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24章 ー 魔界 ー
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魔術教官のクローディアが目覚めたのは、暗く重い空間だった。
「ここは……」
手に湿った土が付いている、外のようだが、周囲は暗く、鈍く唸るような音が静かに聞こえてくる。遠くに火山のような凹凸が見え、マグマの筋が赤く燃えている。
カミナリが鳴っているようだが、その音は微かに聞こえるくらいの小さいものだった。
遠くで光っては消えてを繰り返している。
風が吹いていないのか、なんとも生温かい空気だ。
一体何が起こったのかさっぱり分からない。
助かったという感覚もあまりなかった。
ただ、自分の状況を客観的に見ると、大きな問題が一つあった。
裸だった。
気付いた瞬間、びっくりして自分の胸と秘所を隠す。
周辺に人はいないようだが、さすがに外で裸体を晒すのは恥ずかしい。
人がいる場所に行きたいが、こんな状態では移動もしたくなくなる。
そもそもクローディアは少々男性恐怖症の気があるのだ。
このままでは怖い。
とりあえず、魔法でプロテクトを掛け、身を守ることにしようとクローディアは思った。
周辺を見渡しながら歩き始める。とにかく何か身を隠せるところを探したい。
クローディアは現状を把握するために思索する。
この状況。一体何が起こったのか意味が分からなかった。
さっきまで、ダカン教官と一騎打ちをしていたはずだ。
戦士養成学校の厨房で、【氷の鎖】を使ってダカンを拘束していたことは覚えている。
そこから、彼が鎖を断ち切り、襲い掛かってくる直前で、何か大きな闇に飲み込まれたのだ。
考えうるに、イベリスのネクロマンサーの術と関係している。
彼女が何かの死霊を呼び出したのだ。
しかし何を呼び出したのだろうか?
黒い煙に覆われ、巨大な怪物に飲み込まれたような、そういう感覚だ。
イベリスのことだ、少なくとも、助けようとしたことは確かだろう。
イベリスが何らかの死霊を呼び出すことに成功し、ダカンを狙った。
おそらく、ダカンを捕えるつもりが、私まで巻き込まれたのだ。
そうでなかったとしたら、私が危険であることを察知し、瞬間移動させたという可能性もある。
だが、もしそうだとしたら一方通行の魔法かもしれない。
ここがどこかは分からないが、あまり平和な印象は受けなかった。
最悪、私はすでに死んでいて、魂だけになっている可能性も考えられる。
両手で自分の身体を触り、肌の感触を確かめる。
ちょうど裸なので、分かりやすい。
普段と変わらない感触。一応、自分の感覚としては生きている。
地獄なんてものが存在するとしたら、ここはそういう類いの場所なのかもしれない。
それにしてもイベリスが心配だ。
私がドロップアウトしたということは、訓練校でリトルシャドウと、つまりダカン教官と戦っているのは彼女一人ということになる。
もし、もう一体のリトルシャドウを倒せていたとしても、ダカン教官は難しいだろう。
あれだけ強い先生を倒せるのは、フォースインゴットの戦士だとしても少数だ。
いや、少数すらいるのか怪しい。一対一で戦って勝てる男ではない。
多数が飛び掛かって、なんとか抑えられるくらいだろう。
ダカンのような高い身体能力のある戦士は、味方として頼りになるが、魔法で操られやすいという欠点がある。
本人も自覚はあるはずだが、彼のような座学を嫌う性格の男は説得するのが難しい。
ゆえに、周囲で彼を援護する他ない。
戦士にはバランス型もいるが、ダカンのような特化型の方が成果を出すことが多く、本人もそれを誇りと思っている節がある。
バランス型は僻みやすいタイプが多く、なんでもできる分周囲への態度も厳しい。
それに引き換え、ダカンのような分かりやすいスペシャリストは、強い上に、味方を得やすい分、好かれるのだ。
気持ちはよく分かる。男性が苦手なクローディアも、ダカンのような男は決して嫌いではない。
ダカンのために魔術師として後方支援するのであれば、それは名誉なことだろう。
だからこそ、今回の事件はショックだった。
なんとしても救出したいところだったが、結局はこのありさまだ。
もし私が無事戻れたとして、イベリスに合わす顔がない。
もちろん、イベリスが無事であることが前提だ。
なんとか逃げてくれていればいいのだが……。
アレは?
あてもなくさまよっていると、小さいランタンの灯りが見えた。
ヒトではない。木の小屋があり、ドアの近くに垂れ下がっている。
見たことのないデザインだった。
人が3人も入ればいっぱいになりそうな小さな小屋だ。
窓ガラスに影が見え、誰か読書しているようだ。ただ、頭が大きく、ツノのようなものが2本生えているように見える。
魔物? 鬼? とにかく普通の人間のようには見えない。
ただ、生物がいるということで安心した。
完全に魂だけで浮遊しているわけでもなさそうだ。
仮にここが地獄だったとしても、一応生活している生物がいることで多少気持ちは楽になる。
深呼吸して落ち着く。
大丈夫だ。敵ではない。敵だったとしてもプロテクトを掛けている。逃げれば何とかなる。
下へ倒すタイプのドアノブに手を掛け、ゆっくり音を立てないように開けてみる。
鍵は掛かっていないようだ。
ドアの隙間から木の揺れる椅子に腰かけて本を読む生物に目を向ける。
驚いた。猫だった。
ふさふさの毛並み、黒と灰色と白が混じった毛色をしている。
器用に古い本をひざの上で読んでいる。前には暖炉があり、静かに燃えている。
両足を組み、落ち着いた様子だ。
デーモンの類いではないことがわかってほっとしたが、それでも、この状況は普通ではない。
そもそも、空間がおかしかった。外側からは大人が二人入れるかというくらいのミニチュアサイズだが、中は10倍ほどの広さと天井だった。
物理的にもおかしい。
原理は分からないが、魔術が扱える猫なのだろう。
少し落ち着こうと、いったんドアを閉めようとしたら、猫が喋った。
「これは珍しい。お客さんかい?」
透き通って落ち着いた綺麗な声。猫の声とは思えなかった。声の感じではオス猫だ。
しかしこっちを向いていない。なぜ分かったのか。
黙っていると更に続ける。
「ここへ来られるということは、誰か古い死霊と契約をしたということだろう。それとも、事故に巻き込まれたのかな?」
完全にバレている様子だ。諦めてドアを開け、答える。
「すいません、突然お邪魔して、あなたは、この世界の住人ですか?」
「ほー、そうか。分かった。君はノルン様の庭園からこぼれてきた存在だね。遠くの楽園には、ハルくんもいるはずだ。もしかして会っているんじゃないかい? 彼に」
