花粉の季節

秋彩

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 桜が咲き始めた頃、最近老化が進んでいるらしく入院していた祖母が転院することになった。
「あんた、Mと違って全然おばあちゃんに会ってないでしょ。荷物持ちとして一緒にきなさい」
と母が言い、二つ返事で承諾し荷物を持って病院に向かった。そこには、担架に横たわりくすんだ目で天井を見つめる祖母の姿があった。人の目はこんなにもグレーだっただろうかと祖母の目を見て思った。元気だった祖母の目と顔が思い出せなかった。
「おぉ、久しぶりだね。来てくれたんだね。ありがとう」
と祖父と叔母が声をかけてくる。うん、と一言言葉を発したら、自分の声が震えていることに気がついた。
「おばあちゃん、随分変わっちゃったでしょう」
と母が言う。
「お義母さん、来ましたよ」
と母が祖母に声をかける。私は両手をできる限り大きく振って祖母にアピールをする。マスクをしていてよかったと思いながら目だけでも笑ってみせようとする。私来たよ、久しぶりだね、と言いたいのに声に出そうとすると涙が出そうになり声が出せない。誰に言い訳する訳でもなく目を擦った。

看護師たちが担架から移動用ベッドに祖母を移動するためになにやら作業を始めた。移動されるとき、祖母はあー!あー!と叫んだ。私は酷く驚いて飛び上がってしまった。やらなければならない事なのはわかっているし、痛いことでもないこともわかっている。だが、どうかやめてあげてと思わずにはいられなかった。私が知る元気だった祖母が介護士ブログかなにかで見る老人と同じような反応をしていることがどうしても受け入れられなかった。動揺しきっている私に対して母や祖父、叔母は、
「もっと弱っちゃってるかと思ったけどそんなことなくて安心」
「しっかり声も出せるってことがわかったね。手も動かせるしきっと耳も聞こえてるよ」
と平然と話している。聴覚は最後まで残ると聞いたことがある。だからきっと祖母にはその会話も聞こえていると思った。どうかそんなことを言わないであげて欲しかった。話をしている大人たちを無視してじっと祖母を見下ろした。やはり祖母の目は見えているししっかりと私を認識してくれているんだろう。目がこちらを向いた。その目は心配そうに微笑んでいるように見えた。苦しいだろうに、痛いだろうに、どうして私を心配するような目をするんだ。やめてくれ、やめてくれ。私のことなんてどうでもいいから、自分が昔みたいに元気になるように願っていてくれよと思わずにはいられなかった。鼻が痛くて涙が溢れた。花粉のせいだ、と目を擦った。
 祖母はその後病室に移動することになりその日の面会は終了になった。私はまた大きく手を振った。祖母に声をかけることが出来なかった。

祖父と叔母が祖母の入院に関する説明を受けている。私と母はそれが終わるのを待っていた。1時間半くらいだっただろうか。私はその間に色々なことを考えた。
 母から、
「本当に変わっちゃったよね。仕方ないんだろうけどさ」
と言われた。仕方ない、その言葉は私の中の後悔を引っ張り出すには充分だった。祖母は料理が上手だった。特に、祖母が作るコロッケは最高でこの世でいちばん美味しいコロッケだと思っていた。
「作り方を習ってきなさいな」
と母に言われていたのを思い出した。大学生になった私は学校やらアルバイトやらで忙しく、タイミングを逃してしまった。いや、それすらも言い訳になってしまうだろう。いつでも聞けるとずっと思っていた。その結果、もう二度とあの味を食べることが出来なくなってしまったのだ。料理ができない私には材料さえよくわからない。もう一度だけでいいから、あの味を食べたいと強く思った。
 祖母の叫び声を思い出した。声は出せている、つまり言葉を発することは出来ないということだとなんとなく理解した。つまり、祖母が私の名前を呼んでくれることはもう二度とないということだ。それを悟ってしまった時、優しい祖母の声が思い出せなくなった。おばあちゃん子の私にはあまりにも耐えられないことだった。一緒におにぎりを作って一緒に笑った祖母の声が、いじめられていたことを打ち明けた時に一緒に泣いてくれた祖母の声が、成人の日に私の振袖姿を見て綺麗だと言ってくれた祖母の声が、私には思い出すことができなかった。
 私は統合失調症の治療中で症状が芳しくない。幻聴が祖母の優しい声だったらよかったのにと強く思った。
 祖父が看護師に、
「もし食べられなかったら無理に食べさせようとしないでください」
と言っているのを聞いた。それは無理な延命はしないということだろうと理解出来た。延命治療には苦痛が発生することは知っている。私自身、延命治療反対派だ。無理に長生きさせられるのは想像を絶する苦しみだろう。でも、祖母にはまだ生きていて欲しいと思ってしまった。どうにか助けることは出来ないのかと看護師に飛びかかりたい気分になった。私にできることはなんだってやる。それによって命を落とすことになっても構わないとさえ思った。私なんかの命ならいくらでもくれてやる。こんなにも「生きる価値ない」「死ね」と言われ続けている私が死ぬのは別に構わない。ただ、祖母だけは連れていかないでくれと強く思った。自分が死ぬんならこんなに辛くないのに。
  そんなことを考えていたら目から涙が溢れていた。
「どうしたの?」
と母に聞かれた。
「充血しただけだよ。今日花粉ひどいじゃん?」
と言って目を擦った。その後その日は帰ることになり、母と帰宅した。花粉が、と少しわざとらしく言って目を擦り続けていた。家に帰って鏡を見ると擦りすぎで真っ赤になってアイシャドウのラメが飛び散りマスカラがドロドロに溶けて悲惨なことになっている両眼が映っていた。あぁ、花粉の季節だもんねとメイクを落とした。
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