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第三章

十五、

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「人間が逃げられると思わないことね。苦しんで死にたくなかったら」
 女は、またにっこりと微笑んで。
 麻野の顎を、そっと撫でた。
「あなたから、あの方の匂いがするの。不思議だわ。そんなに強いわけじゃないのよ、でも、間違いなくあの方の――酒呑様の匂いがするのよ」
「な、んで」
「まだとぼける気? さっき、私が酒呑様の名前を出したとき、あなた、私が鬼だってすぐに言い当てたじゃない。知ってるんでしょう? 酒呑様を」
「大江山って言ったら、酒呑童子だし、知らないわけないし。様づけして呼んでたから、その、仲間かなって」
「……なんか、言い訳っぽいけれど」
 女の目を、麻野は負けじと見つめ返す。また殴られるかもしれないが、本当に知らないのだ――という気持ちで挑まないと。
 これは、勘。
 あえて言うのなら、女の勘というやつで。
 この女には、酒呑童子のことを話してはならない気がした。
「まぁいいわ。関係なんて、どうでもいいのよ。あなたはただの人間で、あの方の暇つぶしに過ぎないのよ。ねぇ、マノ。今度は、すぐに答えなさい。余計な言葉はいらないわ」
 辺りの空気が、冷たくなった気がした。
 麻野の背筋を、冷や汗が伝う。
 美しい女が、ゆっくりと、小首をかしげた。
「酒呑様は、今、どこにおられるの?」
 やはり、この女に酒呑童子のことを言っては駄目だ。
 麻野はぎゅっと口を結ぶ。
 もし親しいのなら、お互いの居場所は把握しているだろう。麻野との関係など本人に確かめればいい。
 それをしないということは、この女に酒呑童子は興味がない。もしくは、敵対している者同士、などの可能性が考えられた。
 特に後者の場合――この女が、酒呑童子に害を及ぼす存在だったら。そう考えると、途端に背筋に冷たいものが伝う。
 公園であの日、彼に出会ってから、麻野は変わった。
 麻野自身の、あらゆる世界が、変わったのだ。
 あの日まで、麻野にとって妖怪は、想像のなかの生き物に近く、寝るときに抱きしめるぬいぐるみのように寄り添ってくれる存在でしかなかった。
 祖母との二人暮らし、腫れ物を触るかのように接する教師、遠慮のない物言いでぶつかってくる同級生、そんな暮らしのなかで、麻野が麻野でいられたのは、酒呑童子との出会いがあったから。
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