【R18】劣等感×無秩序×無関心

Cleyera

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本編 〝弘〟視点

10/21 吐き出して、許して、受け入れる前に

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 わめき散らし、怒鳴り始めた母親の顔を見たくないので、祖母の手を引く。
 もうやめて欲しいと願って、母親が祖母を罵り始める前に。

 母親は自分の実母である祖母を相手にしても、絶対に自分の意見を曲げない。
 生みの母親を口汚くこき下ろすことをやめない。
 お前の育て方が悪かったんだ、と自分の悪い部分を祖母のせいにする。
 自分こそが正義だと信じているから。

 おれは、母親のようになりたくない。
 どうして大好きな人を口汚く罵らないといけないのか。
 どうして家族にそこまで悪意を向けられる?
 あゝ、いつだって、おれには逃げることしかできない。

『ごめん、ばあちゃん』
『良いんだよヒロシ、いつかあんたは一廉ヒトカドの人物になれるさ、あたしの目に狂いはないよ』
『うん、おれ、頑張るよ』

 家にいると、母親も兄弟姉妹もおれを無能で低脳だと言う。
 文字が読めないから。
 緊張すると、どもってしまうから。

 最高等級の能力の発現が判明した時だって、それが受信系ESPだと知るなり「なんの役にもたたない力なんて無駄じゃないか」と言われた。
 テレビドラマや映画で取り上げられるのは、華々しい発信系TK能力ばかりだから。

 おれが祖母をこの家から助け出してやらないと。
 そう思ってた。
 それなのに、能力が安定しなくて。
 高校を卒業してからは、未成年者向けの能力撹乱装置とは違うものが支給されて……ほとんど全ての能力を使えないように、使ってはいけないんだと……。

 ばあちゃん、ごめん。
 おれは、ばあちゃんを助けてあげられなかった。

「……っう…………うう……っく…………」
「泣かないで弘さん、これからは俺があなたの心を守るから」

 何もかもに耐えられなくなって、家を出て。
 自分だけが逃げ出した。
 何年も経つ内に、祖母としか連絡を取らなくなって。
 それすらも、母親が固定電話で長電話をするなと口を出し始めて、回数が減っていく。
 おれが金を払うから、携帯電話を持って欲しいと頼んだけれど、祖母は、使い方がわからんから、と困ったように笑うだけで。

 破綻した。

 家には家族がいたはずなのに、自室で冷たくなっている祖母が見つけられた時には、死後三日は経過していたと知った。
 勇気を振り絞って参加した葬儀会場で「形だけでも葬式しないと親戚がうるさい」とぼやく母の言葉を聞いて、逃げ出したことを後悔した。
 祖母がどれだけ嫌がっても、無理やり連れ出しておくべきだった、って。

「おれのせいで、ばあちゃんが……」
「大丈夫だよ、弘さんの気持ちは、きっと伝わってる」

 自分の生活だけで必死になってたおれが、全部悪いんだ。
 住み慣れた家を離れたくない、って言われた時に諦めなければよかった。
 自分だけが逃げ出して、いつか、なんて夢だけ見て、何もやらなかった。

『あたしは自分のことは自分でやるよ』

 そう言っていた祖母が、ストレスに弱いことを知っていたのに。
 いつも漢方系の胃腸薬を手放さないことを知っていたのに。
 母親の心無い言葉で、何度も傷ついていたことを知っていたのに。

「弘さん、あなたが好きです」
「……っうう……」
「今は聞こえてないだろうし、聞こえていても理解したくないだろうけれど、俺はあなたを助けたい。
 こんなやり方は卑怯だって分かってるけれど、俺に助けを求めて欲しい」

 ずっと封印してきたはずの罪悪感が、自分への嫌悪感が、胸の中を暴れまわる。
 おれは……わたしは、祖母を見捨てた。
 なんの役にも立たないのに、のうのうと生きてるべきじゃない。

「ねえ弘さん、あなたの苦痛をもっと教えて?
 苦しいことも悲しいことも全部、二人で一緒に整理したい」

 決壊したように、あふれ出した記憶に溺れた。

 文字が認識できずに、授業をまともに受けられなかった小学生の頃。
 周りに合わせることができずに、孤立していた中学生の頃。
 自分にも、役割があったのだと思い込みたかった高校生の頃。
 夢を諦めきれずに、ウジウジと悩んだ会社勤めの始め。
 ……希望を見出した、二十五歳。

 何もかも諦めてしまった。
 生きていることに理由が見出せない、今。

「……っく……っ……」

 幼い子供のようにしゃくりあげている内に、背中をゆっくりと撫でる手に気がついた。

「弘さん、大丈夫だよ」

 温かい手が背を撫でるたびに、少しずつ傷が消えていくような。
 そんな錯覚を覚える。
 傷だらけの玉が磨かれていくように感じるのは、何度目だろう。
 どうして、そんな風に感じるのだろう。

「大丈夫」

 本当に?
 信じられない。
 信じたくない。
 この世の何もかもが、信じるに値するものか、分からない。
 自分自身が、信じられないのだから。

「弘さん、俺は」

 聞きたくないと、心を閉じる。
 優しい声に騙されたくない。
 ずっとこのまま、のお兄さんでいて欲しい。
 もしも晋矢シンヤさんに嫌われたら、わたしは立ち直れない気がする。

 優しい匂いに甘やかされながら、必死で心に棘を保ち続ける。
 寄り添わないでくれ。
 優しくしないでほしい。
 わたしにはそんな価値はない。



  ◆



 温かくて目が覚めた。
 いつも感じている不安がなくて、やけにスッキリしているなと思いながら目を開けて、すぐ目の前に布の壁があることに気がつく。

「……?」

 体を動かそうとして、随分と窮屈な体勢で寝ていることを知った。
 横向きで寝ているのはいつも通りだとしても、わたしを包む温かいこれは一体……え?

