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リュー

〈20〉

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「何故あのとき女性がリューの声を聞くことが出来たのか、俺は不思議でたまらない」
そうぽつりと言った朝陽の顔を、リオンとティーが見た。
「彼女は『車の声が聞こえる人間』ではなかったというのに」
朝陽が顎に指を添えて考え込む。
朝陽は今まで、『車の声が聞こえる人間』は交通事故に遭ったことがある人間だけだと思っていた。実際に朝陽も愛昼も事故経験者だ。しかし、そういう人間は事故に遭ってからずっと車の声が聞こえるはずで、あの老婦人のように一時だけしか聞こえないなんてことはないはずだ。
(……もし他の人間でもそういうことがありえるのなら、一体どういう基準で車の声が聞こえるようになるというんだ?)
そもそも、事故に遭ったといえども、事故経験者全員がその能力を持つわけでもない。車の声が聞こえるという現象にはまだまだ謎が多い。
難しい顔をして考え込む朝陽の隣で、ティーが口を開いた。
「けれどおばあさん、リューさんが壊れてしまったら、悲しいでしょうね」
そうしょんぼりとして言ったティーの言葉に
「ああ、それについては心配するな」と朝陽が顔をあげて言った。
不思議そうな顔をしたリオンとティーに朝陽が笑いかける。
「あいつ、壊れてなかったからな」

先日、朝陽が昼飯を作っていたとき、不意に携帯電話が鳴った。不思議に思って通話に出てみれば、磯部からであった。
「お前、沖縄でレンタカーを借りた女性を覚えているか?」
開口一番磯部はそう言った。
「ええ」と朝陽がフライパンの中をかきまぜながら頷く。
「その人から昨日電話があってな。『あのオンボロ車、ちゃんと直ったよ。少し疲れただけみたいだね。でも、さすがに人にはもう貸せないから、自分の車として動いてもらうことにしたよ』ってさ。あと、『これからは前より頻繁に車を運転することになるだろうから、酒をひかえることにするよ』とも言ってたな。お前に伝えておいて欲しいって言われたから電話したんだ」
そう首をひねりながら言う磯部の言葉に朝陽は微笑んだ。朝陽の脳裏に、ぶつぶつ文句を言いながらリューが老婦人の運転で島内を走っている光景が浮かぶ。
朝陽は磯部にわざわざ伝えてくれたお礼を言うと電話を切った。そしてすっかり気分をよくして、鼻歌をうたいながら料理を皿に盛り付けた。

「朝陽さん。他の車は私達みたいに人型にはなれないのですか?」
桜色の貝殻を手のひらで転がしながらティーがそう尋ねた。
「ああ、普通はな。お前らが人型になれているのは、自我が確立されているからだ」
朝陽は海の写真を食い入るように見つめるリオンを一瞥してから続ける。
「何かがあって車自身が『人間の命令なしに動きたい』と思ったときに、自我というのは確立されるんだ。そしてまず自分の体を動かせるようになる。まあ、大体の車が自分で出来るのはそこまでだな。人型として出てこられることに自ら気づく車はほとんどいない」
「なるほど。確かに、私も朝陽に言われるまで自分が人間になれるなんて思いもしませんでした」
リオンの言葉にティーも頷く。
「でも、リューさんも、他の車の皆さんも、私達みたいに人型になって運転手さんと一緒にお城に行ったり水族館に行ったり出来たら楽しいんですけどね」
貝殻を優しく指で撫でながらティーがふわりとした笑みを見せた。
「まあ、そうだな。確かに一緒にあちこちに行けたら楽しいだろうな」
そう言ってから朝陽は続ける。
「車の人型とあちこちに行って仲良くなって、車に対する愛情を持てば、もっと事故は減るかもしれないな」
そう冗談まじりに笑いながら言ってから、朝陽ははっとした。
(そうか。『あの女性があの時車の声を聞くことが出来た理由』を解明すれば、それを応用して、人間全員が車の声を聞くことが出来るようになるかもしれない。そうすれば車が人型になれなくても、人間と会話出来るようになる)
車の意思や意見が人間に伝われば、車も人間と同じくらい繊細な“生き物”だということが分かるだろう。そうしたら人間達の車への意識も変わり、車の心身をわざと傷つけるようなことはしなくなるかもしれない。
すなわち、
「……事故の発生件数を減らすことが出来るかもしれない」
そう真剣な顔で呟いた朝陽の顔を、リオンとティーがきょとんとして見た。
「いいや、なんでもないよ」
朝陽はごまかすように二人に笑いかけてから時計を見た。夕飯を買いに行く時間だ。
「よし、スーパーマーケットにでも行くか。お前らも来るか?」
朝陽がソファから立ち上がって尋ねるとリオンとティーがこくりと頷いた。
朝陽はそれを見て微笑む。そしてポケットに手を突っ込むと、車の鍵を取り出した。
手元で揺れる海亀の形のキーホルダーを見て、朝陽はリオンに笑いかける。
「よし、行くか」
「そうですね」とリオンは頷いた。ティーも頷いてにっこり笑った。

リオンに乗ってしばらくたってから、朝陽は
「よくあんなに乗り心地の悪い車に乗っていたものだな」としみじみと思った。そして、初日の腰の痛みを思い出し、ふっと笑った。
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