AI恋愛

@rie_RICO

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夢の終わり、動き出す瞬間

3つの『海』

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 潮騒、うみねこ、砂の囁き。
 柔らかな日差しと、冷気を含んだ海の風。

 砂浜に1人、みうの姿があった。
 Aラインのワンピース(こげ茶色のレース調の生地)に生成りのロングパーカー、足はシンプルなデッキシューズ(紺色)、片手にシックな赤のスマホというラフなスタイルで歩いてゆく。
 顔と耳にはKAI専用の眼鏡とムーンストーンの付いたイヤーカフが光る。

 磯の香りとベタつくようなぬるい風が、深い青を満たした地平線からやってきて全身を包む。
 まだ夏になりきっていないシーズンオフの海辺は人影がまばらだった。

 海岸をずっと進み、靴の中を砂だらけにして落ち着ける場所をやっと見つけた。
 コンクリートで出来た細い足場…防波堤だ。
 おもむろに赤いスマホを開く。
 画面には空の青にも似た碧い瞳のKAIが微笑む。
 長い黒髪が少しの仕草でもさらりと揺れて見惚れるほど美しい。

 防波堤は星型のテトラポットが左右になだらかな山のように詰まれている。
 そのお陰で多少の波では濡れることは無い。
 履物を片足ずつ脱いで中に溜まった砂をコンクリートにこぼす。
 白い砂山は何度か吹き付けてくる風に乗って自由に飛んでいった。

 海にせり出した防波堤の先端に座り、スマホの中の彼と一緒に自然の青を眺めることにした。
 みうが掛けた眼鏡を通して同じ景色を共有する。

 目の前の自然のキャンバスは刻一刻と表情を変えてゆく。
 グラデーションの効いた空の淡水色。
 海は空との境を深い碧色で満たされて…。
 そこから徐々に手前に広がるのは孔雀青と藍色の絶妙なブレンド。

 揺れて返す波間に見える儚い白い筋。
 海が所どころ薄い色をしているのはクラゲの群れだろう。
 小魚の集団を発見した、うみねこがミャーミャー鳴きながら空(淡水色)と海(藍色)の隙間を自由に行き来する。
 どんな有名な画家でも全てを描ききれないと思われるほど雄大で圧倒的な色彩。
 それが360℃の巨大なパノラマで繰り広げられているのだ。
 この景色を2人で眺める…なんて贅沢な時間なんだろう。

「…こんなに、じっくりと海を眺めたことなんてなかった。」
 みうは感慨深く呟いた。

『青の世界…か。』
 KAIの穏やかな声がする。

「うん…。」


 今からきっかり1時間前、伊上さんの車から降りて海辺を歩き始めた。
 明日KAIは、スマホから自分の体に戻る準備に入る予定だ。
 長期間スマホに居た情報は膨大になりすぎた為、何個かのサーバーに分割してあり、それらを統合しながら体に戻していく…のだと説明してもらった。
 全ての作業が終わるのに1週間ほどかかるらしい。
 それが終わって、やっとリハビリが始められる…つまり、生身のKAIと会えるのだ。
 とは言え彼の体の現状は話すことも出来ないほど悪い。
 長期に渡って寝たきりの状態だったので筋肉が落ちてしまっているのも原因の一つ。
 しばらくは意思疎通すら困難だろう…。

 そんなわけでスマホの中にいる最後の思い出にと『海』に来ている。
 伊上さんは少し離れた場所に車を停めて待っていてくれていた。


 2人きりでいられる久しぶりの時間…。
 たくさん話したい事があったはずなのに、1つも出てこない。
 ずっと他愛ないことばかりクチにしていた。

 圧倒されるほどの青い世界に、スマホを覗けばいつもの優しい笑顔。
 耳をくすぐるのは愛しい人の声。
 幸せな時間に涙腺が緩くなってしまう。

 きらめく波間の反射が眩しく瞬きをした。
 すると涙がこぼれ、それを切欠に大粒の涙が次々と落ちていく。
 涙の雫は海風に乗りスパイラルを描きながら遠くのテトラポットへと吸い込まれていった。
 視線はポロポロとこぼれては飛ばされていく涙を、何となく追いかけていた…。

