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あおの章 青葉
青葉と朱里
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ふたりだけの話し合いからまもなく、水樹は海外へと旅立った。
別れの際、水樹に朱里を抱くように勧めた。朱里の温もりを、水樹に憶えておいてほしかったからだ。
「い、いいのか?」
「おまえの娘だろ。その温もりを忘れずに頑張って、必ず帰ってこい」
そっと朱里を抱き、小さな手にふれようとしたときだった。朱里は水樹の人差し指を、きゅっと握にぎりしめたのだ。「かならず、かえってきてね」とでも伝えるかのように。
「朱里……」
水樹の人差し指を握りしめた朱里の動作は、赤ん坊特有の反射的な動きだと後に知ることになる。だがその時の水樹にとっては、この上のない幸福であっただろう。涙をこぼしながら、何度も娘の名前を呼んでいたのだから──。
そして僕と朱里、ふたりだけのだけの生活が始まった。
大学をしばらく休学し、朱里を育てることに専念した。子育ての経験などない僕にとっては、何もかもが手探りの状態だったからだ。育児書をあさり、お世話になった病院に相談したりしながら、必死に朱里を育てた。
朱里の夜泣きで、眠れない日々が続く。慣れない子育てに疲れ切って、朱里と一緒にうたた寝してしまうこともあった。動き出すようになれば目が離せなくなるし、気が休まる時がない。
けれど、そんなときに見せる朱里の何気ない仕草や笑顔に心が癒いやされることを知った。
常に僕の後をついて回り、足にまとわりつきながら、可愛らしい笑顔を見せる。抱っこしているときの温もり、名前を呼んだ時の満面の笑み。愛らしい姿は、天使のようだ。親バカ(正確にはおじバカだが)もいいところだが、本気で思ってしまうから不思議だ。
いつしか朱里の成長は僕の生き甲斐がいとなり、希望となった。
こどもは小さな幸せを見つける天才だ。
たとたどしい言葉でおしゃべりを始めるようになると、思ってもみなかった幸福を教えてくれるのだ。
「おじしゃん、おじしゃん! お月さま、キレイねぇ」
「本当だね、朱里。今晩は月がきれいだ」
「お月さまねぇ、あたちをずぅっと見てるのよ。だからお月さまにむかって、にこってするの。そしたらねぇ、お月さま、もっときれいになって、あたちもうれしくなるの」
「朱里が笑うと、お月様がキレイになるのかい?」
「そうよ~。おじしゃんもわらってぇ? おこりんぼさん、だめぇ」
「わかったよ、朱里。笑顔が一番だ。いらついていたらダメだね」
月のきれいな夜は、朱里とふたりで月見を楽しむようになった。忙しくて辛い日々も、不思議と穏やかになれた。
一緒に散歩に出れば、小さな虫や蝶、野良猫などの命あるものを見ては共に楽しんだ。
朱里といるだけで、日常の様々なものが輝いて見える。ただそこに在るだけで、命は尊い。儚く、時に脆いからこそ、命は大切に守らなくてはいけない。それは僕自身も同じことだ。若くして天に召された桃子のぶんも、僕はしっかり生きていく。たとえ何があっても。
「おじさん、あたしねぇ。おじさんの大きな手が大好き」
「手が好きなの? おじさんじゃなくてかい?」
「もちろん、おじさんも好きよ? だって、おじさんの大きな手で、なでられると安心するんだもん。おいしいごはんも作ってくれるしね」
「最後はごはん? 朱里は食いしん坊だなぁ」
「ちがうってばぁ。もうっ、おじさんのいじわる!」
ありがたいことに、朱里は大きな病気をすることもなく、すくすくと元気に成長してくれた。
いつも笑顔で元気いっぱい、共にいるだけで気持ちが明るくなれる。父も母も知らずに育ったのに、良い子に成長してくれたと思う。大変なことも多かったけれど、朱里との生活は幸せそのものだった。
父である水樹は、朱里が年頃になっても帰ってこなかった。
お金はだけは定期的に送ってきたし、その額も年々増えているので、どうやら頑張ってはいるようだ。連絡を取ろうにも、あちこちを転々としているらしく、所在がわからなかった。ある年には、水樹の名が刻まれた風景の写真集が送られてきた。
「写真家として成功した証しを送ってくるぐらいなら、一度日本に帰ってこればいいものを……。まったく、本当に手のかかる弟だよ」
時おり空を眺めては、朱里の母である桃子に思いを馳せる。
桃子、朱里は良い子に育ったよ。
最近は桃子によく似てきて、ふとした時に見間違えそうになるほどだ。
朱里は高校生になったんだよ。高校では男の子と仲良くなったらしくてね、嬉しそうにその少年の話をするんだ。その少年は双子の兄弟のひとりらしい。何の因果だろうね? それとも桃子に似たのかな。
あと少しすれば、朱里も独り立ちできるようになるだろう。もうそろそろ、僕の役目は終わったと思ってもいいかい?