クローディアは更に驚いた。まさか、ハルという子について知っているとは思いもよらなかった。
だが、ホルスガーデンとは一体なんだろう。
「あの、ハルという少年のことは知っていますが、なぜ、あなたがそれを? あなたは誰なんですか?」
猫は呆れたように首を振る。こっちを見ようとはしない。彼の視野はどうなっているのだろう。
「……まったく、ノルン様の天使としても、身勝手極まりないね。別に私は気にせず会話を続けるが、私の仲間であれば誰も君を相手にしないだろう。だが私は優しいので忠告する。無関係で無所属な魂の忠告は、最も真実に近しいものであるということを、前もって助言しておこう。まずは感謝を述べ給え、そして敬いなさい」
「あ、ありがとうございます」
「よろしい」
「あの、それで、何を忠告していただけるのでしょうか?」
「言いたいことは一つだ。私の名前を知りたいというのであれば、まずは君から名乗るべきではないかね?」
「あ、す、すいません、クローディアと言います。クロムランドの戦士養成学校で、魔術教師をしております」
パタンと本を閉じ、初めてこちらを向いた。白いシャツと灰色のベストを着ていて、上品に見える。
こんな猫は見たことがなかった。人型の魔物であればそういう格好を好む者もいるが、あくまで人型だ。
「よろしい! 私は、猫の王、ケット・シーだ! クローディアか。教師だって? なら、私が君の教師になってあげよう。一度教師になってしまったものは他人への敬意を失ってしまうことも多い。君がそうではない人間であることを願うばかりだ。それで、猫である僕は衣服を着用しているが、君は何も身に着けていないようだね。知恵の木の実を食べ損ねた人間の子孫かな?」
裸であることを忘れていた。というより、相手が人間ではないために羞恥心はなかった。
「知恵の木の実というのは何の事でしょうか?」
「ほう、そうか、まだノルン様は伝えていなかったか。まぁ、これもいずれ、悠くんから伝わることだろうが、まだ100年は掛かりそうだ」
「あの、ケットシーさん、意味が分からないです」
「安心し給え、私も君に理解してもらおうとは思っていない。ただのテストだ。きみの成績を確認させて貰ったに過ぎない。ちなみに、知恵の木の実はリンゴのことだ。君の世界にも存在するものだよ」
「そ、そうなんですか。では、戻ったら、食べることにします」
ケットシーは高らかに笑った。
「ハッハッハ! 面白いね君は! 木の実を食べなくてもしっかりユーモアが身についているじゃないか。人の評価は成績ではなく、その性質によるものだ。君は優秀だね。ぜひともリンゴを食べると良い。そうすれば羞恥心も取り戻せることだろう」
何を言っているのかほとんど分からなかったが、何か力を持った存在であることは理解できた。
「あの、私が、なぜここにいるのか、あなたは知っているのですか? 古い死霊と仰っていましたが、それは、ネクロマンサーの力と何か関係があるのでしょうか?」
恐る恐る、ケットシーへ尋ねる。彼からは品性を感じるが、その分冷徹な印象も強かった。あまり怒らせたくない相手だ。
「ネクロマンサーとの関係? そうか、遠くの楽園では、死霊を呼び出す能力をネクロマンサーと表現しているのだね。確かに能動的な死霊との対話にその能力は便利だ。死霊はいつだって一方通行だからね」
「あの、結局、関係しているということでいいのでしょうか。答えがシンプルではないので、少し混乱してしまって」
「シンプルな答えが欲しいということかい? クローディア」
「は、はい。その方が分かりやすいので……」
「世界も言葉も感情も全ては複雑に絡み合っているものだ。君は真実よりも、虚偽の分かりやすさを求めるというのかい?」
「分かりやすいことは良いことではないのですか?」
「無論だ。分かりやすい言葉は全て虚偽だと断言しても良い」
「言い過ぎではないですか?」
「言い過ぎではない。例えば、【赤】という言葉があるが、とある物体に対して、誰かが赤いと言ったものが、他の者から見れば【黄色】に見えることもある。もし、その色を真実だというのであれば、二つのケースが生まれてしまう。その物体は、【赤色であり黄色】というひどく曖昧な回答になってしまうということだ」
「その場合の真実は、赤ではなく、赤であり黄色、ということになるのですか?」
「そうだ。真実は、【赤色と黄色、どちらにも見えるし、見る人によっては赤くも黄色くもなる色】ということだ」
「分かりにくいです」
「そうだ。真実は常に分かりにくい。愛情と憎悪も似たようなものだ。最も愛情深いからこそ憎しみも強くなる。憎しみを全く持たなくなった時、同時に愛情も失うことがあるのだよ」
「そんな考え方もあるんですね」
「そうだ。では、応用だ。君は今、羞恥心を失っているが、それはなぜだと思う?」
「知恵の木の実の話ですか?」
「それは比喩だ。君は私を下等生物だと思っている。この姿を見てね」
「そ、そんな、めっそうもないです。私なんてそんな……」
「まぁ気にするな。大丈夫だ。根本的に君に共感していないのだから、恨みも存在しない。君がそうして怖気づいてしまうのも、私に対して下等生物だと考えてしまっている証拠になる」
「なぜ、そう思われるのですか?」
「これは応用だと言っただろう? 私は猫の王だ。猫であることについて、一瞬も不満を感じたことはない。つまり、我々にとって、クローディア、君こそが下等生物なのだ。下等生物からバカにされて怒る猫がいると思うかい?」
「猫は、ともかくとして、理屈はわかりました。確かに、小さな虫からバカにされても、恨もうとは思わないです」
「さよう。これで君が怖気づく理由がなくなったわけだ」
「ですが、私が怖気づいたのは、一応、あなたが私より高位の存在だと認識したからだと思うのですが」
「なるほど、良い視点だ。たしかに、私の姿がたとえ猫であったとしても、その力や知能において自分より優秀であれば、恐怖を感じてもおかしくはない」
「はい、そういうことです」
「ならば問う。その恐怖は、私が人間の姿をしていたとしても、同じように感じたと言えるかな?」
「……そ、それは、……そこまで感じなかったかもしれません」
「正直だな。それとも話を合わせようとしているのかな? とにかく、同じ種族に対しては恐怖を感じにくいものだ。猫の姿に対して怖気づくのは、行動が予測できないからだろう。人が恐怖を感じる理由は、理解と、予測ができないことだ。同じ境遇の人間に会えば君も安心することができる。会いたいかい?」
「いるんですか? 私と同じ境遇の人が。会わせてください」