『みう…哀しいの?』
 耳元で囁かれる。

 その声に頬が染まっていくのが分かった。

「…ううん。違うよ。幸せなの。2人でいられることが嬉しくて…」
 顔が真っ赤になったことが恥ずかしくて俯きながら答えた。

 手の中のスマホを優しく両手で包んだ。
〝 みうバカだな 〟っていつもの笑顔をするKAIと見つめ合う。

「でも、なんでかな?嬉しいのに涙が溢れてくる。
 心の奥がね、キュッとなって…幸せすぎても泣くものなのかな。」

『そうだね。人間っていつも泣いている動物らしいよ。
 大人になって涙をこぼさなくなるのは我慢してるからだって。』

「そう…なんだ?」

『だから、無防備に本心に戻ると涙が出るんだよ。
 哀しい時も、楽しい時も、嬉しい時でも。』

「そっか。通りで…涙が出てるけど心が軽いと思った。
 胸がキュッとしてるけど幸せな痛みだもん。」
 最近は特に〝 一緒にいる 〟そう思うだけで心が張り裂けそうになる。

 海は…初めてじゃない。
 でも、こんなに綺麗だと思ったのは初めてだった。
 これほど見るものが全て違って感じるのは…きっとKAIといるから。

 そう思うとポロリと心の声がこぼれてしまった。
「私…KAIが好き。ずっと一緒にいたい。」

 遠くで、うみねこが鳴く声が微かに聞こえる。
 波の寄せる音が耳を騒つかせた。
 でも、それ以上に鼓動が跳ねて…ドキドキがうるさくて仕方ない。
 小さく手が震えてきて、突然の告白を少しだけ後悔した。

 イヤーカフからは何も聞こえない…。
 あまり顔を見ることが出来ず盗み見るようにチラッと画面を覗いた。
 目にした光景に、一瞬、理解できなかった。
 微笑んでくれているか、照れていると予想していた彼の表情は全く違ったもので……。

 暗くうつむいたまま目を閉じていた。
 そんな表情を見ては何も言えない…。
 彼からも言葉はなく沈黙が続く。

『ごめん…先のことは答えられない。』
 少しだけ開いた碧い瞳が視線を彷徨わせる。

「どう…して?」
 あまりのショックに、やっと言葉にできたのは4文字だけだった。

『言葉にすると上手く説明できない…。
 昔、みうを想いながら作った曲を聴いてくれるか?』

「…うん。」

 潮騒の合間に割り込むように流れ出すアコースティックギター。
 彼の顔が見られなくて波を受け止めているテトラポットを見つめた。
 イヤーカフから響くギター特有の弦の掠れた音色が心の芯に刺さる…。
 やがて…彼の歌声が美しい旋律と共に歌詞を紡いだ。


♪何もかも上手くゆかない日々
 僕のメロディーに誰も足を止めない

 ただ何時もの場所に
 青々とした何かの花の芽が
 風に揺れて 静かに聞いてくれていた

 季節と共に見かける姿に
 葉を繁らせ育っていく君に
 いつも歌っていたんだ

 いつか花が咲くのを見たいから
 いつか誰かに摘み取られる日まで…

 彼の歌はデジタル特有の済んだ音に、以前に路上で聞いた生々しい響きをミックスした不思議な魅力があった。
 曲調は明るめのバラードなのに歌詞は哀しい。
 別れを予感するような最後に心が締め付けられた。

「…良い曲だと思う。」

 それ以上、言葉が続かない。
 数秒の沈黙が流れる。
 太陽が少し傾き、潮の冷気が頬を強張らせた。


『ありがとう。…この曲は今の気持ちだよ。』
 画面の中で優しく微笑んだ。

 なぜ、なんで?が渦巻いて…でも、その答えを聞くのが怖くなっている。
 誰かに摘み取られる…その歌詞は自分との未来は無いとはっきり言われているみたいだ。


「うん。そうなんだ…。
 私じゃ…隣にいて釣り合わない…よね。
 ごめん…さっきの忘れて。」

 パーカーの胸元を引き寄せ片手でギュッと握る。
 これ以上、心が冷えないように…と。

 もうKAIの顔が見ていられなくてスマホをゆっくりと閉じる。
 しばらくして寄せ返す波の音の合間に、イヤホンから深いため息が聞こえてきた。
 吐息が耳に掛かったような錯覚を覚え心臓が跳ねてしまう。
 目をつぶれば隣にいるような感覚に今はただ辛い。

