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夏のある日

〈1〉

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出動命令が出て、愛昼は足早に屋内駐車場に向かう。
パトカーの方に向かって歩みを進めていると、ぼそぼそと小さな話し声が聞こえてきた。
不思議に思って見れば、スイが壁に寄りかかり誰かと話をしている。その『誰か』は愛昼とは違い、ブルーの制服を身に付けていた。その男のぶつぶつと呟くような言葉に、スイが難しい顔をして考え込む。残念ながらここから会話の内容を聞き取ることは出来なかった。
(誰と話しているのかしら……)
スイが愛昼以外の人間と話しているところなど見たことがない。
怪訝に思い愛昼がゆっくり近づいていくと、スイが気づいたように顔をあげ、うっすら笑みを浮かべた。
「こんにちは」
スイの言葉に愛昼に背を向けて話していた相手も振り返る。愛昼は彼の前に立ち、顔を見た。
しかし大きなヘルメットのせいで、彼の目元を見ることは叶わなかった。しかし口許から推測した限り、真面目そうな、悪く言えば頑固そうな顔つきをしているように思われる。
体に書かれた自動車会社のエンブレムと車種、そして左腕にあるナンバープレートの書かれた腕章から、彼が交通取締用自動二輪車(白バイ)であることに愛昼は気づいた。
「こんにちは、スイ。この人、白バイみたいね。彼とはよく話しているの?」
愛昼が尋ねるとスイが首を振った。
「いえ。彼と会ったのもお話をしたのも、今日が初めてですよ」
「ふうん、そうなの」と愛昼が意外そうに相づちを打つ。
(あちこちほっつき歩いているスイのことだから、知り合いだと思ったのに)
「……」
白バイの男は黙って愛昼を見つめている。どこか探るような視線を受けて、愛昼は彼の方に振り向いた。そして、敢えて彼に視線について尋ねる。
「何か私に気になるところでもあったかしら?」
「いや」と男は即座に首を振った。
「なんでもない。……俺は持ち場に戻る。スイ、また答えを聞きに来る」
「分かった」とスイが頷いた。男はそれを見ると踵を返し、さっさと歩いていった。
愛昼は彼の姿が見えなくなったあとスイに話しかける。
「あなた以外にも人型になれる車がここにいるとは知らなかったわ」
「俺もです」とスイが同意する。
その後、愛昼の格好を見て
「そういえば、どこかに出動するんですか?」と尋ねた。
愛昼ははっとして頷いた。そしてスイと共にパトカーに乗り込んだ。

「あっつ……」
叶夜はそう呟き額の汗を拭った。
自宅から彼の勤める自動車学校までは自転車で十分ほどだ。しかし真夏の太陽を浴び、コンクリートの上を熱せられながら走るのはかなりの苦行である。
信号で停止しながら、横の車道を走っていく車をちらりと見る。
(車なら涼しいんだけどなあ……)
とはいえども、車で行くには距離が短すぎる。そういうことで、叶夜は仕方なく自転車を利用していた。
自転車学校までもう少しというところで、再び赤信号に捕まる。腕時計で時間を確認してから顔をあげた。
斜め前に自家用車が右折のために止まっている。対向車線には右折のために大きなトラックが停まっていた。
(これは見にくいな……)
叶夜は自家用車の立場にたって考える。今、自家用車からは対向車線が死角になって見えていないだろう。
数台の車が通過したあと、少しだけ間が空いた。その間を詰めるようにバイクが速度を上げて走ってくる。
信号が黄色に変わる。対向車線から出てくる車がいないのを見て、待ちくたびれたように自家用車が右折のためにハンドルを回した。車体が傾き、ボンネットが対向車線に飛び出す。
「あっ」
叶夜が声をあげたのと、バイクがボンネットに衝突して空中に跳ね上がったのは同時だった。空中で一回転をしたときに、運転手の体がバイクから離れる。そしてバイクと共に道路に叩きつけられた。
叶夜は一瞬何が起こったか分からず瞬きをした。次第に「事故だ」という実感がじわじわわいてくる。
叶夜は素早く自転車から降りるとスタンドをたて、歩道の脇に寄せた。
鞄から携帯電話を取り出す。そして素早く110と119にかけた。
近くにいた歩行者が、何があったのかと近寄ってくる。叶夜が視線を巡らせれば、事故の影響で交通が止まってしまった車の中に教習車があるのが見えた。
その助手席に座っていた永谷が窓を開け、叶夜に話しかける。
「要くん!何があったの!?」
叶夜が声が届くように叫ぶ。
「自動車とバイクの接触事故です!警察と救急車は呼びましたから、もうすぐ来ると思います!」
叶夜はそう言うと事故現場へ走った。
自家用車を運転していた女性がおろおろしているのが見える。叶夜はその隣にしゃがみこみ、バイクの運転手に話しかける。
「もしもし、僕の声が聞こえますか!?」
バイクの運転手が何かをうめき、ぎこちなく首を動かす。
とりあえず意識はあるようだ。しかし、叩きつけられたときに体を強く打っているため、打撲や骨折をしている可能性がある。
叶夜は立ちあがり交差点を見回した。周りには多くの車が止まっている。このままにしておいては、事故を誘発しかねない。それに……。
(灼熱のコンクリートの上にずっといるのは辛いだろう)
叶夜は現場の写真を四方八方から撮ってから、自家用車の運転手に車を近くの駐車場を移動させるよう伝えた。自家用車がゆっくり動き出したのを確認して、バイクの運転手の脇の下に手を入れる。
「ここだと危ないので安全な場所に動かしますね」
運転手が小さく頷くのが見えた。叶夜はゆっくり運転手を移動させ始めた。
見ていた歩行者と、永谷が電話で呼んだ同僚の二人の力を借りて、なんとか運転手を歩道に移動させた。バイクも自家用車と同じ駐車場に移動させたとき、サイレンをならして救急車がやってきた。
叶夜は救急隊員に運転手の場所を知らせる。バイクの運転手は救急隊員によって救急車に運び込まれ、救急車が出て行くのと入れ違いにパトカーが到着した。
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