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第一章

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「草太くん、あなた先に帰っていいわよ。あとは私がやるから」

 草太は春野主任と共に残業していた。仮眠させてもらった条件が残業だったが、草太にとっては少しも苦ではなかった。なぜなら、美しい主任と共に仕事ができるからだ。彼女の息遣いを感じながら仕事に励むのは、むしろ喜びだった。だから最後まで一緒に仕事がしたかった。

「女性である主任を、おひとりで帰すわけにはいきません」
「大丈夫よ。タクシーチケットあるから」

 紳士を気取ってみたが、糠ぬかに釘くぎ、暖簾のれんに腕押し、
春野主任にとっては全く意味がなかったらしい。

「悪いけど、草太くんにやってもらえる仕事は、もうないの」
「そ、そうすか……」

 申し訳なさそうに、そっと主任は告げた。容赦のない現実。草太は黙って受け入れるしかなかった。

「すみません。お先に失礼します」
「はい、お疲れ様でした」

 美しい微笑みで応えてくれたが、すぐに仕事の顔に戻ってしまう。パソコンのデータを真剣に見つめる主任は、どこか楽しそうだった。

(本当に、この仕事が好きなんだな)

 春野主任は誰より努力家であることは、社の誰もが認めるところだった。そして相応の結果も出してきた。草太にとって、春野主任は憧れであり、尊敬する上司でもあった。

「そうだ。せめて主任の好きなチョコレートでもさしいれしよう」

 公にはしてないようだが、春野主任は甘いもの、特にチョコレートが好物らしい。仕事の休憩時に、よく食べているからだ。

 チョコを口にふくんだ瞬間にだけ見せる、とろけるように幸せそうな顔。

 あの顔を近くで見られないのは残念だが、仕事に集中する主任の邪魔はしたくない。少し高級なチョコレートを買ってきて、そっと置いていこう。ひとり考えを巡らした草太は、我ながら名案だと手を叩くと、近くの店に走った。

 チョコレートを買ってきた草太は、オフィスに戻った。春野主任のそばに、紙袋ごとそっと置いておこうと思ったのだ。様子を伺おうと、そっと中をのぞき込んだ。主任はデスクで眠ってしまっていた。その寝顔はあどけなく、歳上の女性とは思えなかった。

「主任、無用心だなぁ」

 憧れの人の寝顔を垣間見ることができて、正直嬉しい。しかし誰もいないオフィスでひとりにしておくのは、さすがに気が引けた。草太はスーツの上着を脱ぐと、主任にそっと掛けてあげた。

(疲れてるんだ。しばらく寝させてあげよう)

 主任の向かいのデスクに座った。春野の寝顔を眺めつつ、目覚めるのを待った。すぅすぅと軽やかな寝息を立てながら気持ちよさそうに眠る主任は可愛らしく、その寝顔を見ている草太まで眠くなってきた。椅子に座ったまま、ゆらゆらと船をこぐ。

(ダメだ、僕まで寝たら)

 眠くなった目をこすり、体を起こした瞬間だった。春野主任の体に、異変が起きた。

 主任の美しい顔を支える細くて白い首が、音もなく、するすると伸び始めたのだ。首はしゅるしゅると伸びて、主任の頭はそのまま天井へと行き着く。

(しゅ、主任のくび、首が、なんで??)

 酸素を摂りたい魚のように、口だけをパクパクと動かす。声がでない。声を出そうとすればするほど、頭がおかしくなりそうだ。

(これは、夢だ。夢に違いない)

 天井に到達した春野主任の頭が、こつんと天井にあたる。その音で春野はそっと目を開けた。天井から見下ろし、デスクに座ったままの自らの体を確認する。

「やだ、もう。私ってば、またやっちゃった」

 小さな失敗を誤魔化すように、春野は舌を出し、てへっと可愛らしく微笑んだ。その顔はまさしく、いつもの春野主任だった。
 草太はその場でへたりと座り込んだ。腰が抜けてしまったようだった。

「しゅ、主任……」

 草太はやっとのことで声を出した。
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