「やめておき給え」
「なぜですか? 会わせて欲しいです」
「境遇は同じでも、君にはチャンスが残っている」
「私に? なんのチャンスですか?」
「君が元の世界へ戻るチャンスだ」
「……私は、戻るチャンスがあるんですね」
「どうした? 意外そうだな、さっき、帰ったらリンゴを食べると言っていたではないか。帰るつもりではなかったのかね?」
「いえ、帰りたいとは思っていましたが、本当に帰れるとは思っていませんでしたので」
「そうか。なら、帰れない覚悟はしていたということだね」
「それも少し違います。何日かはここに居ることになると思ってましたので」
「なるほど、なら、帰ることができると分かってホッとしたかい?」
「まだ方法を聞いていませんので、油断はできません」
「そうか。まぁ、君とってはそうだろうね。私にとっては幸運なことでも、君にとって不幸だということも充分に有りうることなのだから」
「それは、どういうことです?」
「まだ教えないでおこう。絶望するには少し早い気もするのでね」
「そんな怖いことを言わないでくれませんか?」
「ふふん、私は気を遣っているのだ。物事には準備が必要だ。それは精神的な事柄においても同様だ。とにかく、落ち着くために何日かここで過ごし給え。君のために奥の物置部屋を改造してあげよう」
「できることならすぐに帰りたいのですが……」
「私は必要なことを君に課しているのであって、いたずらにキミを留めようとはしていないさ」
「必要なこと……なんですね、私が帰るために」
「むろんだ。これでも私はかなり親切に接しているつもりなのだが、そうは映っていないのかね」
「すいません、今、色んな事が起こり過ぎて余裕がなくなっておりまして。ご厚意に対して冷静な判断ができなくなってしまっているのかもしれません。できる限りのことはしようと思います」
「ほほう、良い心構えだ。では何をしてもらおうか」
「……あの、できる限りのこと、ですので、乱暴なことはしないでください」
「私に人間をいたぶる趣味はないし、人間のメスより猫のメスが好きだ。安心し給え」
「それは、……安心しました」
「ただし、そうだな。もし、キミが求めている苦しみがあるのだとすれば、それを叶えてあげても良いのだぞ?」
「いえ! そんな! 何もありません!」
「ふむ。しかし、キミの言う乱暴なことというのは、どのようなことだろう?」
「……大丈夫です。何もしなくていいのであれば、何もしないですので」
「そうもいかないだろう?」
「べつに、それは」
「できる限りのことはしたいのではないかい? それは謝礼をすることによって、対等になりたいという気持ちの表れではないのかい?」
「それは、そうですが……」
「ならば、キミが元の世界に戻ることの謝礼は高くつくと思わないか?」
「……思います。ですので、できる限りのことを」
「ほほう。そうか。ならば、一つお願いしてみようかな」
「な、何をすればいいのでしょうか?」
ケットシーは、クローディアの近くへ来ると、身体を見ながらその周りをぐるぐると回った。
クローディアは警戒する。一体どんな注文がくるのか。
本当に生きて戻れるとするなら、こんな嬉しいことはないだろう。ダカンに襲われていたら、確実にこの世から消えていたのだ。
今こうして仮に魂だけの存在だったとしても、いること自体が奇跡なのだ。
このケットシーという猫が超常的な力を持っていることは分かる。
だからこそ、何を要求されるのか想像がつかなかった。
怖い。
自分に何を要求しようとしているのか。
「コーヒーを入れてくれないか? さっきから二杯目が飲みたかったところだ」
◇ ◇ ◇
ケットシーがクローディアに渡した初めてのアイテムは首輪だった。
リードはない。ただ、それによってクローディアは、自分が飼われる存在であることを認識せざるを得なかった。
白い毛皮のフードを貰い、物置部屋へ移動した。
その物置部屋は、シングルベッドと小さい机と椅子が置かれていて、決して広いとは言えない空間だった。
机の上には、赤、オレンジ、黄色と、ゆらゆら炎が揺れ動く不思議なランタンが置かれていて、テーブルにはノートと羽ペンが用意されていた。
日記を書けという事らしい。
緩やかなカーブを描き、どこか懐かしく感じるアンティークのような椅子に座るクローディア。
羽ペンを手に持ってみる。
落ち着く。
ペンを持つだけで、どうしてこんなに落ち着くのだろうと彼女は思った。
クローディアは、かつて自分が学生だった頃のことを思い出した。
そのころ自分は自意識過剰で、とにかく優秀に見られたいために、先生が質問するであろう問題を事前に調べて勉強していた。
『いやー、この問題の公式を解説する前に答えを当てるなんて、天才じゃないか?』
先生の言葉。
『すげークローディア!』『なんで分かるんだよ』『知能が高いんだな』『やっぱり高等魔術師の家系は違うなぁ』
同級生たちの賛美。
そうだ、かつて自分はそういった賞賛を受けたいがために前もって勉強していたのだ。
賞賛されるのは良い気分だ。
例えそれが、本当に優秀だからではなく、事前に予習をしていただけであったとしても。
ズルいと思っていた。
本当に賢いのであれば、事前に準備していなくても、解けなくてはならない。
それでこそ、賞賛に値するというものだ。
クローディアはそれを分かっていた。
そして、それを可能にしていた人間もいたのだ。
『そんな問題、簡単じゃん』
彼女が賞賛されていたところに水を差したのが、ルドルフ・バルトシュタイン。
彼こそ、本当の神童だった。
『ほほぉ、バルトシュタイン。いや、ルドルフ、キミなら解けたというのかい?』
ルドルフは、小ばかにしたように、ふふんと鼻を鳴らし、その次のページに書かれている問題をすべて解説した。
『おおおおお』『ルドルフもすげー』『2人とも天才じゃん』
周囲の同級生たちは感心する。
先生は首を傾げる。
『ルドルフくん、きみのお父さんは算術に詳しい。初めから知っていたのではないか? その解き方は、君の父親が発見した新しい解法だ。教科書の内容とは違う。答えは正しいが、事前に知っていることを自慢しても、優秀とは言えないだろう』
ルドルフは立ち上がって怒った。
『ハァ! ふざけんな! 俺は親父に算術を教わったことなんて一度もねーよ! 俺は勘が良いんだ! 基礎が分かれば後は自分で全部公式を導き出せる! 親父の解き方と同じなのは偶然だ! もういい! 帰る』
ルドルフはそのまま怒りながら帰ってしまった。
『こらルドルフ! どこへ行くんだ! ……まったく、頭のいい子ではあるが、あんな態度では誰からも認められないぞ』
『あーあ、ルドルフのやつ、図星だから怒ったんだぜきっと』『あいつすぐ自慢するからなー』
