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本編 〝弘〟視点
09/21 いつでも、そう思っている
しおりを挟む高校生の頃にしていた能力訓練の中に、犯罪の証拠品(という設定の物品)から残臭を嗅ぎ取って、犯人の思考や事件の背景を組み立てる、というものがあって、わたしはこれがとても苦痛だった。
複数の偽物の中に本物を混ぜ込み、人間の悪意を検知する訓練で、能力を扱えていれば負担は少ない。
けれどわたしは悪意を嗅ぎ取ってしまうと、それが自分に向けられているように感じてしまい、気分が悪くなってしまう。
特に認知能力に特化しているわたしは、訓練だと理解しているのに、いつも訓練後に嘔吐していた。
正式に許可が出ていて(この訓練だけは直近の警察署内で行われていた)、素手で触れてはいけなくても、訓練に使わせてもらえる証拠品。
訓練に使える物品は、解決済みの軽犯罪の証拠品が主で、殺人に関係するようなものなどは含まれていなかった。
この程度でダメージを受けていたら、殺人事件の証拠品の検分には参加できない。
専門職を、資格取得を諦める一端になった。
本物の悪意や憎悪が残っている証拠品からは、生き物の肉が液状になるまで腐った上で、さらに焦げるまで煮詰めたような、吐き気と嫌悪しか感じない臭いがした。
全身に染み付いて取れなくなるのではないか、と怯えてしまうほどの悪臭。
どれだけ経験しても、最後まで慣れなかった。
訓練の最終日も吐き気を我慢できなかった。
能力抑制措置を受けている今のわたしが、匂いを感じ取れるのは接触するくらい近づいた時くらいで、しかもその匂いが何を表しているのか、よく分からない。
好きか、嫌いか。
それくらいしか判断ができない。
能力を封じられた当初は、文字どおり手足をもがれたような気がして、日々を地獄のように感じていたけれど、十五年も経てば慣れてしまうものだ。
今では逆に、能力撹乱端末を外した時の方が、あまりにも周りのことが分かりすぎて、情報量の多さに目が回ってしまう。
それと同時に、かつてのわたしは常に降り注ぐ雨のような、多くの匂いに囲まれていたのだな、と少しだけ寂しくなる。
安定させられない強い力なんて、何の役にも立たない。
初めから能力などなければ、こんなに苦しむこともなかったのか。
落ちこぼれて、虚しく生きていくこともなかったのか。
「弘さん」
温かい大きな手がわたしの両頬に触れて、アザになっている左頬が痛んだ。
「は、はい」
「俺の告白、覚えてくれてますか?」
「こくはく?」
「ええ、俺はあなたが好きです、恋愛対象として好きだから触れたいし、キスをしたいです、弘さんの力になりたいです」
「……」
おかしいな。
嗅覚が鋭すぎるせいで、視覚に認識異常が出ているのは自覚していたけれど、ついに聴覚まで狂ったらしい。
幻聴にしてもひどい。
これまでに幻臭で悩まされたことはあっても、幻聴や幻覚はなかったのに、と落ち込んでいるわたしの頬に触れている手が、指が優しく頬の上を滑っていく。
空手を嗜んでいるからなのか、体が大きいからなのか、硬くなった指先も手のひらも男らしい。
無精髭の生えた男の頬を撫でて、何が楽しいのか。
たるんできた顎なんて、触れても楽しくないだろうに。
「弘さん?」
「……」
わたしの頭がおかしくなったのか、元からおかしかった、のどちらだろう。
二択の中で悩んでいると、顎にかけられた指で、く、と顔を上に向けられる。
そっと降りてきた唇から与えられた、乾いていて柔らかくて温かい熱は、匂いに溺れている間に何度もわたしをあやすように、可愛がるように与えられたものだ。
先ほどまでの痴態を思い出して、情けなさと恥ずかしさに息が詰まった。
「っし、晋矢さん!?」
両手で分厚い胸を押し、必死で首を背けようとしているけれど、本心では頬を包む優しい手を払いのけたくない。
「嫌なら、そう言ってください」
「ま、待って、わ、わたしはあの、こんなっ、おじさんです……あの、ええと、いやとかではなく」
待ってと言った途端に、至近距離にいる晋矢さんから、悲しい匂いを感じ取ってしまい、言い訳のように繋げた言葉はしりすぼみに途切れてしまった。
まるで雨の降り始めのような、埃っぽいような陰鬱に湿った臭いを嗅いで。
能力が制御されているはずなのに、どうして?と思った。
どうして、晋矢さんの感情が分かるのか?
……撹乱端末が壊れた?
それなら、もっと周囲の情報が雪崩れ込んでくるはずだ。
まるで晋矢さんの感情だけが、わたしが生きていくのに必要だと言うように、トロトロと心に注ぎ込まれていく。
甘い。
心地いい。
溺れてしまいそうだ。
迷い込んだ砂漠の中で、オアシスにたどり着いたように。
海で遭難した者が、船に出会ったように。
細かい傷だらけで歪になっていたわたしが、優しくゆっくりと研磨されていく。
そんな予感がして、恐怖と……喜びを覚えた。
この人が好きだ、と思った。
「嫌ですか?」
気恥ずかしいのは、わたしがおじさんだからなのか。
素直になれないのは年齢を重ねたからなのか、それともひねくれ者だから?
