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第四章

十六、

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 きらきらと心がざわめく。
 ふいに。
 新居崎の手が、腰から離れた。
「待て」
「先生?」
「落ち着け。私は、何をしてるんだ。いや、そもそも、何を口走っている。違う、そうじゃないだろう」
 頭を抱える新居崎の姿に、麻野は苦笑した。憂いを帯びた美男子は、自分の言動に後悔しているらしい。
 どうやら、先ほどの剣幕は、混乱からのものだったらしいと麻野は察した。何も新居崎は、本気で麻野へプロポーズをしたわけではないのだろう。突然現れた酒呑童子の言葉に流されつつあった麻野に、意思の大切さを教えるためについた虚言だったのだ。
 そう思った途端、落胆する自分がいることに麻野は気づく。
 けれど、同時に嬉しくもある。
 そこまでして、こんなふうに混乱までして、麻野を助けようとしてくれたのだ。本当に新居崎は優しい。
「そもそも妖怪など存在するのか。これは白昼夢じゃないのか。いや、違う。問題はそこでもない」
「先生、もう大丈夫ですよ。しーちゃんは、帰りました」
「あ、ああ。……しーちゃんは、帰ったのか。しーちゃん……田中静子だったな。いや。あの姿はどう見ても男で、女で、別人のように。だが、人間ですらないような」
「いったん落ち着きましょう。ね?」
 新居崎は、がしがしと頭を掻いて、深く息を吐きだした。沈黙がおりて、麻野は今のうちに床にこぼしたままのお茶を片付け始める。
 新居崎は立ち尽くしたままだ。
 科学脳の彼にとって、妖怪の存在がショックだったのかもしれない。麻野はそっと伺いながら、どうしたものかと思案する。
 どうやら麻野は、新居崎のことが、好きらしい。
 らしい、というのは、確固たる証拠がないので、疑問形をとってしまうのだ。けれど、好きという言葉が、すとんと納得できた。
 中学生時代の友人が話してくれた、目が合うだけで呼吸がとまったり、姿を見かけるだけでどきどきしたり、そういった「ザ、恋」という情熱ではないけれど。
 それでも、一緒にいて楽しいし、これからも傍にいたいと思うし、何より新居崎のことをもっと知りたいと思うこの気持ちは、とても特別なものだ。
 恋をすると不安を覚えたり、嫉妬深くなったりすると聞いていた。
 今の麻野はとても穏やかだ。
 あくまで「今の」である。
 新居崎と出会い、彼に惹かれたことによって、今後、麻野は自分でも知らなかった己を発見するだろう。それが負の感情であれ、よい感情であれ、知れることを喜ばしく思う。
 新居崎の将来に、麻野はいないだろう。新居崎と釣り合う女性になる努力をするべきかもしれないが、不思議と、無理に背伸びしようだとか、彼の趣向に合わせようだとか、そういった考えは持てなかった。
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