【R18】劣等感×無秩序×無関心

Cleyera

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本編 〝弘〟視点

09/21 いつでも、そう思っている

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 高校生の頃にしていた能力訓練の中に、犯罪の証拠品(という設定の物品)から残臭を嗅ぎ取って、犯人の思考や事件の背景を組み立てる、というものがあって、わたしはこれがとても苦痛だった。

 複数の偽物の中に本物を混ぜ込み、人間の悪意を検知する訓練で、能力を扱えていれば負担は少ない。
 けれどわたしは悪意を嗅ぎ取ってしまうと、それが自分に向けられているように感じてしまい、気分が悪くなってしまう。

 特に認知能力に特化しているわたしは、訓練だと理解しているのに、いつも訓練後に嘔吐していた。
 正式に許可が出ていて(この訓練だけは直近の警察署内で行われていた)、素手で触れてはいけなくても、訓練に使わせてもらえる証拠品。

 訓練に使える物品は、解決済みの軽犯罪の証拠品が主で、殺人に関係するようなものなどは含まれていなかった。

 この程度でダメージを受けていたら、殺人事件の証拠品の検分には参加できない。
 専門職を、資格取得を諦める一端になった。

 本物の悪意や憎悪が残っている証拠品からは、生き物の肉が液状になるまで腐った上で、さらに焦げるまで煮詰めたような、吐き気と嫌悪しか感じない臭いがした。
 全身に染み付いて取れなくなるのではないか、と怯えてしまうほどの悪臭。

 どれだけ経験しても、最後まで慣れなかった。
 訓練の最終日も吐き気を我慢できなかった。

 能力抑制措置を受けている今のわたしが、匂いを感じ取れるのは接触するくらい近づいた時くらいで、しかもその匂いが何を表しているのか、よく分からない。
 好きか、嫌いか。
 それくらいしか判断ができない。

 能力を封じられた当初は、文字どおり手足をもがれたような気がして、日々を地獄のように感じていたけれど、十五年も経てば慣れてしまうものだ。
 今では逆に、能力撹乱端末を外した時の方が、あまりにも周りのことが分かりすぎて、情報量の多さに目が回ってしまう。
 それと同時に、かつてのわたしは常に降り注ぐ雨のような、多くの匂いに囲まれていたのだな、と少しだけ寂しくなる。

 安定させられない強い力なんて、何の役にも立たない。
 初めから能力などなければ、こんなに苦しむこともなかったのか。
 落ちこぼれて、虚しく生きていくこともなかったのか。

ヒロシさん」

 温かい大きな手がわたしの両頬に触れて、アザになっている左頬が痛んだ。

「は、はい」
「俺の告白、覚えてくれてますか?」
「こくはく?」
「ええ、俺はあなたが好きです、恋愛対象として好きだから触れたいし、キスをしたいです、弘さんの力になりたいです」
「……」

 おかしいな。
 嗅覚が鋭すぎるせいで、視覚に認識異常が出ているのは自覚していたけれど、ついに聴覚まで狂ったらしい。
 幻聴にしてもひどい。

 これまでに幻臭で悩まされたことはあっても、幻聴や幻覚はなかったのに、と落ち込んでいるわたしの頬に触れている手が、指が優しく頬の上を滑っていく。
 空手を嗜んでいるからなのか、体が大きいからなのか、硬くなった指先も手のひらも男らしい。

 無精髭の生えた男の頬を撫でて、何が楽しいのか。
 たるんできた顎なんて、触れても楽しくないだろうに。

「弘さん?」
「……」

 わたしの頭がおかしくなったのか、元からおかしかった、のどちらだろう。
 二択の中で悩んでいると、顎にかけられた指で、く、と顔を上に向けられる。

 そっと降りてきた唇から与えられた、乾いていて柔らかくて温かい熱は、匂いに溺れている間に何度もわたしをあやすように、可愛がるように与えられたものだ。
 先ほどまでの痴態を思い出して、情けなさと恥ずかしさに息が詰まった。

「っし、晋矢シンヤさん!?」

 両手で分厚い胸を押し、必死で首を背けようとしているけれど、本心では頬を包む優しい手を払いのけたくない。

「嫌なら、そう言ってください」
「ま、待って、わ、わたしはあの、こんなっ、おじさんです……あの、ええと、いやとかではなく」

 待ってと言った途端に、至近距離にいる晋矢さんから、悲しい匂いを感じ取ってしまい、言い訳のように繋げた言葉はしりすぼみに途切れてしまった。

 まるで雨の降り始めのような、埃っぽいような陰鬱に湿った臭いを嗅いで。
 能力が制御されているはずなのに、どうして?と思った。

 どうして、晋矢さんの感情が分かるのか?
 ……撹乱端末が壊れた?
 それなら、もっと周囲の情報が雪崩れ込んでくるはずだ。
 まるで晋矢さんの感情だけが、わたしが生きていくのに必要だと言うように、トロトロと心に注ぎ込まれていく。

 甘い。
 心地いい。
 溺れてしまいそうだ。

 迷い込んだ砂漠の中で、オアシスにたどり着いたように。
 海で遭難した者が、船に出会ったように。

 細かい傷だらけで歪になっていたわたしが、優しくゆっくりと研磨されていく。
 そんな予感がして、恐怖と……喜びを覚えた。

 この人が好きだ、と思った。

「嫌ですか?」

 気恥ずかしいのは、わたしがおじさんだからなのか。
 素直になれないのは年齢を重ねたからなのか、それともひねくれ者だから?

