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第四章

六、

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 東京へ戻ってから、京都での旅行がまるで夢であったかのように感じられた。
 なぜならば、らしくない感情に振り回されてばかりいたからだ。
 新居崎にとって、周りに合わせて流されることこそ、生き方だった。不満があっても押し殺して、目的へいかに早くたどり着くか画策する日々。そんな考え方が癖になっていて、いつの間にか、なぜ今の職種を選んだのかさえ忘れていた。
 別に、面白くないわけではないし、特別に面白いわけでもない。繰り返される日常を、過ごしていることが、当たり前になっていた。
 新居崎は、自宅のマンションへ帰ってくるとすぐに、ベランダへ出た。鞄はソファへ放り投げ、上着も適当に脱ぎ捨てる。
 いつもの自分ならば、帰宅すると上着をハンガーにかけて壁に置き、鞄は仕事用に使っている書斎の定位置へ戻す。そんなことさえも、ここ数日、面倒だった。
 新居崎はベランダへ出ると、空を見上げる。ここ数日曇りが続いたが、今日は晴れていた。帰宅途中にも思ったことだが、星空がよく見えるのだ。
 もっと田舎ならば、さらに綺麗な夜空が見えるだろう。
 何気なく携帯電話をひらいた。麻野へ連絡しようとして、すぐに思いとどまる。星が綺麗だなどというのは、用事でもなんでもない。他学科の学生に、いちいち言うほどのことでもない。
 新居崎は、ひとりで、ぼうっと空を見上げる。
「……ホーキンス博士は、面白かったな」
 星とは、宇宙とは、ブラックホールとは、時間とは。そんなふうにして、興味のある方向へ流れて、今の仕事にたどりついたように思う。
 淡々と、周りに流されるようになったのは、いつからだろう。
 どうせ誰も自分を見てくれないのだから、この顔を最大限利用しようと思ったのが、分岐点だったはずだ。だが、それももう遥か昔のことで、いつだったか思い出せない。
 第一印象で、相手への好感度が決まるという話を聞いたことがあった。
 新居崎の場合、よい印象から相手が入るため、その後の付き合いで急降下する。そんな人だなんて思わなかった、だとか、聞き飽きてしまった。
 知ったことではないのに。
 今思うと、その当時の新居崎は若かったのだろう。今ならば、人の考えに流されたり、対応で傷ついたりだとか、きっと、しない。分別をわきまえているからだ。いや、分別をわきまえて考えられるようになったのも、過去の自分が流されて生きる道を選んだためか。
 ソファに戻って、背中を深く凭れかけた。
 最近、大学での仕事が多忙を極めている。本来なら、個人的な研究や論文へも手を回したいが、それも最低限しか出来ない。出勤時間のほとんどを、教授や助教授の手伝いに駆り出され、学生への指導もしなければならない。
 教授らの多忙さは承知しているし、新居崎は彼らの補佐が仕事の大部分を占めている。
 理解していてやっているのに、なんだか最近、つまらない。もともと楽しかったかと聞かれれば、それも是とは答えにくいのだが。
 そう、楽しくないのだ。
 何気なく携帯電話を見た。
 私用の電話には、誰からの連絡も入っていない。
 京都での二泊三日は、本当に夢のようだった。言いたいことを言って、やりたいことをやって、汗まみれになって怪我までして山のなかを走り回ったり、勝手に拗ねて――甘えるようなことを、歳の離れた学生に、言ったり。
 思い出すと無性に恥ずかしくて、言い訳ばかりしたくなる。
 同時に、むずがゆくてたまらない。この感情がなんなのか理解はできないが、知識としては知っている。だがそれを認めたくない自分がいた。
「……なんであんな、馬鹿なやつがいいんだ。悪趣味な」
 一人ごちながらも、また、麻野のアドレスを見ている自分がいる。
 こうやって、帰宅して空を見上げては、京都旅行を思い出す。旅行から帰宅して以後、一か月半が過ぎたが、麻野と連絡をとっていなかった。
 これまでのように用事を言いつければいい。遠慮なく使ってやれば、向こうもせっせと犬のようにやってくるだろう。
 けれど、万が一にも、断られたら。
 今忙しいから、などという返事が来た日には、その言葉は本当なのかなどと疑ってしまい、禿げるまで悩み続けるに違いない。
「私は、こんな面倒な男だったか?」
 はぁ、とため息をついて、また、ぼうっと携帯電話に映し出された麻野のアドレスを見ていた。
 すると。
 聞きなれた着信音がして、画面の表示が着信中になる。
 相手は、麻野だ。
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