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第四章

十二、

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 こっちに戻ってから、頻繁に、新居崎の言葉を思い出すようになった。麻野は確かに、卑屈なのだろう。自分より他者を優先することが当たり前になっている過ごしは、ある意味で、自分の意志がないとも捉えられる。
 だが、他者を優先したり役に立つことで、相手が笑ってくれると嬉しい。ありがとう、と言われると、よかったと心から思えるのだ。
 新居崎が言ったように、そんな麻野を卑屈だと思う者がいるかもしれない。麻野だって、この世の全員に好かれたいわけではないし、そんなこと無理だ。
 それでも、麻野は今の生き方を変えないだろう。
 卑屈だと思われても、麻野は、自分だけが喜ぶ生活なんてありえないことを、知っているから。それらは、麻野の考えで、麻野の思いで、麻野の意思なのだ。
「……きみは、部屋を変えたほうがいい」
 突然告げた新居崎の言葉に、え、と顔をあげる。
「それって、さっきのセキュリティの件ですか?」
「ああ。若い娘の一人暮らしだぞ、物騒な世の中なのに、何かあったらどうする」
「なにもないですって」
「その自信はどこからくるんだ」
「ほら。私、別にブランドの服とか着てないですし。お金持ちには見えないですよ?」
「暴行目的かもしれない」
「あはは、もっと可愛い子を狙いますって」
「飢えてる男にとっては、顔などどうでもいいんだ!」
 思いのほか強く言い返されて、驚いたり落ち込むよりも、愕然とした。そういうものなのか、と目から鱗が落ちる。
「え、ええ、じゃあ、私も襲われる可能性とか、あるんですか?」
「ああ」
「美人じゃないのに?」
「ああ」
「お洒落じゃないのに?」
「ああ」
「おっぱいもないのに?」
「ああ……いや、それはあった」
 ふと新居崎が遠い目をし始めたので、咄嗟に「お茶をいれますから」と告げてキッチンに立つ。新居崎は飢えていないから、美人の女性を好むだろう。思い出されたところで論外なのだから、別に、構わない。構わないけれど、なんとなく寂しくなるから、嫌だった。
 冷蔵庫に入れて置いた冷茶をいれてから、お茶請けを探して戸棚を空ける。何か甘いものを、と思ったけれど、何もない。
「……だから、言ったんだ。部屋を変えろと」
 ふいに。
 新居崎の呟きが聞こえてきて、麻野は首をかしげる。もしかしてお茶をせかしているのか、とお盆に湯呑を置いて新居崎のほうへ向かう。
 戸棚で隠れていた新居崎の姿が見えた、と思った瞬間。
 新居崎に向かい合うようにして、もう一人誰かいることに気がついた。
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