先生も同級生も、ルドルフへの風当たりはどこか冷たかった。
しかし、クローディアだけは知っている。
彼、ルドルフ・バルトシュタインは、そういう類いの嘘は付かない。
クローディアは、彼の性格を知っていた。決して仲が良いわけではなかったが、彼にはプライドがあったのだ。それを何度も聞かされた。俺は自力で解くのが好きなんだと、ずっと自慢していたのだ。
皆はその自慢を鬱陶しいと思っていたが、彼女にとっては違った。ただただ、尊敬していたのだ。
こんな難しいものを、自力で何とかしようと思ったことなど、彼女は一度もなかった。
褒められようとしている自分との違い。それは彼の態度や考え方に見えていた。
もし、自分が利口で嘘つきな人間だとするなら、彼は不器用だが、正直な人間だ。
ルドルフに対し、常に恐怖を感じていた。
教科書の次に乗っている公式、そして、その公式と全く違った解き方をして解説するルドルフ。
クローディアは、彼の独創的な解き方、解説を全く理解できなかった。
それもそのはずだ。彼女はただ、公式と解説を暗記して喋っただけなのだから。
先生がルドルフに言った言葉は全て、彼女自身に当てはまることだったのだ。解説の仕方も母親から教えてもらった。
力量の差。
それを感じながらも、今の今まで、そんな独創的なことはできないまま大人になってしまった。
子どもの頃のルドルフは不憫だったが、結局、後に彼はクローディアより遥かに評価され、フォースインゴットで高い学位を獲得している。
研究者として、ブラックポンドへも論文を提供しているはずだ。
そんな昔のことを思い出す。こんなことを思い出したのはいつぶりだろう。
クローディアは自分でも意外だった。
そうだ、どうせなら書いておこう。
この日記に、自分の劣等感や、感情を書いてしまえばいいのだ。
ただ目的なく過ごすのは、それはそれで苦しいものだ。
今までの記憶や日常を書き記し、自分の生きた証しとしてここへ残そう。
そう思いながら筆を走らせていると、後ろの木のドアがキィーっと開いた。
「お? さっそく書いているのかい?」
ケットシーだった。
「あ、ケットシーさん。自分の過去を書いておこうと思いまして、日記とは少し違いますが、いいでしょうか」
「もちろん。しばらくここに居てもらうが、どう過ごすかは君の自由だ。魔術の訓練をしても良いし、日記を書いても良い。過去の自分を振り返ることも、君にとって必要なことであればするべきだろう」
ケットシーはコップと、小さいキューブ状の茶色いクッキーが山盛りになっている皿を机に置いた。
「……あの、ケットシーさん、コレは、なんでしょうか?」
「これは『キャットフード』だ。肉と魚と卵が練り込まれている。栄養満点だ。ホットミルクも置いておこう」
「私、猫じゃないんですけど……」
「あぁ、そんなことは百も承知だ。これは人間が猫用に作り、人間も試食して味は保証済みだ。二ホンという国から取り寄せている。非常に美味だ。食べ給え」
「二ホン? というのは?」
「猫という存在に対して、最も高貴な扱いをしている人類が住む都だ」
「そこは、ここから遠いところにあるのでしょうか?」
「そうだな。君がたどり着くためには生身の身体を捨てる必要があるだろう。だが、不可能ではない場所だ」
「そんなに途方もないくらい遠いところなのですか? 海の底とか、空の上とか?」
「あぁ、途方もないだろう。だが、君の魂が望めば、いずれたどり着くこともできるかもしれない」
「そうですか、いつか、行ってみたいものです」
「ふむ、実に素晴らしいフロンティア精神だ。もし君が死後も高貴な存在のままであったなら、その時はまた手を貸そう」
クローディアは笑う。
「せめて生きている時にしてくださいよ」
「ふむ、君なら生きているうちにイデアの世界へたどり着くことも可能かもしれない。姿が変わっても、今持っている精神を失うことのないようにし給え」
「何を言ってるのですか?」
「話しても分からないだろう。私は失礼するよ」
「できれば話して欲しいのですが」
「自分で気づき給え。君の世界にもそのヒントが転がっている。大丈夫だ。今日は無理をせずに早く寝ると良い」
ケットシーは部屋の外へ出るとドアを閉めてしまった。
クローディアはキャットフードを食べてみる。
クッキーのようにカリっとしていて、甘辛いような味がした。
ホットミルクを飲んでみる。
「……おいしい」
猫の食べ物のはずなのに、どうしてこんなに美味しいのだろうと思ったが、ケットシーの謎は解けそうにないので、このキャットフードについても謎が解けることはないだろう。
クローディアは思った。
ありえないことが立て続けに起きて、理解が追い付かない。
ただ、ケットシーと会ったことによって、少しだけ希望が見えたような気はした。
自分一人だけでどうにかできる気がしない。
現状では、しばらくはあの猫に従っておく他はないだろう。
それにしてもこのキャットフードは美味しいな……。
クローディアは、再びそのキューブ状の茶色いクッキーに手を伸ばした。
「ここは……」
手に湿った土が付いている、外のようだが、周囲は暗く、鈍く唸るような音が静かに聞こえてくる。遠くに火山のような凹凸が見え、マグマの筋が赤く燃えている。
カミナリが鳴っているようだが、その音は微かに聞こえるくらいの小さいものだった。
遠くで光っては消えてを繰り返している。
風が吹いていないのか、なんとも生温かい空気だ。
一体何が起こったのかさっぱり分からない。
助かったという感覚もあまりなかった。
ただ、自分の状況を客観的に見ると、大きな問題が一つあった。
裸だった。
気付いた瞬間、びっくりして自分の胸と秘所を隠す。
周辺に人はいないようだが、さすがに外で裸体を晒すのは恥ずかしい。
人がいる場所に行きたいが、こんな状態では移動もしたくなくなる。
そもそもクローディアは少々男性恐怖症の気があるのだ。
このままでは怖い。
とりあえず、魔法でプロテクトを掛け、身を守ることにしようとクローディアは思った。
周辺を見渡しながら歩き始める。とにかく何か身を隠せるところを探したい。
クローディアは現状を把握するために思索する。
この状況。一体何が起こったのか意味が分からなかった。
さっきまで、ダカン教官と一騎打ちをしていたはずだ。
戦士養成学校の厨房で、【氷の鎖】を使ってダカンを拘束していたことは覚えている。
そこから、彼が鎖を断ち切り、襲い掛かってくる直前で、何か大きな闇に飲み込まれたのだ。
考えうるに、イベリスのネクロマンサーの術と関係している。
彼女が何かの死霊を呼び出したのだ。
しかし何を呼び出したのだろうか?
