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第二章

二、

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 新居崎のとなりで、ちょこんと立つ麻野は、なんだか居心地が悪くてそわそわした。先ほどまでのやる気がどこへ行ってしまったんだろう、と我ながら情けない。
「さすがにこの時期の京都は混んでいるな」
「この時期? 夏休みだから、旅行客が増えるんですか?」
「夏休みの本番は八月だ。八月の京都は、とにかく人が多い。五山の送り火もあるからな」
「いいですね、五山の送り火。見に来たかったなぁ」
「毎年やっているんだ、またくればいい。今は、祇園祭だ。山鉾巡行の日程からはそれるが、祇園祭期間に変わりはないゆえ、人も多いんだろう」
「三大祭りですね、わぁ、見たいなぁ」
「また見にくればいい」
 新居崎の口調は、徐々に早くなる。なんだか、また苛立っているようだ。大学で見るスーツ姿と違い、白の半袖シャツにジーンズパンツという、かなり涼しげな服装だ。
 どうやらシャツは一枚しか着ていないらしく、ぱたぱたと胸元を揺らすシャツの隙間から、時折素肌が見えた。通り行く女性が、先ほどから、ちら、ちら、と新居崎を見ていることに、彼は気づいているのだろうか。
 それにしても、先ほどからずっとシャツをぱたぱたしているだけあり、額に汗の玉が浮かんでいる。視線もどこか、ぼうっとしているように見えた。
「もしかして先生、暑いの苦手ですか?」
「当たり前だ、思考が鈍る」
「大学では、スーツなのに暑そうじゃないですね」
「講義は風通しの良い部屋で行われる。実験室は機材管理のために一定温度に保っているし、執務室も気温を一定に設定してある。言っておくが、スーツは暑い。通気性のよいものにしているし、保冷剤を仕込んだりもするが、とにかく暑い。だが、京都の夏に比べると大学の庭をスーツで歩いたほうがマシだ」
「え、ええー。なんで京都へ来たんですか」
「田中静子に、すすめられたんだ。今思うと、説き伏せられたと言ったほうが正しいだろう」
 新居崎の言葉が意外すぎて、麻野はこぼれんばかりに目を見張った。そんな麻野に、新居崎は口の端をつりあげる。
「私の曾祖母が京都の出身で、よく京都のことを聞いていたんだ。だから、私も京都に関心があった。これまでに何度か講習演説や論文発表会などで来たことはあるが、観光はしたことがなくてな……いい機会だと思ったんだ」
 そして京都の夏が暑いことも知っていたから、可能な限り薄着で来た。でも思っていたより暑かった。そんなことを、新居崎は、つらつらと述べる。すでに暑さで頭が回っていないのだろう。どことなく文脈がおかしい。
 十分足らずでタクシーの順番が回ってきて、壮年の運転手が颯爽と旅行鞄をトランクへ入れてくれる。麻野は、先に乗り込んでエアコンを自分のほうへ向ける新居崎の、隣へ座った。
「はぁ、生き返った」
「直風は体によくないですよ」
「うるさい」
 運転手がタクシーを滑らせ始めると、ミラー越しに後ろを見た。
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