「……いやでは、ないです」

 わたしは最低だ。
 未来ある男子大学生に何を言っているのか。
 呆れられて、見捨てられてもおかしくない姿ばかり見られているのに、それを晋矢さんが情けない、みっともないと言わないから。

 一回り以上も若い晋矢さんに甘えるのか?
 にまとわりついて狂わせてしまったように、晋矢さんの人生も駄目にするのか?

 晋矢さんの将来を考えれば、拒絶するべきなのに。
 未来のないおじさんと友人以上の関係になって、なんの得があるというのか。
 破滅しか見えない関係なんて、もういらない。

 これまでの人生で、わたしを助けてくれた人は多い。
 今でも、助けて欲しいと頼める人はいる。
 でもそれはあくまで仕事として力を貸してくれるのであって、わたし個人への好意からの行為ではない。

 家族や友人には恵まれないけれど、優しい知人に囲まれている。
 どうしてそれだけで満足できないのか。
 わたしなんかを、横に置いてくれる人なんて、どこにもいないのに。

 人を助けられないのに、助けて欲しいなんて、おこがましい。
 一方的に助けて欲しいと頼み、満足に礼もできないのだから。

「キスして良いですか」
「……」

 無言で下を向くことしかできなかった。
 拒絶、したくなくて。

 わたしのように先のないおじさんとの関係が、晋矢さんにもたらす利益など何もない。
 理解しているのに、晋矢さんを拒絶したくない。

 わたしは薄汚れているのだ。
 心も体も。
 出来損ないだ。
 生まれた時から人に劣っている。

 自分だけが楽をしようとすればしっぺ返しを食らうことになると、これまでの人生で何度も思い知らされてきたのに。
 わたしは自分を甘やかしてしまう。
 自分が嫌いだ。
 立派な人になりたいのに、なれない。

 音を立てずに触れた温もりが、そっと唇の上をすべっていく。
 頬に、首筋に、耳たぶに、額に、愛おしいと告げるように触れて来る温もりが、胸の奥へと染み込んでいく。

 勘違いしてしまいそうになる。
 晋矢さんには、わたしに接近する利点なんてないはずなのに。
 どうして?

 一度冷静になったはずの頭はすぐにぼんやりと霞んで、なにも考えられなくなっていく。
 言葉にできない幸福感だけが、わたしを満たしてくれた。



 

 夢を見た。
 すぐに夢だと気がついた。

『弘は頑張ってるんだよ、訓練くらいやらせてあげれば良いじゃないか』

 何年も前に亡くなった祖母だけが、家族の中で唯一、わたし……おれを守ってくれていた。

『かあさん、ふざけたことを言わないで、誰が訓練費用を出すと思ってるのよ!』
『く、訓練費用はかからないって言われた!』
『金がかからなくても送迎しないといけないんでしょうが!
 いつもの気まぐれで、すぐにやめるって分かってんのに、面倒かけるんじゃないよ!』
『や、やめない、しか、資格が取得できる十八歳まで訓練カリキュラムがあるんだ、やめないよっ』

 おれが何をしても気に入らないと激昂する母親に、どれだけ頼み込んでも。
 いつも兄弟や姉妹を優先する母親は、おれを見てくれなかった。

 家族の中に、突然変異で現れた異物。
 能力非所持者の中に、たった一人、紛れ込んだおかしなものがおれだった。

 おれはただ、自分に能力があるって分かって、人並み以下だった自分にも、人よりも優れているところがあるんだと知って、嬉しかっただけなのに。
 おれを認めて欲しかった。
 こんなおれにも取り柄があるんだと知って、本気で頑張ろうって生まれて初めて思えて、必死で足掻いてるだけなのに。

『ばあちゃん良いよ、おれ、自転車で通うから』
『ふん、三日と続くもんかい』
季世恵キヨエ
 あんたはどうして弘の頑張りを、そうやって馬鹿にするんだい』
『弘が気分屋で落ちこぼれなのは、かあさんだって知ってるでしょう!
 文字も満足に読めないのに、何をどう訓練するってんのよ!』
『この子は落ちこぼれじゃない、自分でやるって決めたことはやりきる子だよ』

 祖母の言葉に、涙がこぼれそうになる。

 中学時の担任教諭に「お前は、自分が興味のないことは、なにもしないんだな」と言われたことがある。
 違う、興味がないんじゃなくて、興味を持てない、覚えられないしうまく理解できないんだ!と説明しても分かってもらえなくて、気がつけば自分を愛することなんてできなくなっていた。

 おれなんか。
 おれなんて。
 おれごときが。
 何かやるごとに、何かあるごとに、自分が人よりも劣っているのだと知らされるのが辛くて、何もしたくなくなっていく。

 今では、気分屋と言われる自分の行動パターンが、障害の影響だと知っている。
 やらないのではなく、できないのだと。
 診断をしてくれた医師に、やる気の問題ではないと慰められても、悔しさも情けなさも苦しみも減らなかった。
 努力しているつもりなのに、いつまでたっても変わらない、変われない自分が許せなかった。
 祖母以外の誰にも認めてもらえなくて、自分の存在意義が分からなくなっていた。

『あたしはこの子が、孫の中で一番優しくて利口だって知ってるんだよ』
『優しくて利口な子が親に楯突くわけがないでしょうが!』

 絶叫にも似た怒鳴り声が、心の奥に突き刺さり、いつものことなのにおれは死にたくなった。

 
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