黒い煙に覆われ、巨大な怪物に飲み込まれたような、そういう感覚だ。
イベリスのことだ、少なくとも、助けようとしたことは確かだろう。
イベリスが何らかの死霊を呼び出すことに成功し、ダカンを狙った。
おそらく、ダカンを捕えるつもりが、私まで巻き込まれたのだ。
そうでなかったとしたら、私が危険であることを察知し、瞬間移動させたという可能性もある。
だが、もしそうだとしたら一方通行の魔法かもしれない。
ここがどこかは分からないが、あまり平和な印象は受けなかった。
最悪、私はすでに死んでいて、魂だけになっている可能性も考えられる。
両手で自分の身体を触り、肌の感触を確かめる。
ちょうど裸なので、分かりやすい。
普段と変わらない感触。一応、自分の感覚としては生きている。
地獄なんてものが存在するとしたら、ここはそういう類いの場所なのかもしれない。
それにしてもイベリスが心配だ。
私がドロップアウトしたということは、訓練校でリトルシャドウと、つまりダカン教官と戦っているのは彼女一人ということになる。
もし、もう一体のリトルシャドウを倒せていたとしても、ダカン教官は難しいだろう。
あれだけ強い先生を倒せるのは、フォースインゴットの戦士だとしても少数だ。
いや、少数すらいるのか怪しい。一対一で戦って勝てる男ではない。
多数が飛び掛かって、なんとか抑えられるくらいだろう。
ダカンのような高い身体能力のある戦士は、味方として頼りになるが、魔法で操られやすいという欠点がある。
本人も自覚はあるはずだが、彼のような座学を嫌う性格の男は説得するのが難しい。
ゆえに、周囲で彼を援護する他ない。
戦士にはバランス型もいるが、ダカンのような特化型の方が成果を出すことが多く、本人もそれを誇りと思っている節がある。
バランス型は僻みやすいタイプが多く、なんでもできる分周囲への態度も厳しい。
それに引き換え、ダカンのような分かりやすいスペシャリストは、強い上に、味方を得やすい分、好かれるのだ。
気持ちはよく分かる。男性が苦手なクローディアも、ダカンのような男は決して嫌いではない。
ダカンのために魔術師として後方支援するのであれば、それは名誉なことだろう。
だからこそ、今回の事件はショックだった。
なんとしても救出したいところだったが、結局はこのありさまだ。
もし私が無事戻れたとして、イベリスに合わす顔がない。
もちろん、イベリスが無事であることが前提だ。
なんとか逃げてくれていればいいのだが……。
アレは?
あてもなくさまよっていると、小さいランタンの灯りが見えた。
ヒトではない。木の小屋があり、ドアの近くに垂れ下がっている。
見たことのないデザインだった。
人が3人も入ればいっぱいになりそうな小さな小屋だ。
窓ガラスに影が見え、誰か読書しているようだ。ただ、頭が大きく、ツノのようなものが2本生えているように見える。
魔物? 鬼? とにかく普通の人間のようには見えない。
ただ、生物がいるということで安心した。
完全に魂だけで浮遊しているわけでもなさそうだ。
仮にここが地獄だったとしても、一応生活している生物がいることで多少気持ちは楽になる。
深呼吸して落ち着く。
大丈夫だ。敵ではない。敵だったとしてもプロテクトを掛けている。逃げれば何とかなる。
下へ倒すタイプのドアノブに手を掛け、ゆっくり音を立てないように開けてみる。
鍵は掛かっていないようだ。
ドアの隙間から木の揺れる椅子に腰かけて本を読む生物に目を向ける。
驚いた。猫だった。
ふさふさの毛並み、黒と灰色と白が混じった毛色をしている。
器用に古い本をひざの上で読んでいる。前には暖炉があり、静かに燃えている。
両足を組み、落ち着いた様子だ。
デーモンの類いではないことがわかってほっとしたが、それでも、この状況は普通ではない。
そもそも、空間がおかしかった。外側からは大人が二人入れるかというくらいのミニチュアサイズだが、中は10倍ほどの広さと天井だった。
物理的にもおかしい。
原理は分からないが、魔術が扱える猫なのだろう。
少し落ち着こうと、いったんドアを閉めようとしたら、猫が喋った。
「これは珍しい。お客さんかい?」
透き通って落ち着いた綺麗な声。猫の声とは思えなかった。声の感じではオス猫だ。
しかしこっちを向いていない。なぜ分かったのか。
黙っていると更に続ける。
「ここへ来られるということは、誰か古い死霊と契約をしたということだろう。それとも、事故に巻き込まれたのかな?」
完全にバレている様子だ。諦めてドアを開け、答える。
「すいません、突然お邪魔して、あなたは、この世界の住人ですか?」
「ほー、そうか。分かった。君はノルン様の庭園からこぼれてきた存在だね。遠くの楽園には、ハルくんもいるはずだ。もしかして会っているんじゃないかい? 彼に」
クローディアは更に驚いた。まさか、ハルという子について知っているとは思いもよらなかった。
だが、ホルスガーデンとは一体なんだろう。
「あの、ハルという少年のことは知っていますが、なぜ、あなたがそれを? あなたは誰なんですか?」
猫は呆れたように首を振る。こっちを見ようとはしない。彼の視野はどうなっているのだろう。
「……まったく、ノルン様の天使としても、身勝手極まりないね。別に私は気にせず会話を続けるが、私の仲間であれば誰も君を相手にしないだろう。だが私は優しいので忠告する。無関係で無所属な魂の忠告は、最も真実に近しいものであるということを、前もって助言しておこう。まずは感謝を述べ給え、そして敬いなさい」
「あ、ありがとうございます」
「よろしい」
「あの、それで、何を忠告していただけるのでしょうか?」
「言いたいことは一つだ。私の名前を知りたいというのであれば、まずは君から名乗るべきではないかね?」
