐにわかる。
「お出掛け?車が?」
信じられないといったように愛昼が呟いた。
(まさか車がお出掛けをするなんて!)
愛昼があぜんとしていると、しゃべったパトカーの隣に駐車してあったパトカーがとがめるように口を開いた。
「馬鹿、黙っとけって」
そう言うと最初に発言したパトカーが
「まあいいじゃん。あいつ、どこに行ったかとか全然教えてくれないし」と言った。
「どこに行ったかは分からないのね?」
そう尋ねるとそのパトカーが頷く。
「ええ。さっぱりですよ」
それを聞いて愛昼は考え込む。
車の行くところなど見当のつけようがない。
(困ったわね)
するとここから少し先の、出入り口に一番近いところに停まっていたミニパトが何かを言ったのが聞こえた。
「あいつに聞いてみたらどうです?何か知ってるみたいですよ」
愛昼はそのパトカーにお礼をいうとミニパトの方へ向かった。
「一番奥のパトカーがどこにいるか知らない?」
ミニパトは甲高い声で「大体は分かりますよ」と言った。
「彼はいつもこの出入り口から建物の中に入っていくんです。だから建物内のどこかにいると思いますよ」
愛昼はそれを聞いて仰天した。そんな堂々と大勢の人間の前に姿を現すなんて、あの男はなかなか肝がすわっているようだ。
愛昼はミニパトにお礼をいうと、慌てて出入り口から建物内に飛び込んだ。

一階のあちこち探してみたが男は見つからなかった。いかんせん相手も警官の格好をしているので見分けがつきにくい。唯一の特徴とすれば、頬に自動車会社のエンブレムがあることと、ナンバープレートの書かれた腕章をつけていることだ。
何人か知り合いに聞いてみたところ、彼は階段を上がって行ったことが分かった。
愛昼は目撃証言を頼りに男の後を追った。
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