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終章

一、

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 麻野は、鞄の紐をぎゅっと握りしめて、大きく深呼吸をした。肩に斜めにかけた鞄のなかには、手土産の和菓子が入っている。
 目の前には、マンションがある。
 十二階建てのマンションは、自動でドアは開かず、暗証番号を入力するか住人に連絡して内側から開けてもらう必要があるという。
 静子のマンションも似ているが、今時のマンションというのは、こんなに立派なのだろうか。麻野の暮らすマンションは、入り口に管理人室があるだけで、自動ドアは文字通り自動で開くし、三階建てで、エレベーターを使わなくても階段で充分に部屋までいける。
「……でもさ、学生の一人暮らしなんて、あんなものじゃない?」
 学生寮に入っていない分、近場で安い部屋を探すと、大体麻野が暮らしているような場所になるような気もする。いやむしろ、アパートではない分、贅沢だろう。使い勝手は、アパートと大差ない、名前だけのマンションだとしても。
 ふいに、携帯電話が鳴った。
 ひっ、と小さく悲鳴をあげて、携帯電話を取り出す。着信には、新居崎の名前が表示されていた。
「は、はいっ。麻野です」
『遅い、迷子か。迎えがいるか?』
「いえ、たった今、つきました! 下にいます」
『鍵をひらく、すぐに入れ』
 ぴっ、と通話が切れて、次いで、玄関の自動ドアがひらいた。ふわっ、と涼しい風がなかから押し寄せてきて、引き寄せられるようにマンションに入る。
 麻野は、正面玄関から入ったあと、おそるおそる歩みを進めて、目の前に現れた噴水に驚愕した。
――マンションのエントランスに、噴水がある!
「わぁ、すごい。小銭とか投げ入れていいのかなぁ」
「言いわけないだろう」
 憮然とした声に、悲鳴をあげながら振り返ると。エレベーターを背後に、下りてきたばかりらしい新居崎がこちらに歩み寄ってくるところだった。いつものスーツとも薄手のシャツとも違う、カジュアルな黒を基調とした服装だった。
 モデルみたい、などではなく、これはもうモデルだ。恰好よいを通り過ぎて、神格化しそうである。
「大体、今時マンションのエントランスはこんなものだ。オブジェに凝っているところも多い。……聞いているのか?」
「か」
「か?」
「かっこいいです! 先生って、なんでも似合うんですね!」
 すごい、と瞳をきらめかせる麻野に、新居崎は何度も目を瞬くと、自分の衣類を見た。こほん、と軽い咳払いをすると、「そ、そうか」と小声で告げる。
 麻野の煌めく視線が逃れるように踵を返すと、エレベーターへ引き返し始めた。
「ついてこい。こっちだ」
「はい!」
 うきうきとエレベーターに乗り込む。二人きりの密室にドキドキしながら、麻野は初めて新居崎の部屋に訪れることになった経緯を思い出していた。
 あれは、つい三日前。
 酒呑童子が乱入してきたあの日から、一週間が経っていた。
 久しぶりの新居崎からの連絡は、「雑用を手伝え」とのことだった。いつもの新刊の買出しに、客人に出す茶菓子の購入など。そして今日は、書類の整理や部屋の片づけのために、家に呼ばれたのだ。
 曲がりなりにも、麻野は女子大生。いくら論外だからといって、准教授の部屋にあがるのはどうかと思わなくもない。けれど、手伝ってほしいと新居崎が言うのだから、力になりたいとも思うのだ。
「ちなみに、誰か一緒に暮らしてたりするんですか?」
「いや」
「今、お客さんとか来てたり」
「するわけがない」
 なるほど、二人きりということか。
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