「晋矢さん?」

 寝起きのかすれた声ではきちんと形にならなかったけれど、どうやらわたしは晋矢さんに抱きしめられているらしい。
 いいや、わたしが抱きついているのか。

 すう、すうと微かな寝息が聞こえる。
 ゆっくりと膨らみ元に戻る胸元の分厚さを、柔らかいのにしっかりとした質感を感じてしまうと、顔に熱が上ってくる。
 わたしは、何をしたのか。
 覚えていない。
 いつ寝たのだろう?

 おそらく晋矢さんが布団を敷いてくれたのだろう。
 体を動かさずに、視線だけで見える範囲に目覚まし時計がない。

 今は何時だろう?
 部屋の中は薄暗い。
 夜にしては明るいから、夕方?

 動いていいのか、動いてはいけないのか。
 すっぽりと抱き込まれて寝ていることに気がついてしまい、判断ができない。

 動いたら晋矢さんの安眠を邪魔してしまうのではないか、それともその逆なのか、わたしなんかを抱き込んでいて眠れるのだろうか。
 眠っているように見えるけれど、本当は起きているのでは。
 あゝあゝ、なんだろうこれは。
 何がどうなっているんだ。

 動けずに困っていたら、晋矢さんが低く呻いて少しだけ腕が緩んだ。
 起こしてしまわないようにとゆっくり抜け出して、急いで日時を確認する。

「……ええ?」

 現在時刻は日曜日の早朝五時。
 つまり、覚えている限りで土曜日の夕方頃から半日は眠っていたことになる。

 お客さんの晋矢さんを放り出して一人で眠りこけていたのかと思うと、血の気が引く。
 夕食はどうしたんだろう?

 食べていないなら、朝食を用意して

 冷蔵庫の中を覗いて、夕食で使おうと思っていた食材が残っていることを確認した。
 食べてない?
 普通はどうなんだろう。
 遊びに来た知人の家で、家主が寝こけてしまった時、普通は外に買いに行く?
 それとも食べにいく?
 家の鍵を開けっぱなしで?
 鍵を探して、家を戸締りしたり……するのか?
 多分、勝手に食材を使ったりはしないよな。
 とにかく、晋矢さんのために何か作らないと。

 米をといで、味噌汁を作ろうと鍋に水を入れて、豚肉を焼こうと取り出して、ふと気がついた。
 ……晋矢さんは朝ごはんはパン派?ごはん派?それとも食べない?

 ほとんど何も知らない相手と、二日も一緒に添い寝してしまったことに気がつき、足が震える。
 わたしは一体、何をしているんだろう。
 もう小学校に通う子供がいてもおかしくない年齢なのに、何をやってるんだ。
 落ち着け。
 そうだ、冷凍庫に食パンが入ってたはずだ。

 ご飯とパンが選べるようにフレンチトーストの準備をしておけば良い。
 白米がいいなら、フレンチトーストは後に回す。
 パンならご飯を後に。
 朝は食べないなら……晋矢さんの意見次第だけれど、冷蔵庫に入れておいて自分で食べれば良い。
 そうしよう。

 パニックになりながら食事の下準備をしてから、買っておかないといけないものをメモにまとめる。

 晋也さんは健啖家だと思うので、冷蔵庫の中にある常備菜と漬物くらいでは、夕食の食材には足りない。
 わたし一人ならご飯と味噌汁に漬物ですませるけれど、夜も一緒に食べるなら絶対に足りない。

 ご飯が炊ける前に晋矢さんが起きませんように。
 もしも「準備が遅い!」と怒鳴られたら、怖くて泣いてしまうかもしれない。

 ……待ってくれ。
 晋矢さんがわたしに怒鳴る?

 これがなら怒るだろう。
 でも晋矢さんが怒るだろうか?

 それまで混乱してパニックになっていた気持ちが、スッと落ち着いた。
 不思議なほどに穏やかな気持ちになる。
 気がつけば、わたしの周囲をこうばしい香りが包んでいる。
 どうしてなのか、とても落ち着く。

「んー、弘さん、おはようございます」
「おはようございます、晋矢さん」

 布団から上半身を起こした晋矢さんの、寝起きのかすれ声がとても穏やかで、直前まで感じていた恐怖を忘れてしまった。
 わたしはなんて酷いことを考えていたのだろう。
 晋矢さんが、つまらないことを人に当たり散らすはずがないのに。

 まだほとんど知らない人なのに、どうしてか、そう確信を持てた。

 
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