「……いやでは、ないです」
わたしは最低だ。
未来ある男子大学生に何を言っているのか。
呆れられて、見捨てられてもおかしくない姿ばかり見られているのに、それを晋矢さんが情けない、みっともないと言わないから。
一回り以上も若い晋矢さんに甘えるのか?
彼にまとわりついて狂わせてしまったように、晋矢さんの人生も駄目にするのか?
晋矢さんの将来を考えれば、拒絶するべきなのに。
未来のないおじさんと友人以上の関係になって、なんの得があるというのか。
破滅しか見えない関係なんて、もういらない。
これまでの人生で、わたしを助けてくれた人は多い。
今でも、助けて欲しいと頼める人はいる。
でもそれはあくまで仕事として力を貸してくれるのであって、わたし個人への好意からの行為ではない。
家族や友人には恵まれないけれど、優しい知人に囲まれている。
どうしてそれだけで満足できないのか。
わたしなんかを、横に置いてくれる人なんて、どこにもいないのに。
人を助けられないのに、助けて欲しいなんて、おこがましい。
一方的に助けて欲しいと頼み、満足に礼もできないのだから。
「キスして良いですか」
「……」
無言で下を向くことしかできなかった。
拒絶、したくなくて。
わたしのように先のないおじさんとの関係が、晋矢さんにもたらす利益など何もない。
理解しているのに、晋矢さんを拒絶したくない。
わたしは薄汚れているのだ。
心も体も。
出来損ないだ。
生まれた時から人に劣っている。
自分だけが楽をしようとすればしっぺ返しを食らうことになると、これまでの人生で何度も思い知らされてきたのに。
わたしは自分を甘やかしてしまう。
自分が嫌いだ。
立派な人になりたいのに、なれない。
音を立てずに触れた温もりが、そっと唇の上をすべっていく。
頬に、首筋に、耳たぶに、額に、愛おしいと告げるように触れて来る温もりが、胸の奥へと染み込んでいく。
勘違いしてしまいそうになる。
晋矢さんには、わたしに接近する利点なんてないはずなのに。
どうして?
一度冷静になったはずの頭はすぐにぼんやりと霞んで、なにも考えられなくなっていく。
言葉にできない幸福感だけが、わたしを満たしてくれた。
夢を見た。
すぐに夢だと気がついた。
『弘は頑張ってるんだよ、訓練くらいやらせてあげれば良いじゃないか』
何年も前に亡くなった祖母だけが、家族の中で唯一、わたし……おれを守ってくれていた。
『かあさん、ふざけたことを言わないで、誰が訓練費用を出すと思ってるのよ!』
『く、訓練費用はかからないって言われた!』
『金がかからなくても送迎しないといけないんでしょうが!
いつもの気まぐれで、すぐにやめるって分かってんのに、面倒かけるんじゃないよ!』
『や、やめない、しか、資格が取得できる十八歳まで訓練カリキュラムがあるんだ、やめないよっ』
おれが何をしても気に入らないと激昂する母親に、どれだけ頼み込んでも。
いつも兄弟や姉妹を優先する母親は、おれを見てくれなかった。
家族の中に、突然変異で現れた異物。
能力非所持者の中に、たった一人、紛れ込んだおかしなものがおれだった。
おれはただ、自分に能力があるって分かって、人並み以下だった自分にも、人よりも優れているところがあるんだと知って、嬉しかっただけなのに。
おれを認めて欲しかった。
こんなおれにも取り柄があるんだと知って、本気で頑張ろうって生まれて初めて思えて、必死で足掻いてるだけなのに。
『ばあちゃん良いよ、おれ、自転車で通うから』
『ふん、三日と続くもんかい』
『季世恵!
あんたはどうして弘の頑張りを、そうやって馬鹿にするんだい』
『弘が気分屋で落ちこぼれなのは、かあさんだって知ってるでしょう!
文字も満足に読めないのに、何をどう訓練するってんのよ!』
『この子は落ちこぼれじゃない、自分でやるって決めたことはやりきる子だよ』
祖母の言葉に、涙がこぼれそうになる。
中学時の担任教諭に「お前は、自分が興味のないことは、なにもしないんだな」と言われたことがある。
違う、興味がないんじゃなくて、興味を持てない、覚えられないしうまく理解できないんだ!と説明しても分かってもらえなくて、気がつけば自分を愛することなんてできなくなっていた。
おれなんか。
おれなんて。
おれごときが。
何かやるごとに、何かあるごとに、自分が人よりも劣っているのだと知らされるのが辛くて、何もしたくなくなっていく。
今では、気分屋と言われる自分の行動パターンが、障害の影響だと知っている。
やらないのではなく、できないのだと。
診断をしてくれた医師に、やる気の問題ではないと慰められても、悔しさも情けなさも苦しみも減らなかった。
努力しているつもりなのに、いつまでたっても変わらない、変われない自分が許せなかった。
祖母以外の誰にも認めてもらえなくて、自分の存在意義が分からなくなっていた。
『あたしはこの子が、孫の中で一番優しくて利口だって知ってるんだよ』
『優しくて利口な子が親に楯突くわけがないでしょうが!』
絶叫にも似た怒鳴り声が、心の奥に突き刺さり、いつものことなのにおれは死にたくなった。
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