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ちくわ8
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空腹に、眩暈がした。おかしい。食べても食べても、腹が空く。なのに、体重は増えるどころか減っていく一方だ。
病院を退院し、一人暮らしをしているマンションに戻っていたオレは、体の異変に、恐怖していた。漁師として、異性を虜にしてきたオレの整った容姿も、今は見る影もなくなっている。もともと顔に肉はつかないタイプだったが、頬が極限までこけ、目は落ち窪み、まるで老人のようだ。
体も脂肪がなくなり、骨と皮と、わずかな筋肉のみになり、まるで子供の頃に理科室で見た骨格標本のようになっている。
前までは、鏡は、いくら見ても飽きなかった。今は視界に入るのさえ煩わしい。鏡は処分するか、新聞紙や布で覆って、自分の姿を見ないようにしている。
こんな姿では漁師どころか、仕事もまともにできない。なにしろ、腹が減って仕方がない。今じゃ常に口に何か入れていないと、空腹で気が狂いそうだった。頭がおかしくなりつつあるのか、時折、耳の奥でカサカサと音が鳴り、耳から離れない時がある。
仕事は事故の影響で休職扱いになっている。オレは漁師の役割を休む許可と、療養のために、一旦、村に戻ることにした。
前から、漁師の役割をやめたいと思っていた。
付き合う目的もなく、ただ、ちくわになるだけの相手とやりとりをするのは、ひどく虚しい。そんなことを5年も続けてきた。
出来るだけ、体の線が出ないように、ブカブカの服を選んで着る。それも季節に合わない、長袖長ズボン。人々の目にオレは、奇異にうつるだろう。それでも、細くなった腕や足を見られるよりかはマシだ。
脂肪が無いからか、長袖を着ていても暑さは感じなかった。むしろ寒気を感じる。コンビニで、おにぎりやサンドイッチ、菓子を買い込み、事故でダメになった黒い軽自動車の代わりに買った、中古の青い軽自動車で村に向かう。
前回の車にも、今回の車にも、ナビは付いていない。魚を車に乗せた時に村の詳しい位置を知られないためだ。
通い慣れた道を車で走る。運転しているだけだと言うのに、腹が減って仕方がない。信号で止まったタイミングでおにぎりの包装を素早く剥いて齧りつく。
おにぎりを食べ終え、サンドイッチに手を伸ばす。まだ村への道は半分も進んでいない。
シンプルなたまごのサンドイッチ。オレはマミちゃんのことを思い出す。彼女も大飯ぐらいだった。サンドイッチにオムライスにオレンジジュース。それだけ食べても、まだ物欲しそうな顔をしていた。彼女の空腹に刺激され、オレも腹が減ったのだ。そして、オレは彼女を村へ……
今更、後悔しても仕方がないこと思い出し、頭を振った。
曲がりくねった山道を進み、ガードレールが破れたあとを横目に通り過ぎた。
明るいうちに村に着いたが、畑に出て作業をしている人はいなかった。いつもなら、暑い盛りでも麦わら帽子をかぶって作業をしている人がいるのに。
実家の前に車を停め、家の中に入る。外観は古臭いが、中はリフォームしていて、近代的だ。漁の時は家をあけている親父も、今日はいるはずだ。
痩せ細り、空腹の体を引きずって、廊下を進む。リビングに親父の姿はなかった。家の中を親父を探して歩く。と言っても、平屋の家だ。探す場所はそんなに多くない。風呂、トイレにはいなかった。親父の部屋のドアをノックする。返事はない。
また耳の奥でカサカサと音が鳴る。もういい加減、この音にも慣れた。
ドアを開けると、カーテンを閉め切った部屋で、親父がベッドに横になっていた。顔は見えないが、布団に包まり、もぞもぞと動いている。
カサカサカサ……
「親父、どうしたんだ?」
普段は職人気質で、ダラダラと寝ることをしない親父に不安が募る。不調なのは、オレだけじゃないのだろうか。
カサカサカサカサ……耳から音が消えない。
「親父?」
細くなった腕で布団をめくる。そこにいたのは親父の姿を模った黒い塊だった。理解ができず、息を呑むと、黒い塊が波打った。それが虫の羽ばたきだと気づいたのは、親父の体から虫の群れが飛び立ってからだった。
虫の群れが天井付近まで飛び上がり、黒いモヤのようにたなびく。オレは鳥肌が立つのを感じながら、左手にある窓辺に走り、カーテンと窓を開けた。出口を見つけた虫たちは次々に窓の外に飛び出していく。
カサカサカサカサ……
ベッドを振り返ると、そこに親父の姿はなかった。群れに置いてきぼりにされたのか、一匹の黒い羽虫が、親父が寝ていた場所を歩いている。
オレはそれを、素手で叩き潰した。潰れた虫が手のひらに張り付いた。親指の先ほどの大きさの黒い虫は、黄色い体液を滲ませて平べったくなっている。
カサカサカサカサ……カサカサカサカサ……カサカサカサカサ……
