ちくわ

とらとら

文字の大きさ
上 下
15 / 17

ちくわ8

しおりを挟む
 空腹くうふくに、眩暈めまいがした。おかしい。食べても食べても、腹がく。なのに、体重は増えるどころか減っていく一方いっぽうだ。

 病院を退院し、一人暮らしをしているマンションに戻っていたオレは、体の異変いへんに、恐怖きょうふしていた。漁師として、異性いせいとりこにしてきたオレのととった容姿ようしも、今は見る影もなくなっている。もともと顔に肉はつかないタイプだったが、ほほ極限きょくげんまでこけ、目は落ちくぼみ、まるで老人のようだ。
 体も脂肪しぼうがなくなり、骨と皮と、わずかな筋肉のみになり、まるで子供の頃に理科室で見た骨格標本こっかくひょうほんのようになっている。

 前までは、鏡は、いくら見てもきなかった。今は視界に入るのさえわずらわしい。鏡は処分しょぶんするか、新聞紙や布でおおって、自分の姿を見ないようにしている。
 こんな姿では漁師どころか、仕事もまともにできない。なにしろ、腹が減って仕方がない。今じゃ常に口に何か入れていないと、空腹で気がくるいそうだった。頭がおかしくなりつつあるのか、時折ときおり、耳の奥でカサカサと音が鳴り、耳から離れない時がある。

 仕事は事故の影響で休職扱きゅうしょくあつかいになっている。オレは漁師の役割を休む許可と、療養りょうようのために、一旦いったん、村に戻ることにした。

 前から、漁師の役割をやめたいと思っていた。
 付き合う目的もなく、ただ、になるだけの相手とやりとりをするのは、ひどく虚しい。そんなことを5年も続けてきた。

 出来るだけ、体の線が出ないように、ブカブカの服をえらんで着る。それも季節に合わない、長袖ながそで長ズボン。人々の目にオレは、奇異きいにうつるだろう。それでも、細くなった腕や足を見られるよりかはマシだ。

 脂肪が無いからか、長袖を着ていても暑さは感じなかった。むしろ寒気を感じる。コンビニで、おにぎりやサンドイッチ、菓子を買い込み、事故でダメになった黒い軽自動車の代わりに買った、中古の青い軽自動車で村に向かう。
 前回の車にも、今回の車にも、ナビは付いていない。車に乗せた時に村のくわしい位置を知られないためだ。

 通い慣れた道を車で走る。運転しているだけだと言うのに、腹が減って仕方がない。信号で止まったタイミングでおにぎりの包装ほうそうを素早くいてかじりつく。
 おにぎりを食べ終え、サンドイッチに手を伸ばす。まだ村への道は半分も進んでいない。

 シンプルなたまごのサンドイッチ。オレはマミちゃんのことを思い出す。彼女も大飯おおめしぐらいだった。サンドイッチにオムライスにオレンジジュース。それだけ食べても、まだ物欲ものほしそうな顔をしていた。彼女の空腹に刺激しげきされ、オレも腹が減ったのだ。そして、オレは彼女を村へ……
 今更いまさら、後悔しても仕方がないこと思い出し、頭を振った。

 曲がりくねった山道を進み、ガードレールがやぶれたあとを横目に通り過ぎた。
 明るいうちに村に着いたが、畑に出て作業をしている人はいなかった。いつもなら、暑いさかりでもむぎわら帽子ぼうしをかぶって作業をしている人がいるのに。

 実家の前に車を停め、家の中に入る。外観は古臭いが、中はリフォームしていて、近代的だ。漁の時は家をあけている親父も、今日はいるはずだ。

 痩せ細り、空腹の体を引きずって、廊下を進む。リビングに親父の姿はなかった。家の中を親父を探して歩く。と言っても、平屋ひらやの家だ。探す場所はそんなに多くない。風呂、トイレにはいなかった。親父の部屋のドアをノックする。返事はない。
 また耳の奥でカサカサと音が鳴る。もういい加減、この音にも慣れた。

 ドアを開けると、カーテンを閉め切った部屋で、親父がベッドに横になっていた。顔は見えないが、布団ふとんくるまり、もぞもぞと動いている。
 カサカサカサ……

「親父、どうしたんだ?」

 普段は職人気質で、ダラダラと寝ることをしない親父に不安がつのる。不調なのは、オレだけじゃないのだろうか。
 カサカサカサカサ……耳から音が消えない。

「親父?」

 細くなった腕で布団をめくる。そこにいたのは親父の姿をかたどった黒いかたまりだった。理解ができず、息をむと、黒い塊が波打なみうった。それが虫の羽ばたきだと気づいたのは、親父の体から虫のれが飛び立ってからだった。

 虫の群れが天井付近まで飛び上がり、黒いモヤのようにたなびく。オレは鳥肌が立つのを感じながら、左手にある窓辺に走り、カーテンと窓を開けた。出口を見つけた虫たちは次々に窓の外に飛び出していく。
 カサカサカサカサ……

 ベッドを振り返ると、そこに親父の姿はなかった。群れに置いてきぼりにされたのか、一匹の黒い羽虫が、親父が寝ていた場所を歩いている。
 オレはそれを、素手すでで叩きつぶした。潰れた虫が手のひらに張り付いた。親指の先ほどの大きさの黒い虫は、黄色い体液をにじませてひらべったくなっている。

 カサカサカサカサ……カサカサカサカサ……カサカサカサカサ……

 オレの耳から、不快な音が消えてくれない。

 ブツッ

 何かが鼓膜こまくやぶったような音がした。
しおりを挟む

処理中です...