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第四章

三、

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「くっ、くくくく、誘拐か。俺の麻野を危険な目に合わせたのか、やつは」
「し、しーちゃん?」
「京都の神社仏閣へ行くだろうから、俺がお前につけた匂いを薄めておいたんだ。神格化した怨霊のなかには、俺の匂いを嫌うやつも多い。とくに、都ではな……神社仏閣へ俺が入れないようにお前まで追い出されたら、取材にならんだろうし」
 ふと、白峰神宮でのことを思い出して、なるほど、と頷いた。なぜ酒呑童子が嫌われているのか理由はわからないし、麻野はそれを問うつもりもない。
 麻野のことを考えて動いてくれていることだけは、よくわかった。それだけで充分だ。
「すまんな、麻野。用事が出来た、今から出かけてくる。しばらく帰らんが、無茶はするな」
「今から?」
「ああ。くくくっ、今からだ」
「わ、わかった」
 ほの暗い瞳の奥に見えた殺気の理由もまた、聞かなかった。というか、これは、聞けなかったといったほうが正しい。いや、聞いてはいけない、だ。
 静子は、合鍵は持ってるな、と念を押してから、奥の部屋に引っ込んだ。次に出てきた静子は、静子ではなく、俳優のように見目麗しい男性だった。
 センスのよい着物姿で、腰まで長い髪を無造作に首の後ろで結んでいる。氷のような無表情だが、瞳の色の深紅はぎらぎらと光って見えた。
 久しぶりに見た酒呑童子の本当の姿は、幼いころ麻野が出会った当時のまま、美しい。かつては物憂げな憂いを帯びていた瞳が、爛々と殺気をはらんでいる以外は。
「麻野」
「うん?」
「俺のことを話したのも、麻野がそう判断したのだから、構わない」
 目を瞬いて、麻野は静子を見る。彼は無表情のまま、ふと、口の端をつりあげた。
「怒ってる? ごめん、相談すればよかった」
「怒っているわけじゃない。お前はもう、俺の嫁じゃないんだからな」
「友達、だもんね」
 静子――改め、酒呑童子は、小さく笑う。少しだけ悲しさにじむ笑みだったように思えたが、気のせいだろうか。
 麻野は、酒呑童子が妖怪らしく窓から姿を消すのを見送ってから、都心から少し離れたところにある、自宅のマンションへ帰宅した。
 軽く寝て、身体を休めよう。
 そして、明日からやるべきことがある。
 麻野は、先に家に帰宅していた荷物を片すのを後回しにして、倒れ込むようにベッドに倒れ込んだ。

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