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ファイ

〈9〉

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リオンの手にある携帯電話からは何も聞こえてこなかった。雨音たちが今どのような状態なのかも、全く分からない。事故が起きていないことを願いながら朝陽は高速を走っていた。
「リオン、何も聞こえてこないか?」
リオンが頷く。
もう一度こちらから話しかけてみた方がいいかもしれない。そうリオンに言おうとしたとき、突然ぱんと軽い音がなった。
「何をしているの!」
携帯電話から流れ出した大きな声に朝陽がぎょっとする。リオンとティーも驚いたように携帯電話を見た。
何があったのだろうと考えて、雨音がファイの頬をはたいたのだと気づいた。

「どうしてあんな危険なことをしたの!」
サービスエリアの駐車場に車を停め、雨音が助手席に現れたファイに詰め寄って声を張り上げる。
引っ込み思案で大人しい普段の姿からは想像できないほど、彼女は今憤っていた。ファイははたかれた頬を抑えたまま、下を向き何も言わないでいる。
「もしあのとき事故が起きていたら、何人の人が死んでいたか分からない。それに……」
雨音がそこまで言い、一度口を閉じた。
「……それに、あなたも無傷ですまなかったのよ!」
「!」
雨音の言葉に目を見開いてファイが顔を上げた。そして、雨音の顔を見つめる。
彼女は今、泣きそうな顔をしていた。瞳を潤ませ、唇を震わせてファイのことを見つめていた。
「……お願いだから、自分のことを大事にして」
震えた言葉を紡いだ後、緊張の糸がほぐれたのかさめざめと泣き始めた雨音を、ファイは気まずそうに目だけをそちらに向けて見つめていた。

「……俺は大切にされたかったのかもな」
ふとファイが呟いた言葉を聞いて、真下にいた朝陽が顔を上げた。ファイは運転席の窓のサッシに腕をかけ、遠くを見つめている。
「あんな風に大切にされたのは、初めてだっただろ?」
朝陽はリオンとティーと話している雨音を見ながら笑った。
「……まあな」
ファイがそっぽを向きながら言う。
「それにしても、雨音さんはすごい運転手だよ。お前みたいな大きいトラックを高速で安全に運転出来るんだからな。雨音さんじゃなかったら、さっきは本当に事故が起きてもおかしくなかっただろうな」
朝陽の言葉を遠くにいる雨音を見つめながらファイが聞く。
「ファイ。雨音さんの言ったとおり、まずは自分を大切にしろ。そして、雨音さんのことも。そうすれば何をすべきかおのずと分かってくるはずだ」
ファイは相変わらず何も言わなかったが、前のような反発心は消え失せていることが感じ取れた。
肌寒い風が吹き抜け、彼の銀髪を揺らした。
しばらくして、ファイがまた口を開いた。
「……あのな。俺はあのとき、車たちに運転手を失う悲しみを思い知らせたいためだけにあんなことをしたわけじゃない」
朝陽が何も言わず続きを待つ。ファイが少しだけ目を伏せた。
「人間たちに車がどれほど恐ろしいものか、思い知らせてやりたかったんだ。人の命を一瞬で奪い去る、危険な代物。そんなものをお前たち人間は運転しているんだ。俺たちは居眠りなんかした人間に乗りこなせる物じゃねえ。……要するに、舐めた人間たちに痛い目を見て欲しかったんだよ」
朝陽は黙ってファイを見上げた。その視線を受けて「まあ、失敗したんだけどな」とファイが自嘲的にふっと笑った。
「……大規模な事故が起きれば車は怖いものだと人間たちが改めて気づく。そうしたら、きちんと運転しない奴がいなくなる。そうすれば由香里も少しは浮かばれるだろうって思ったんだよ」
朝陽は黙ってファイの話を聞いていた。柄にもなく自分の心情を吐露したファイが後頭部を掻く。
「まあでも、あんなことはもう出来ねえな。俺の体を俺よりもっと上手に操作できる奴が現れちまったし」
そう言ってファイが帽子を目深く被った。そして続けて小さな声で、
「……それに、あいつの泣き顔、見ても楽しいもんじゃないしな」と付け足した。

こちらに向かって歩いてきた朝陽に気づき、雨音が近づく。そして気まずそうにファイがいるだろう助手席を見上げた。
「ファイ、何か言ってました?」
心配そうな雨音を安心させるよう微笑む。
「雨音さんに大切にしてもらえて嬉しそうでしたよ」
そう言うと雨音がほっとした顔をし、その後恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「怒ってはいなかったんですね。よかった、あんなことしちゃったから」
そう言う雨音に朝陽は笑みを作る。
「ファイにはあれくらいがちょうどいいですよ」
朝陽の言葉に雨音も笑った。
「それにしても、あのとき一体どんなことがあったんですか?こちらからはよく様子が分からなかったのですが……」
そう朝陽が尋ねる。
「結構大変でしたよ。フロントガラスが突然曇ったり、速度が落ちたり、逆に急に上がったり。あおり運転だと思われていなければいいのですが……」
そう言って疲れたように笑う雨音に朝陽は舌を巻く。よくそんな状態で無事にここまで辿り着いたものだ。
(雨音さんのドライブテクニックは相当のものだな……)
『運転上手』と言われることが多い自分の中に、雨音に対する負けん気が芽生えたのを感じつつ、(今度運転を参考にさせてもらおう)と朝陽は考えていた。
「後のことは、雨音さんに任せることにします。無責任に感じるかもしれませんが、きっと私より雨音さんの方がファイにはいいでしょうから」
そう言う朝陽を驚いたように雨音が見た。
「もうファイはあなたや他の車を危険にさらすような行動はしないはずです。だから、これからは安心してファイを運転してください」
そう言うと雨音はほっとした顔をした。
「分かりました。ありがとうございます。……でも、具体的にどうすれば?」
「今日の京都観光のように、これからもできるだけ彼と一緒にいるようにしてください。それがあなたとファイの間の距離を縮める、一番いい方法ですから」
「分かりました」と雨音が頷いた。
「私も、ファイと色々と話したいことがありますから。ぜひそうさせていただきます」
そう言う雨音に朝陽は微笑んだ。
ティーがリオンの隣に立って朝陽の方に手を振っている。彼女の周りには多くの車が停まっているというのに、今の彼女が怯えた表情をする様子はない。ティーと最初に会った時からは想像出来なかったことだ。
ティーはゆっくりではあるが確実に“直って”きている。きっとファイもいつか“直る”だろう。けれど、今回彼を“直す”のは朝陽ではない。
ファイには彼の身を案じて、彼の心に寄り添ってくれる素晴らしい運転手がいる。彼女に任せればきっとうまくいく。朝陽はそう確信していた。
「雨音さん」
朝陽に声をかけられて、雨音は顔を上げた。
「ファイは、少しばかりひねくれものだってこと、覚えておいてください」
朝陽の言葉に雨音は一瞬きょとんとしたあと、「はい」と言ってくすくすと笑った。
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