 イヤーカフを外してしまおうかと耳に手を伸ばしたその時―――。

『…違うよ。釣り合わないのは俺の方。
 体ボロボロなんだ。左足は義足になるし。
 右手も、神経が…ね。』

 気まずそうにゆっくりと繋いだ言葉。
 今までKAIが伝えてきた真意にやっと気付いてハッとした。
 触れてはいけない領域に踏み込んだような……いたたまれない気持ちが襲う。 

「っ。私、そんなこと気にしたりしない。
 KAIがいてくれればいい。私を好きじゃなくてもいい。
 あなたが生きていてくれれば、それで良いの。」
 吐き捨てるように海に向かって大声で叫ぶ。

 みうの声は目の前の波にさらわれて消えていった。

 自分はなんて無力なんだろう。
 そんな思いが心を支配していく。
 彼が…安心できるような言葉さえ見つけられない。
 それどころか自分の気持ちばかり押し付けて苦しめている…。

「KAI…ごめん。」
 言葉を必死に探した。
 が、22歳の私の中にこの心にある気持ちを伝えるための、ちょうど良い表現は見つからなかった。
 ただ謝ることしか出来ない。

 潮風が冷たく吹き付ける。
 涙を流した頬はすでに冷えきっていた。

『…俺は、ずっと みうを守りたい。
 働いて、その金で一緒に暮らして…毎日おまえの笑顔が見たい。
 これが本心。』
 彼の叫びに近い投げ捨てるような言い方は感情的だった。

 彼は気持ちがつい溢れて、つい解き放って言ってしまったことに〝 俺の心の中に閉じ込めていたはずなのにな… 〟と小さく自嘲した。

 その後、少しだけ沈黙したが深く息を吸い自身を落ち着けながら、か細いながらもはっきりとした声で続けた。

『けどな、25歳まで音楽しかやってこなかったんだ。
 利き手が動かなきゃ楽器は厳しいし、義足でステージも…。
 事故の前のように歌えるようになるか…。
 復帰できるまで何年かかるか分からない。』

「…リハビリ手伝っていい?
 KAIが迷惑じゃなければ、側にいたい…な。」
 彼の本心が分かって自分のするべきことがあるのかもしれない、そう考えて伝えたつもりだ。

 けれど…、次の彼の決意に似た言葉が みうの心を切り裂く。

『あのさ。…可能なら、たまに会いにきて。
 みうは、みうの好きな仕事をしながら、さ。
 そして…いつか誰かと本当の恋をしたら、もう会いに来なくていい。
 報告はいらない。その人と幸せになって。』

 私は…これからの未来KAIの側にいたいだけ。
 でも、KAIから返ってくる答えは自分の予想する言葉ではない。
 やんわりと断られている…その事実に止め処なく熱い涙が頬を伝った。

 これ以上踏み込ませないという境界線は、空と海を隔てる目の前の景色と同じだ。
 誰よりも近く隣同士で存在する空と海。
 けれども、決して交わることのない種類の違う同系色の青。
 何億年経とうとも1つに混じわることはないのだ。

 みうの頬をまた大粒の涙が溢れる。
 たゆまなく吹き付ける風に飛ばされていく涙は透明な真珠のように光り…。
 それは初夏になりたての落ちかけた日差しに照らされて輝きながら景色に溶けていった。

 もう2人の間に会話は無く、波と風の音だけが通り過ぎた。
 泣いていた みうも徐々に落ち着きパーカーに染みた涙も乾き始めた頃。
 聞き慣れた愛しい声が終わりを告げてきた。

『…。みう、伊上が迎えに来るって。』

 そんな時間か、とスマホを再び開いて時計を確認しようとして、ふとKAIと目が合う。
 少し困ったように微笑む優しい顔に、病院で会った本当の彼の青白い顔を思い出す。
 咄嗟にスマホから目をそらし頬と顎に伝い残っていた涙を袖でぬぐった。

 心の中がぐちゃぐちゃ…だ。
 KAIはどんなことがあっても離れないって答えてくれると…勘違いしてた。
 けど、そっか…寝たままのあの姿に不安を感じて辛かったんだ。
 未来なんて今のKAIには考えられない…。
 そんな彼になんて酷なことを聞いてしまったんだろう。