「あ、す、すいません、クローディアと言います。クロムランドの戦士養成学校で、魔術教師をしております」
パタンと本を閉じ、初めてこちらを向いた。白いシャツと灰色のベストを着ていて、上品に見える。
こんな猫は見たことがなかった。人型の魔物であればそういう格好を好む者もいるが、あくまで人型だ。
「よろしい! 私は、猫の王、ケット・シーだ! クローディアか。教師だって? なら、私が君の教師になってあげよう。一度教師になってしまったものは他人への敬意を失ってしまうことも多い。君がそうではない人間であることを願うばかりだ。それで、猫である僕は衣服を着用しているが、君は何も身に着けていないようだね。知恵の木の実を食べ損ねた人間の子孫かな?」
裸であることを忘れていた。というより、相手が人間ではないために羞恥心はなかった。
「知恵の木の実というのは何の事でしょうか?」
「ほう、そうか、まだノルン様は伝えていなかったか。まぁ、これもいずれ、悠くんから伝わることだろうが、まだ100年は掛かりそうだ」
「あの、ケットシーさん、意味が分からないです」
「安心し給え、私も君に理解してもらおうとは思っていない。ただのテストだ。きみの成績を確認させて貰ったに過ぎない。ちなみに、知恵の木の実はリンゴのことだ。君の世界にも存在するものだよ」
「そ、そうなんですか。では、戻ったら、食べることにします」
ケットシーは高らかに笑った。
「ハッハッハ! 面白いね君は! 木の実を食べなくてもしっかりユーモアが身についているじゃないか。人の評価は成績ではなく、その性質によるものだ。君は優秀だね。ぜひともリンゴを食べると良い。そうすれば羞恥心も取り戻せることだろう」
何を言っているのかほとんど分からなかったが、何か力を持った存在であることは理解できた。
「あの、私が、なぜここにいるのか、あなたは知っているのですか? 古い死霊と仰っていましたが、それは、ネクロマンサーの力と何か関係があるのでしょうか?」
恐る恐る、ケットシーへ尋ねる。彼からは品性を感じるが、その分冷徹な印象も強かった。あまり怒らせたくない相手だ。
「ネクロマンサーとの関係? そうか、遠くの楽園では、死霊を呼び出す能力をネクロマンサーと表現しているのだね。確かに能動的な死霊との対話にその能力は便利だ。死霊はいつだって一方通行だからね」
「あの、結局、関係しているということでいいのでしょうか。答えがシンプルではないので、少し混乱してしまって」
「シンプルな答えが欲しいということかい? クローディア」
「は、はい。その方が分かりやすいので……」
「世界も言葉も感情も全ては複雑に絡み合っているものだ。君は真実よりも、虚偽の分かりやすさを求めるというのかい?」
「分かりやすいことは良いことではないのですか?」
「無論だ。分かりやすい言葉は全て虚偽だと断言しても良い」
「言い過ぎではないですか?」
「言い過ぎではない。例えば、【赤】という言葉があるが、とある物体に対して、誰かが赤いと言ったものが、他の者から見れば【黄色】に見えることもある。もし、その色を真実だというのであれば、二つのケースが生まれてしまう。その物体は、【赤色であり黄色】というひどく曖昧な回答になってしまうということだ」
「その場合の真実は、赤ではなく、赤であり黄色、ということになるのですか?」
「そうだ。真実は、【赤色と黄色、どちらにも見えるし、見る人によっては赤くも黄色くもなる色】ということだ」
「分かりにくいです」
「そうだ。真実は常に分かりにくい。愛情と憎悪も似たようなものだ。最も愛情深いからこそ憎しみも強くなる。憎しみを全く持たなくなった時、同時に愛情も失うことがあるのだよ」
「そんな考え方もあるんですね」
「そうだ。では、応用だ。君は今、羞恥心を失っているが、それはなぜだと思う?」
「知恵の木の実の話ですか?」
「それは比喩だ。君は私を下等生物だと思っている。この姿を見てね」
「そ、そんな、めっそうもないです。私なんてそんな……」
「まぁ気にするな。大丈夫だ。根本的に君に共感していないのだから、恨みも存在しない。君がそうして怖気づいてしまうのも、私に対して下等生物だと考えてしまっている証拠になる」
「なぜ、そう思われるのですか?」
「これは応用だと言っただろう? 私は猫の王だ。猫であることについて、一瞬も不満を感じたことはない。つまり、我々にとって、クローディア、君こそが下等生物なのだ。下等生物からバカにされて怒る猫がいると思うかい?」
「猫は、ともかくとして、理屈はわかりました。確かに、小さな虫からバカにされても、恨もうとは思わないです」
「さよう。これで君が怖気づく理由がなくなったわけだ」
「ですが、私が怖気づいたのは、一応、あなたが私より高位の存在だと認識したからだと思うのですが」
「なるほど、良い視点だ。たしかに、私の姿がたとえ猫であったとしても、その力や知能において自分より優秀であれば、恐怖を感じてもおかしくはない」
「はい、そういうことです」
「ならば問う。その恐怖は、私が人間の姿をしていたとしても、同じように感じたと言えるかな?」
「……そ、それは、……そこまで感じなかったかもしれません」
「正直だな。それとも話を合わせようとしているのかな? とにかく、同じ種族に対しては恐怖を感じにくいものだ。猫の姿に対して怖気づくのは、行動が予測できないからだろう。人が恐怖を感じる理由は、理解と、予測ができないことだ。同じ境遇の人間に会えば君も安心することができる。会いたいかい?」
「いるんですか? 私と同じ境遇の人が。会わせてください」
「やめておき給え」
「なぜですか? 会わせて欲しいです」
「境遇は同じでも、君にはチャンスが残っている」
「私に? なんのチャンスですか?」
「君が元の世界へ戻るチャンスだ」
「……私は、戻るチャンスがあるんですね」