オレの耳から、不快な音が消えてくれない。
ブツッ
何かが鼓膜を破ったような音がした。
病院を退院し、一人暮らしをしているマンションに戻っていたオレは、体の異変に、恐怖していた。漁師として、異性を虜にしてきたオレの整った容姿も、今は見る影もなくなっている。もともと顔に肉はつかないタイプだったが、頬が極限までこけ、目は落ち窪み、まるで老人のようだ。
体も脂肪がなくなり、骨と皮と、わずかな筋肉のみになり、まるで子供の頃に理科室で見た骨格標本のようになっている。
前までは、鏡は、いくら見ても飽きなかった。今は視界に入るのさえ煩わしい。鏡は処分するか、新聞紙や布で覆って、自分の姿を見ないようにしている。
こんな姿では漁師どころか、仕事もまともにできない。なにしろ、腹が減って仕方がない。今じゃ常に口に何か入れていないと、空腹で気が狂いそうだった。頭がおかしくなりつつあるのか、時折、耳の奥でカサカサと音が鳴り、耳から離れない時がある。
仕事は事故の影響で休職扱いになっている。オレは漁師の役割を休む許可と、療養のために、一旦、村に戻ることにした。
前から、漁師の役割をやめたいと思っていた。
付き合う目的もなく、ただ、ちくわになるだけの相手とやりとりをするのは、ひどく虚しい。そんなことを5年も続けてきた。
出来るだけ、体の線が出ないように、ブカブカの服を選んで着る。それも季節に合わない、長袖長ズボン。人々の目にオレは、奇異にうつるだろう。それでも、細くなった腕や足を見られるよりかはマシだ。
脂肪が無いからか、長袖を着ていても暑さは感じなかった。むしろ寒気を感じる。コンビニで、おにぎりやサンドイッチ、菓子を買い込み、事故でダメになった黒い軽自動車の代わりに買った、中古の青い軽自動車で村に向かう。
前回の車にも、今回の車にも、ナビは付いていない。魚を車に乗せた時に村の詳しい位置を知られないためだ。
通い慣れた道を車で走る。運転しているだけだと言うのに、腹が減って仕方がない。信号で止まったタイミングでおにぎりの包装を素早く剥いて齧りつく。
おにぎりを食べ終え、サンドイッチに手を伸ばす。まだ村への道は半分も進んでいない。
シンプルなたまごのサンドイッチ。オレはマミちゃんのことを思い出す。彼女も大飯ぐらいだった。サンドイッチにオムライスにオレンジジュース。それだけ食べても、まだ物欲しそうな顔をしていた。彼女の空腹に刺激され、オレも腹が減ったのだ。そして、オレは彼女を村へ……
今更、後悔しても仕方がないこと思い出し、頭を振った。
曲がりくねった山道を進み、ガードレールが破れたあとを横目に通り過ぎた。
明るいうちに村に着いたが、畑に出て作業をしている人はいなかった。いつもなら、暑い盛りでも麦わら帽子をかぶって作業をしている人がいるのに。
実家の前に車を停め、家の中に入る。外観は古臭いが、中はリフォームしていて、近代的だ。漁の時は家をあけている親父も、今日はいるはずだ。
痩せ細り、空腹の体を引きずって、廊下を進む。リビングに親父の姿はなかった。家の中を親父を探して歩く。と言っても、平屋の家だ。探す場所はそんなに多くない。風呂、トイレにはいなかった。親父の部屋のドアをノックする。返事はない。
また耳の奥でカサカサと音が鳴る。もういい加減、この音にも慣れた。
ドアを開けると、カーテンを閉め切った部屋で、親父がベッドに横になっていた。顔は見えないが、布団に包まり、もぞもぞと動いている。
カサカサカサ……
「親父、どうしたんだ?」
普段は職人気質で、ダラダラと寝ることをしない親父に不安が募る。不調なのは、オレだけじゃないのだろうか。
カサカサカサカサ……耳から音が消えない。
「親父?」
細くなった腕で布団をめくる。そこにいたのは親父の姿を模った黒い塊だった。理解ができず、息を呑むと、黒い塊が波打った。それが虫の羽ばたきだと気づいたのは、親父の体から虫の群れが飛び立ってからだった。
虫の群れが天井付近まで飛び上がり、黒いモヤのようにたなびく。オレは鳥肌が立つのを感じながら、左手にある窓辺に走り、カーテンと窓を開けた。出口を見つけた虫たちは次々に窓の外に飛び出していく。
カサカサカサカサ……
ベッドを振り返ると、そこに親父の姿はなかった。群れに置いてきぼりにされたのか、一匹の黒い羽虫が、親父が寝ていた場所を歩いている。
オレはそれを、素手で叩き潰した。潰れた虫が手のひらに張り付いた。親指の先ほどの大きさの黒い虫は、黄色い体液を滲ませて平べったくなっている。
カサカサカサカサ……カサカサカサカサ……カサカサカサカサ……
オレの耳から、不快な音が消えてくれない。
ブツッ
何かが鼓膜を破ったような音がした。
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