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後日談

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 後日談

 ────扉を開けたら目の覚めるような美形の男が立っていた。
 泣きはらした俺の目を悲しそうに眺め、ただ一言「どうか、私と一緒に生きてくれませんか」と言った。
 俺はなにが起きているのかまるで理解出来なくて、ただ、男の瞳があんまりにもまっすぐで必死だったから、ほとんど無意識で頷いていた。
 花がほころぶように笑って、男は俺の事を抱きしめた。
 本当なら、突然現れた不審者に抱きしめられたら通報すべきなんだろう。
 でも俺は、その温かさがずっと欲しかったんだとそのときになってようやく分かったのだ。
 

 「菖蒲さん、今日はどのくらいに帰ってくるの?」
 あの後俺は男──菖蒲さんに言われて会社を辞めた。菖蒲さんが何故俺の境遇を知っていて、何故俺の部屋に現れたのか今でも分からないが、この人が一緒に生きてくれるならあまり大したことでは無いような気がして、詮索はしなかった。
 菖蒲さんは俺の事を眩しそうに見つめると「夕食時には帰って来ますから、一緒に食べましょうね」と美しい笑みを浮かべた。
 会話からも分かる通り菖蒲さんと俺は一緒に暮らしていて、ここは菖蒲さん名義で購入されたマンションの一室だった。元々俺が住んでいたアパートなんて比較にならないくらいのセキュリティを誇っていて、こんな事でもなければ立ち入る事も無かっただろうなと思う。
 「うん、待ってる」
 菖蒲さんは愛おしそうに俺を見つめると額にキスをして、名残惜しそうに出ていった。
 隠そうともしない愛情表現に面映ゆくなる。
 しかし同時にとても嬉しくて、俺はしみじみと生きてて良かったな、と思った。
 
 
 
 彼の元々住んでいたアパートの前。一人の男が建物を見つめている。
 彼の引っ越しをする際にすべて取り払ったが、私が盗聴器や盗撮カメラを仕込む事が出来たのは、ひとえにこのアパートのセキュリティの脆弱さもあっただろう。
 しかしそのおかげで彼を助ける事が出来たのだから、私は天に感謝した。
 「なぁ」
 不意に声がかかる。
 見れば軽薄そうな風貌の男がこちらを見ていた。
 一般的にイケメンと評されそうな顔立ちをしてはいたが、安易に人生をこなして来たのだろうなという雰囲気が感じられ、好きになれなかった。同族嫌悪と言うのだろうか、どうにも相容れない気配を感じる。
 「どうしました?」
 「ここに凪……や、内海って人住んでたんですけど、お兄さん知りません?」
 それは彼の名前だった。
 私はこの男が彼の弟だと知っていたけれど、つくづく似ていない兄弟だな、と思った。
 数日前からアパートに通い詰めている事は知っていたが、こんな無差別に声掛けをしているのは些か執着的ではないだろうか。
 「さぁ……知りませんね。ここに住んでいた人なら大家にでも聞けば良いのでは?」
 「引っ越したって言うんだけど、どこに行ったかは分かんねぇんだと。あいつ勝手に引っ越しなんてしやがって……会社も辞めたみたいだし……」
 ぶつぶつと文句を言う姿を見て、私は彼を早々に連れ出すことが出来て良かったと思った。
 彼の悲しむ姿なんて、見たいものでは無いのだから。
 「あなたにとって大切な人なのですか?」
 「っ……ちげぇよ、あいつが居ないと親が悲しむから……」
 「なら、もう諦めてしまっても良いのでは?」
 「は?」
 「あなたは別に悲しくは無いのでしょう?なら、あなたがご両親に説明して上げれば良い、どこか遠いところに行ってしまったけれども、元気に過ごしていると。きっと最初は悲しむかもしれないけれど、きっと時間が解決してくれますよ」
 みるみるうちに男の顔が歪んでいく、それが怒りの表情だと気づいた時には首元を掴まれていた。
 「あんた……なんか知ってんのか?あいつに何した?」
 「何も。しかしおかしいですね、親が悲しむと言う割にここにはあなたしかいないのは何故です?」
 動揺からか男の掴む力が緩み私は少しおかしな気分になる、まさか本当に気がついていなかったのだろうか。
 「あなたのご両親は本当にその方を探してらっしゃるんですか?あなただけが、探している訳ではなく?」
 「うるせえ!!!」
 強く押されたたらを踏む。図星を突かれると力づくになる辺り、教育が行き渡っていないのを感じる。
 彼はあんなにも理性的なのにと、ここに居ない相手に焦がれてしまう。
 「私は何も知りませんが、そんなあやふやな理由で探されても嬉しくないと思いますよ」
 「お前に……何がわかんだよ!」
 まるで子どもの癇癪だ。今までもこうやって駄々をこねて物事を押し進めて来たのだろうか。
 私は頭が痛くなってしまい、やはり彼を幸福にするのは自分しかいない、と考えを改めた。
 彼がもしも、万が一にでも家族との和解を望んでいるのであれば、手伝う事も視野に入れていた。
 しかし当の本人がこれでは、彼が望んだとしても私が許せそうにない。 
 彼にただ笑っていて欲しいだけなのに何故こんなに障害物が多いのだろうか。
 それだけ彼の人生が困難だったのだと思い至り、今生きてくれている事に感謝した。
 「分かりませんね、私はどうでも良い人を探したりはしないので。……あなたに何も言わずにどこかに行ってしまったなら、あなたの探し人も自分の事を探してほしくないのでは?」
 「っ……そんな事……」
 反論出来ず押し黙る男を見て、私は潮時だなと思った。
 「まぁ、あなたが探したいなら止めはしませんが……用事があるので、失礼しますね」
 「あっ……なぁ、本当に知らないのか?」
 それほど執着するのならば、どうして彼に伝えてあげなかったのだろう。 
 私は答える事も煩わしくなってしまい、視線だけで返答とし、彼のアパートから離れた。
 後ろからなにか声が聞こえたが、いずれ聞こえなくなった。
 

 「おかえり菖蒲さん」
 彼の声に迎えられて、鼻腔を美味しそうな匂いがかすめる。扉を開けるとそこには幸福が広がっていた。
 テーブルに並べられた食事に、笑顔の彼。
 「ただいま帰りました、凪」
 彼を抱きしめると温かく、伝わってくる鼓動に目元に涙がにじむ。
 彼が生きているのだという事があまりにも嬉しくて、多幸感に目眩すら覚えた。
 ほろほろと涙を拭う事もせず彼の体温を味わっていると彼が笑っている事に気がつく。
 「ふ、ふ。菖蒲さんて泣き虫だよな」
 私の涙を拭いながらおかしそうに笑う凪を見て、幸せで死んでしまうかと思った。
 「幸せ過ぎてしんでしまうかもしれません」
 私が思わずそう吐露すると、凪は少し不満そうな顔をして「一緒に生きてくれるんだろ?」と言った。
 私は心の底から、生きていて良かったと思った。



 おまけ
 「菖蒲さんが俺に盗聴器仕掛けるなら俺も菖蒲さんになんかつけたい」
 「GPSでもつけますか?」
 「…………指輪とか?」
 「!!!」
 「一緒に探しに行こうか」
 「はい!」

 おわり
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