「どうした? 意外そうだな、さっき、帰ったらリンゴを食べると言っていたではないか。帰るつもりではなかったのかね?」
「いえ、帰りたいとは思っていましたが、本当に帰れるとは思っていませんでしたので」
「そうか。なら、帰れない覚悟はしていたということだね」
「それも少し違います。何日かはここに居ることになると思ってましたので」
「なるほど、なら、帰ることができると分かってホッとしたかい?」
「まだ方法を聞いていませんので、油断はできません」
「そうか。まぁ、君とってはそうだろうね。私にとっては幸運なことでも、君にとって不幸だということも充分に有りうることなのだから」
「それは、どういうことです?」
「まだ教えないでおこう。絶望するには少し早い気もするのでね」
「そんな怖いことを言わないでくれませんか?」
「ふふん、私は気を遣っているのだ。物事には準備が必要だ。それは精神的な事柄においても同様だ。とにかく、落ち着くために何日かここで過ごし給え。君のために奥の物置部屋を改造してあげよう」
「できることならすぐに帰りたいのですが……」
「私は必要なことを君に課しているのであって、いたずらにキミを留めようとはしていないさ」
「必要なこと……なんですね、私が帰るために」
「むろんだ。これでも私はかなり親切に接しているつもりなのだが、そうは映っていないのかね」
「すいません、今、色んな事が起こり過ぎて余裕がなくなっておりまして。ご厚意に対して冷静な判断ができなくなってしまっているのかもしれません。できる限りのことはしようと思います」
「ほほう、良い心構えだ。では何をしてもらおうか」
「……あの、できる限りのこと、ですので、乱暴なことはしないでください」
「私に人間をいたぶる趣味はないし、人間のメスより猫のメスが好きだ。安心し給え」
「それは、……安心しました」
「ただし、そうだな。もし、キミが求めている苦しみがあるのだとすれば、それを叶えてあげても良いのだぞ?」
「いえ! そんな! 何もありません!」
「ふむ。しかし、キミの言う乱暴なことというのは、どのようなことだろう?」
「……大丈夫です。何もしなくていいのであれば、何もしないですので」
「そうもいかないだろう?」
「べつに、それは」
「できる限りのことはしたいのではないかい? それは謝礼をすることによって、対等になりたいという気持ちの表れではないのかい?」
「それは、そうですが……」
「ならば、キミが元の世界に戻ることの謝礼は高くつくと思わないか?」
「……思います。ですので、できる限りのことを」
「ほほう。そうか。ならば、一つお願いしてみようかな」
「な、何をすればいいのでしょうか?」
ケットシーは、クローディアの近くへ来ると、身体を見ながらその周りをぐるぐると回った。
クローディアは警戒する。一体どんな注文がくるのか。
本当に生きて戻れるとするなら、こんな嬉しいことはないだろう。ダカンに襲われていたら、確実にこの世から消えていたのだ。
今こうして仮に魂だけの存在だったとしても、いること自体が奇跡なのだ。
このケットシーという猫が超常的な力を持っていることは分かる。
だからこそ、何を要求されるのか想像がつかなかった。
怖い。
自分に何を要求しようとしているのか。
「コーヒーを入れてくれないか? さっきから二杯目が飲みたかったところだ」
◇ ◇ ◇
ケットシーがクローディアに渡した初めてのアイテムは首輪だった。
リードはない。ただ、それによってクローディアは、自分が飼われる存在であることを認識せざるを得なかった。
白い毛皮のフードを貰い、物置部屋へ移動した。
その物置部屋は、シングルベッドと小さい机と椅子が置かれていて、決して広いとは言えない空間だった。
机の上には、赤、オレンジ、黄色と、ゆらゆら炎が揺れ動く不思議なランタンが置かれていて、テーブルにはノートと羽ペンが用意されていた。
日記を書けという事らしい。
緩やかなカーブを描き、どこか懐かしく感じるアンティークのような椅子に座るクローディア。
羽ペンを手に持ってみる。
落ち着く。
ペンを持つだけで、どうしてこんなに落ち着くのだろうと彼女は思った。
クローディアは、かつて自分が学生だった頃のことを思い出した。
そのころ自分は自意識過剰で、とにかく優秀に見られたいために、先生が質問するであろう問題を事前に調べて勉強していた。
『いやー、この問題の公式を解説する前に答えを当てるなんて、天才じゃないか?』
先生の言葉。
『すげークローディア!』『なんで分かるんだよ』『知能が高いんだな』『やっぱり高等魔術師の家系は違うなぁ』
同級生たちの賛美。
そうだ、かつて自分はそういった賞賛を受けたいがために前もって勉強していたのだ。
賞賛されるのは良い気分だ。
例えそれが、本当に優秀だからではなく、事前に予習をしていただけであったとしても。
ズルいと思っていた。
本当に賢いのであれば、事前に準備していなくても、解けなくてはならない。
それでこそ、賞賛に値するというものだ。
クローディアはそれを分かっていた。
そして、それを可能にしていた人間もいたのだ。
『そんな問題、簡単じゃん』
彼女が賞賛されていたところに水を差したのが、ルドルフ・バルトシュタイン。
彼こそ、本当の神童だった。
『ほほぉ、バルトシュタイン。いや、ルドルフ、キミなら解けたというのかい?』
ルドルフは、小ばかにしたように、ふふんと鼻を鳴らし、その次のページに書かれている問題をすべて解説した。
『おおおおお』『ルドルフもすげー』『2人とも天才じゃん』
周囲の同級生たちは感心する。
先生は首を傾げる。
『ルドルフくん、きみのお父さんは算術に詳しい。初めから知っていたのではないか? その解き方は、君の父親が発見した新しい解法だ。教科書の内容とは違う。答えは正しいが、事前に知っていることを自慢しても、優秀とは言えないだろう』