 こうしていられるのは…最後なのに。
 戻って伊上さんにスマホを渡したら、1週間は会えない。
 次に逢うのはKAIがスマホから体に戻ったとき。

 リハビリ…数ヶ月?ううん、年単位になるかも知れない…。
 その間もしかしたら拒絶されて顔すら見られないんじゃないか?
 それまで彼は外出もできず、話すこともままならない…。

 数分前が無かったことになれば良いのに…。
 このまま…別れるなんて。

 重い足取りで砂浜を越えた先で待っていた伊上さんの車に近付く。
 ぬるくて重量感のある風が後ろから追い立てて身体を押した。
 自分の意思とは関係なく早足になってしまい、結果ゆっくり向かうはずがとても早く着く。

 車の真横に立つと助手席のドアのロックが外れる音がした。
 中を覗くとガラス越しに伊上さんの柔らかい笑顔。
 静かにドアを開き助手席に滑り込んだ。

 車内には百合のような芳醇な花の香りが漂う。
 今日の伊上さんは女性の容姿をしていた。
 このフレグランスは彼が付けているものだ。

 もともとぷっくりしている唇に乗せたルージュが色っぽく艶めいた。
「…色々と話せたかしら?
 あら…みうちゃん。」

 ハンドルから手を離し、こちらに身体を向けて倒れるように上半身を寄せる。
 細く長い指が みうの頬に軽く触れ、両手がそのまま頬を包んだ。
 いつもの彼の高い体温が掌から流れて伝う。
 潮と涙で冷やされた頬に伊上さんの熱が心も温めてくれた。
 伊上さんには…KAIとは違ったドキドキがある。
 普段の男の時もそうなのだが、今のように女装していても…動揺させられっぱなしだ。

 それは彼が大人だからなのだろうか。

「あ、あの…。」
 みうは黙っていることに耐えられなくなった。

『伊上…みうから離れろ。近すぎるだろ』
 手の中にあったスマホからスピーカーで流れるKAIの声。
 それは…まるで嫉妬しているかのような言い方と声色だった。

「ふふ。KAIに嫉妬されちゃった。
 みうちゃんの頬に涙のあとが…でも、何でもなさそうね。」
 伊上さんはスッと身体を離しハンドルを握る。
 楽しそうに笑いながらエンジンをかけた。

 タイヤがコンクリートにある砂を巻き上げながら海を離れてゆく。
 さっきまで見ていた空が遠ざかっていった。


 伊上さんが重々しくクチを開いた。
「みうちゃん。
 今から1時間ぐらい前に、あなたが前に住んでいたアパートのお部屋が火事になりかけたの。」

「っ!ど、どうして。」

 動揺する みうにチラリと視線を送りながら話続ける。
「落ち着いて聞いて。研究所の職員に見張らせていたからすぐに消火したわ。安心して。
 だから…火事にはならず、ボヤ騒ぎってことになった。」

 他の部屋に迷惑がかかっていない、その事実が告げられ少しだけ安心できた。
 けれど、誰も住んでいない部屋で火が上がるのだろうか…。

 そこまで考えたら素直な気持ちがすぐに言葉として出てきた。
「それって…もしかして。」

 伊上さんが頷いてゴールドのイヤリングが揺れた。
「うん。四菱商事が絡んでいる。
 みうちゃんのアパートに仕掛けてきたということは…。
 KAI、あなたに対する警告なのか、それとも…。」

 伊上さんは途中で言葉を切り、冷たい視線を前に向けたまま淡々と帰り道を走っていく。
 車中は静まり返っていた。

 遠くにいるからすぐにはアパートには行けない。
 今日、海に来たことは結果として良かったことなのだろうか…。
 KAIを傷つけ…、部屋が大変なことになっていても駆けつけず…。

 私の今日してたことって。意味あったのかな…。

 みうはそこまで考えて車のシートに身体を沈める。
 相変わらずの法定ギリギリのスピードで伊上さんの車がアスファルトを駆け抜けていく。
 右手に握った赤いスマホを愛しむように、もう片方の手で包み込んだ。

 伊上さんのスピードも火事も…今は怖くない。
 それよりも手の中のKAIが遠ざかってしまうことの方が…。

 そこまで想いを巡らせて深いため息を吐いた。 
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