ああ、でも一つだけ大事なことが残っているね。水樹と朱里の仲を取りもってやらないと。
朱里は優しい子だけど、頑固なところもあるから、水樹とは反発しそうで心配だ。朱里の意地っ張りなところは、水樹に似てしまったのかな。
水樹は本当に困ったヤツでごめんな。弟はいろいろと面倒だけど、僕にとってはたったひとりの兄弟なんだ。
桃子、天国から水樹と朱里のことをどうか見守ってほしい。意地っ張りで頑固なふたりが、父と娘として向き合えるようにね。
それまで僕も、もう少しだけ頑張ることにするよ──。
別れの際、水樹に朱里を抱くように勧めた。朱里の温もりを、水樹に憶えておいてほしかったからだ。
「い、いいのか?」
「おまえの娘だろ。その温もりを忘れずに頑張って、必ず帰ってこい」
そっと朱里を抱き、小さな手にふれようとしたときだった。朱里は水樹の人差し指を、きゅっと握にぎりしめたのだ。「かならず、かえってきてね」とでも伝えるかのように。
「朱里……」
水樹の人差し指を握りしめた朱里の動作は、赤ん坊特有の反射的な動きだと後に知ることになる。だがその時の水樹にとっては、この上のない幸福であっただろう。涙をこぼしながら、何度も娘の名前を呼んでいたのだから──。
そして僕と朱里、ふたりだけのだけの生活が始まった。
大学をしばらく休学し、朱里を育てることに専念した。子育ての経験などない僕にとっては、何もかもが手探りの状態だったからだ。育児書をあさり、お世話になった病院に相談したりしながら、必死に朱里を育てた。
朱里の夜泣きで、眠れない日々が続く。慣れない子育てに疲れ切って、朱里と一緒にうたた寝してしまうこともあった。動き出すようになれば目が離せなくなるし、気が休まる時がない。
けれど、そんなときに見せる朱里の何気ない仕草や笑顔に心が癒いやされることを知った。
常に僕の後をついて回り、足にまとわりつきながら、可愛らしい笑顔を見せる。抱っこしているときの温もり、名前を呼んだ時の満面の笑み。愛らしい姿は、天使のようだ。親バカ(正確にはおじバカだが)もいいところだが、本気で思ってしまうから不思議だ。
いつしか朱里の成長は僕の生き甲斐がいとなり、希望となった。
こどもは小さな幸せを見つける天才だ。
たとたどしい言葉でおしゃべりを始めるようになると、思ってもみなかった幸福を教えてくれるのだ。
「おじしゃん、おじしゃん! お月さま、キレイねぇ」
「本当だね、朱里。今晩は月がきれいだ」
「お月さまねぇ、あたちをずぅっと見てるのよ。だからお月さまにむかって、にこってするの。そしたらねぇ、お月さま、もっときれいになって、あたちもうれしくなるの」
「朱里が笑うと、お月様がキレイになるのかい?」
「そうよ~。おじしゃんもわらってぇ? おこりんぼさん、だめぇ」
「わかったよ、朱里。笑顔が一番だ。いらついていたらダメだね」
月のきれいな夜は、朱里とふたりで月見を楽しむようになった。忙しくて辛い日々も、不思議と穏やかになれた。
一緒に散歩に出れば、小さな虫や蝶、野良猫などの命あるものを見ては共に楽しんだ。
朱里といるだけで、日常の様々なものが輝いて見える。ただそこに在るだけで、命は尊い。儚く、時に脆いからこそ、命は大切に守らなくてはいけない。それは僕自身も同じことだ。若くして天に召された桃子のぶんも、僕はしっかり生きていく。たとえ何があっても。
「おじさん、あたしねぇ。おじさんの大きな手が大好き」
「手が好きなの? おじさんじゃなくてかい?」
「もちろん、おじさんも好きよ? だって、おじさんの大きな手で、なでられると安心するんだもん。おいしいごはんも作ってくれるしね」
「最後はごはん? 朱里は食いしん坊だなぁ」
「ちがうってばぁ。もうっ、おじさんのいじわる!」
ありがたいことに、朱里は大きな病気をすることもなく、すくすくと元気に成長してくれた。
いつも笑顔で元気いっぱい、共にいるだけで気持ちが明るくなれる。父も母も知らずに育ったのに、良い子に成長してくれたと思う。大変なことも多かったけれど、朱里との生活は幸せそのものだった。
父である水樹は、朱里が年頃になっても帰ってこなかった。
お金はだけは定期的に送ってきたし、その額も年々増えているので、どうやら頑張ってはいるようだ。連絡を取ろうにも、あちこちを転々としているらしく、所在がわからなかった。ある年には、水樹の名が刻まれた風景の写真集が送られてきた。
「写真家として成功した証しを送ってくるぐらいなら、一度日本に帰ってこればいいものを……。まったく、本当に手のかかる弟だよ」
時おり空を眺めては、朱里の母である桃子に思いを馳せる。
桃子、朱里は良い子に育ったよ。
最近は桃子によく似てきて、ふとした時に見間違えそうになるほどだ。
朱里は高校生になったんだよ。高校では男の子と仲良くなったらしくてね、嬉しそうにその少年の話をするんだ。その少年は双子の兄弟のひとりらしい。何の因果だろうね? それとも桃子に似たのかな。
あと少しすれば、朱里も独り立ちできるようになるだろう。もうそろそろ、僕の役目は終わったと思ってもいいかい?
ああ、でも一つだけ大事なことが残っているね。水樹と朱里の仲を取りもってやらないと。
朱里は優しい子だけど、頑固なところもあるから、水樹とは反発しそうで心配だ。朱里の意地っ張りなところは、水樹に似てしまったのかな。
水樹は本当に困ったヤツでごめんな。弟はいろいろと面倒だけど、僕にとってはたったひとりの兄弟なんだ。
桃子、天国から水樹と朱里のことをどうか見守ってほしい。意地っ張りで頑固なふたりが、父と娘として向き合えるようにね。
それまで僕も、もう少しだけ頑張ることにするよ──。
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