あおとみずいろと、あかいろと

蒼真まこ

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みずいろの章 水樹

祈り

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『桃子さんがお産が始まりそうです。急いで病院に来て下さい』

 手短に要件だけ伝えてきたが、受話器の向こうの看護師が少しだけ焦っている気がした。

「え……? だって出産予定日はもう少し先ですよね?」

 疲労した体と眠気でぼんやりしていた頭では、すぐに状況を理解できない。

『詳しくは病院でお話ししますので、とにかく急いで下さい!』
「は、はい。わかりました

 混乱する頭をどうにか落ち着かせながら、上着や財布などをつかみとり、自宅を飛び出した。病院まで自転車で約十五分。急ぎならタクシーを呼べば良かったのかもしれないと思いつつ、必死で自転車のペダルを漕いだ。「大丈夫、大丈夫」と笑う桃子の顔を浮かべながら。

 病院に到着すると、すぐに看護師が飛んできて、担当医師のところに連れていかれた。

「桃子さんのお産が始まりそうです。血圧が上昇してますし、お腹の赤ちゃんも外に出てもケアできるところまで成長してますので、帝王切開ていおうせっかいで出産していただいたほうが良いかと思います。御主人はどう思われますか?」
「え、どうって言われても……。あの、桃子はなんて言ってるんですか?」

 医師と看護師は視線を合わせ、軽くうなずき合い、今度は看護師が説明を始めた。

「桃子さんは赤ちゃんが無事に生まれてくることを優先してほしい、とのことでした。帝王切開は手術になるため、担当医からの説明と家族の同意が必要なんです。ご理解、ご了承をいただけるのでしたら、書類に署名をお願いします」
「は、はい。わかりました……」

 促されるまま、書類にサインをして渡した。正直状況がよくわからないが、お腹の子が早く生まれてこようとしていることだけはわかった。

「あの。桃子とお腹の赤ん坊をよろしくお願いします!」

 咄嗟に頭を下げることしかできなかった。担当の医師は表情を変えることなく「全力を尽くします」とだけ答えてくれた。否定も肯定もしない返答に、わずかな不安を感じた。

 その後は手術室の控え室で待つことしかできなかった。ただ時間だけが過ぎていく。時折響いてくる救急車のサイレンを聞くたび、体がびくりと震える。不気味な静けさがある真夜中の病院に、不安だけがどんどん強くなっていく。

「桃子、どうか頑張ってくれ……」

 両手を合わせ、天に向かって祈るように独り言ちた時だった。
 看護師が俺のほうに向かって、慌てて走って来るのが見えた。驚いて立ち上がると、緊迫した様子で手早く説明を始める。

「芹沢さん、赤ちゃん産まれました! 女の子です。体が小さいので、NICU(新生児集中治療室)に行くことになるかと思います。ただ桃子さんの出血が止まらないため、しばらく治療が必要です。輸血も必要になるかと思いますので、ご了承いただけますか?」

 無事に赤ん坊は産まれたようだ。
 だが桃子に何かあったということなのだろうか? 

「桃子は大丈夫ですか?」
「こちらでお待ち下さい!」

 手術室から看護師や医師が、慌てた様子で出入りしているのがわかる。どう見ても尋常ではない。

 いったい……何が起きてるんだ? 
 桃子は無事なのか?  

 次から次におきる現実にめまいを感じながら、必死に祈ることしかできなかった。
 人の少ない病院で、自分の呼吸や心臓の音だけがやけに響く。何もできない俺に、体が悲鳴をあげて責め立てているかのようだ。

「桃子、桃子、桃子、桃子、桃子……」

 愛しい妻の名を、何度呼んだことだろう。唱え続けていれば、元気な桃子にまた会える。きっとそうだ。
 わずかな希望にすがることしか、俺にできることはなかった。

 妻は、桃子は俺にとって命より大切な存在だ。彼女がいたから、青葉や家族との関係も修復できて、未来に希望をもつことができた。将来の夢だって、桃子がいたからこそ夢見ることができるのだ。それほど大切な人を、神様が簡単に奪うはずはない。だって桃子との出会いは、きっと運命だから……。

 どれくらい時間が経っただろう。気づけば、看護師が一歩離れたところに立っていた。

「芹沢さん……先生がお呼びです」

 遠慮がちに声をかけてきた看護師の顔は、やや青ざめていた。

「桃子は!? 桃子はどうなったんですか?」

 看護師は何も答えなかった。「先生から説明がありますので」としか言わないのだ。それが何を意味するのか、必死に考えないようにしながら、担当の医師の元へ向かった。

 桃子が病院のベッドに横たわっている。最初はただ眠っているのだと思った。

「桃子?」

 返事は、ない。

 いつもの明るい笑い声も、はにかむような微笑みもなく、静かに眠っていた。その顔はぞっとするほど、白かった。

「全力を尽くしましたが……残念です」

 担当の医師が、静かにささやくように、ぽつんと告げた。

「え……? ざ、ザンネンって……?」

 この医師は、何を言っているのだろう? 残念って、何だよ? 

「ご臨終です……。芹沢桃子さんは、お亡くなりになられました……」

 ゴリンジュウ。
 その言葉を聞いた瞬間、俺の体から光が消えた。ろうそくの火を消すように、ふぅっと明かりが消失していくのを感じた。

「亡くなる……? それって桃子はもう目覚めてくれない……ってこと、ですか? でも桃子は、俺の目の前にいますよ。生きてますよ、先生」

 すがるように、桃子の手を握った。その手は全てを拒絶するように冷たい。いつもの温かさがない。

「ももこ……?」

 呼びかけに応じることなく、桃子の白い指先が、俺の手の中から力なく滑り落ちていった。
 桃子の体は動かない。俺の声にも、まったく反応しない。ただ目の前に横たわっているだけなのだ。
 ぼんやりとした頭が、この事態を徐々に理解していく。

「う、そだ……。うそだぁぁぁ!!」

 確かにあったはずの望みも将来への夢も、闇の中にのまれていくのを感じた。
 ゆっくりと、けれど確実に消えていく愛という光に、俺のすべてが破壊されていく。

「桃子が、ももこが、俺を置いて死ぬはずがないんだぁぁ! 頼む、起きてくれ、ももこぉぉ~!!」
 
 希望の光とすべての愛が、闇の中に消えていく。俺の手を離れ、天へと昇っていってしまう。
 光と交代するのを待っていたかのように、ねばつくような暗闇が、俺を心をからめとり支配していく。
 闇の中になす術なく沈んでいきながら、愛する桃子の名を狂ったように叫び続けた。

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