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エース

〈10〉

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叶夜は普段の技能教習で教習生に走らせる道を進む。教習車を自分が運転しているのは、なんだか妙な気分だ。叶夜は他の教習車とすれ違わないかドキドキしながら車を走らせた。
叶夜は自分の気分が段々落ち着いてきているのを感じた。やはり運転というのは楽しいし、気持ちがいい。今自分が置かれている状況を忘れてしまいそうなほどだ。
エースは発車時以来特に不具合を起こすことはなかった。いつものようにスムーズに車道を進んでいった。

適当にあちこちを走ってみたが、本当にこれでいいのだろうか。耳を澄ませてみるも、エースは何か言っているのかもしれないが、叶夜には全く聞こえない。
叶夜は車を運転しながら、車の声が聞こえるという男『関朝陽』のことを考えていた。
叶夜は、次第に彼の言うことを信じてきていた。彼は嘘をついているように見えなかったし、実際先ほどの出発の時に妙なことがたくさん起こったからだ。
(一度、関さんに電話してみようかな……)
そう思い、近くにあった店の駐車場に車を入れた。店の方に歩いていく人がこちらをちらちら見るのがなんとも恥ずかしかったが仕方がない。
叶夜は携帯電話をとり出し電話をかけた。
少し経って電話の向こうから「関です」と声がした。
「あ、叶夜です。あちこち回ってみたんですけど、どうでしょうか」
「ちょっと待っていてください」と関が言う。そして少々大声で
「エース、聞こえるか?」と呼びかけた。
関はしばらく相づちを打ったあと、叶夜に話しかけた。
「叶夜さん。エースはすっかりドライブを楽しんでいるみたいです」
それを聞いて叶夜はほっとする。
「ということはもう車から出してくれるということですね?」
嬉々として言う叶夜に「そうなのですが」と関が申し訳なさそうに続ける。
「『叶夜ともっとドライブしたい!もっとあちこちに行きたい!』と言っています。あー、あなたには聞こえないかもしれませんが今もずっと言っています」
そうげんなりしたように言う関に叶夜もため息をついた。
「あなたも大変でしょうけど、もう少しエースのわがままに付き合ってあげてください。お願いします」
関はそう言ったあと電話を切った。叶夜は息を吐きながら背もたれにもたれかかり天井を見る。
小さな子供がルーフの上にいて、うつ伏せになって頬杖をつきながらこちらを見ている映像が浮かんだ。何故そのような映像が浮かんだのかは分からないが、なんとなくその子供がエースのような気がしたのだ。
叶夜は天井を眺めてから目をつむった。しかし、頭の中がごちゃごちゃしており、残念ながらたいした休憩にはならなかった。
叶夜は少し経ってから目を開け、肩を回してから車を発車させた。

朝陽は叶夜からの電話を切ったあと、あちこちから口々に聞こえてくる声にため息をついた。
「ねえ、私の停まっているところの上に鳥の巣があって、しょっちゅう糞が落ちてくるのよ。どこか別の場所に移すよう頼んでくれない?」
「僕のところ直射日光があたって熱いんだ。ねえ、君から頼んできてよ!」
セラとエックスのせいで、『朝陽が車の声が聞こえる』ということが全教習車の間に瞬く間に広がってしまった。そのため、今、朝陽は文句や不満のある車に呼び止められ人間に伝えるよう頼まれていた。
「あのなあ、俺は『車のためのなんでも相談所』ではないぞ」
そう車達の要求を鬱陶しそうに聞く朝陽に「あら、いいではないですか」とセラが言う。
「せっかく私たちの言葉が分かる人間なんですもの。私たちの要望を人間に伝えることくらい、やってくれてもいいのではなくって?」
セラに正論を言われ朝陽はため息をついた。そして渋々と
「分かったよ。じゃあ順番に並べ。一人ずつ聞いてやる」と言った。
喜ぶ車達を背に、仕事仲間を作るべく朝陽はリオンを探した。
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