ルドルフは立ち上がって怒った。
『ハァ! ふざけんな! 俺は親父に算術を教わったことなんて一度もねーよ! 俺は勘が良いんだ! 基礎が分かれば後は自分で全部公式を導き出せる! 親父の解き方と同じなのは偶然だ! もういい! 帰る』
ルドルフはそのまま怒りながら帰ってしまった。
『こらルドルフ! どこへ行くんだ! ……まったく、頭のいい子ではあるが、あんな態度では誰からも認められないぞ』
『あーあ、ルドルフのやつ、図星だから怒ったんだぜきっと』『あいつすぐ自慢するからなー』
先生も同級生も、ルドルフへの風当たりはどこか冷たかった。
しかし、クローディアだけは知っている。
彼、ルドルフ・バルトシュタインは、そういう類いの嘘は付かない。
クローディアは、彼の性格を知っていた。決して仲が良いわけではなかったが、彼にはプライドがあったのだ。それを何度も聞かされた。俺は自力で解くのが好きなんだと、ずっと自慢していたのだ。
皆はその自慢を鬱陶しいと思っていたが、彼女にとっては違った。ただただ、尊敬していたのだ。
こんな難しいものを、自力で何とかしようと思ったことなど、彼女は一度もなかった。
褒められようとしている自分との違い。それは彼の態度や考え方に見えていた。
もし、自分が利口で嘘つきな人間だとするなら、彼は不器用だが、正直な人間だ。
ルドルフに対し、常に恐怖を感じていた。
教科書の次に乗っている公式、そして、その公式と全く違った解き方をして解説するルドルフ。
クローディアは、彼の独創的な解き方、解説を全く理解できなかった。
それもそのはずだ。彼女はただ、公式と解説を暗記して喋っただけなのだから。
先生がルドルフに言った言葉は全て、彼女自身に当てはまることだったのだ。解説の仕方も母親から教えてもらった。
力量の差。
それを感じながらも、今の今まで、そんな独創的なことはできないまま大人になってしまった。
子どもの頃のルドルフは不憫だったが、結局、後に彼はクローディアより遥かに評価され、フォースインゴットで高い学位を獲得している。
研究者として、ブラックポンドへも論文を提供しているはずだ。
そんな昔のことを思い出す。こんなことを思い出したのはいつぶりだろう。
クローディアは自分でも意外だった。
そうだ、どうせなら書いておこう。
この日記に、自分の劣等感や、感情を書いてしまえばいいのだ。
ただ目的なく過ごすのは、それはそれで苦しいものだ。
今までの記憶や日常を書き記し、自分の生きた証しとしてここへ残そう。
そう思いながら筆を走らせていると、後ろの木のドアがキィーっと開いた。
「お? さっそく書いているのかい?」
ケットシーだった。
「あ、ケットシーさん。自分の過去を書いておこうと思いまして、日記とは少し違いますが、いいでしょうか」
「もちろん。しばらくここに居てもらうが、どう過ごすかは君の自由だ。魔術の訓練をしても良いし、日記を書いても良い。過去の自分を振り返ることも、君にとって必要なことであればするべきだろう」
ケットシーはコップと、小さいキューブ状の茶色いクッキーが山盛りになっている皿を机に置いた。
「……あの、ケットシーさん、コレは、なんでしょうか?」
「これは『キャットフード』だ。肉と魚と卵が練り込まれている。栄養満点だ。ホットミルクも置いておこう」
「私、猫じゃないんですけど……」
「あぁ、そんなことは百も承知だ。これは人間が猫用に作り、人間も試食して味は保証済みだ。二ホンという国から取り寄せている。非常に美味だ。食べ給え」
「二ホン? というのは?」
「猫という存在に対して、最も高貴な扱いをしている人類が住む都だ」
「そこは、ここから遠いところにあるのでしょうか?」
「そうだな。君がたどり着くためには生身の身体を捨てる必要があるだろう。だが、不可能ではない場所だ」
「そんなに途方もないくらい遠いところなのですか? 海の底とか、空の上とか?」
「あぁ、途方もないだろう。だが、君の魂が望めば、いずれたどり着くこともできるかもしれない」
「そうですか、いつか、行ってみたいものです」
「ふむ、実に素晴らしいフロンティア精神だ。もし君が死後も高貴な存在のままであったなら、その時はまた手を貸そう」
クローディアは笑う。
「せめて生きている時にしてくださいよ」
「ふむ、君なら生きているうちにイデアの世界へたどり着くことも可能かもしれない。姿が変わっても、今持っている精神を失うことのないようにし給え」
「何を言ってるのですか?」
「話しても分からないだろう。私は失礼するよ」
「できれば話して欲しいのですが」
「自分で気づき給え。君の世界にもそのヒントが転がっている。大丈夫だ。今日は無理をせずに早く寝ると良い」
ケットシーは部屋の外へ出るとドアを閉めてしまった。
クローディアはキャットフードを食べてみる。
クッキーのようにカリっとしていて、甘辛いような味がした。
ホットミルクを飲んでみる。
「……おいしい」
猫の食べ物のはずなのに、どうしてこんなに美味しいのだろうと思ったが、ケットシーの謎は解けそうにないので、このキャットフードについても謎が解けることはないだろう。
クローディアは思った。
ありえないことが立て続けに起きて、理解が追い付かない。
ただ、ケットシーと会ったことによって、少しだけ希望が見えたような気はした。
自分一人だけでどうにかできる気がしない。
現状では、しばらくはあの猫に従っておく他はないだろう。
それにしてもこのキャットフードは美味しいな……。
クローディアは、再びそのキューブ状の茶色いクッキーに手を伸ばした。
応援ありがとうございます!
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