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安田瑠璃編

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授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、黒板の前の先生・安田瑠璃先生は区切るように小さく息を吐いた。

「じゃあ、今日はここまでにします。号令をお願いします」

日直の号令にあわせて頭を下げると、俺はそのまま教壇に向かう。
先生は俺に気付くと片付けの手を止めてこちらに向き直った。

「せんせい」
「関くん、どうしました?」

少しばかりリラックスしたように微笑む先生に、俺は言う。

「ちょっと話が」

すると先生は少し顔を青くした。

「まさか、今日の授業、わかりにくかったですか?」

そんな先生に俺は少しだけ慌てた。

「いやそういうんじゃなくて」

それから周りを見渡してから、少しだけ声のトーンを落として伝える。

「どっか、二人で話せませんか」

俺がそう言うと先生は表情を引き締め、俺に引きずられるように声を小さくした。

「……大事な話ですか?」

大事な話、か。
まあ大事な話だな。俺の今後の関わる。あることないこと言いふらされたら非常に困る。

「まあ、そうですね。教室では、ちょっと。どこかで二人っきりになれないですか」

そう思っての言葉だったが。

「…………」

先生はしばらくの間ぽかんとした顔で静止して、それから、

「へあ!?」

なんて、真っ赤な顔で間抜けな声を上げた。
そして慌てた様子で声を上げる。

「わわわわわかりました……!生徒指導室、借りておきますので、放課後、来てください!」

そこまで言いきると先生は俺の返事を待たずに「では!」と教室を駆け出て行った。

「……?」

俺はその背を見届けて、思わず首を傾げた。
まあいいか。話が出来るならなんでも。

・・・

先生の言葉通り、俺はホームルームが終わった後に少し待って、生徒指導室に向かった。
既に部屋に待機していた先生は俺の顔を見て、

「あ……」

と声を上げた。
俺が対面に座ると先生は少しばかりそわそわして、それから気を取り直すようにわざとらしくかわいらしい咳払いをした。

「こ、こほん。それで、話というのは?」

先生の言葉に俺は「ああ」と相槌を打って、それから少しだけ身を乗り出す。


「先生に言わなきゃいけないことが、言っておきたいことがあって」

先生は少しだけ身を反らせた。

「な、なんですか改まって」

それから何かに気付いたようにハッとして、

「……は!? いや、だ、ダメですよ関くん、私は先生、あなたは生徒なんです!せめて、卒業してから……!」

なんて真っ赤な顔で宣うのだった。
なんの話だ。
俺はひとつ息を吐いて、切り出す。

「昨日、浅海先輩が教室来たんすよぉ」

俺の言葉に先生は一瞬固まった。
それから肩の力を抜いて「ああ」と漏らす。

「浅海さん、ですか。いいですねえ。彼女もどこかみんなとは距離をとっているように感じますので、仲良くなるのは良いことです」

ニコニコのんきな先生にちょっとだけむっとした。

「先生さぁ、浅海先輩に余計なこと言ったでしょ」

俺がそう言うと先生は、

「余計なこと? ……あ」

少しだ考える仕草をすると、思い当たったようだった。
冷や汗でも流しそうな怯えた表情の先生に対し、俺は更に身を乗り出す。

「俺が、お願いしたら何でも言うこと聞いてくれる、とか?」
「ち、ち、ちが、違うんです」
「どんな面倒ごとでもお願いすれば言うこと聞いてくれるチョロい奴だとか?」
「そこまでは言ってないですぅ!」

ひいぃと声を漏らして顔を反らす先生は続ける。

「ただ、私は、浅海さんが困ってたから、よかれと思って」

そんな言い訳をする先生に俺は告げる。

「誤解を招くようなこと、吹聴しないでもらえます?」

先生は、

「う、あ、はい……」

俺と目が合うと、気まずそうに視線を下げてそう言った。

まあこの人の性格だ。悪意は全くないのだろう。
反省の色が見えたので、俺は一際大きく息を吐く。

「……それだけです。次適当なこと言いふらしたら許しませんからね」

それだけ言って席を立とうとする。
すると。

「う……」

先生から、声が漏れた。

「うぅ……」

その嗚咽は次第に大きくなり、

「ちょ!?」
「うぅううううううう……!!」

唇を引き絞りながら、先生は唸りながら涙を流した。

「な、泣かないでくださいよ」

さすがにギョッとした俺は慌てて声をかける。
先生は流れる涙を堪えようと呻くが、しかし涙は滾々と流れ続けた。
それから先生は、

「だって、だって、私、よかれと思って、」

そこまで言うと、一際大きく声を上げて泣き出した。

「ああ……!!ごめんなさいごめんなさい! ちょっと強い言い方しすぎました!」

俺の言葉に先生はかぶりを振ってから両手で顔を覆う。

「あた、あたし、がんばってるのにぃ……!!」

それから、手の隙間から、声がこぼれる。

「信じてくださいぃ……!!」

その縋るような言葉に、

「わかった!わかってる!わかってますから!」

俺はただ狼狽え、そう言うことしか出来なかった。

・・・

ひとしきり涙を流してすっきりしたのか先生は小さく縮こまって、

「ずびばぜん。おびぐるじいどごろを」

か細い声でそう言った。
俺は先生が落ち着くまで、ただ見ていることしか出来なかった。
とりあえず鼻声が酷い先生にポケットティッシュを差し出す。

「鼻かんでください」

先生は「あぃ……」と小さく返事をするとおずおずとそれを受け取った。
豪快に鼻をかむ音が生徒指導室に響く。
俺は先生から目をそらして彼女が落ち着くのを待った。

それから先生は小さく息を吐いた。

「……すみません、ついこみ上げてきてしまって、我慢できず」

少しの間沈黙が流れる。
それから俺は、少しだけ遠慮がちに尋ねてみた。

「先生、疲れてます?」

確かに気の小さい人だとは思ってたけど、まさかこんな号泣するとは思ってなかった。
しかしこれがきっかけになってしまうほど、今の彼女は張り詰めていたのだろう。
けれど先生は俺の言葉に慌てたように、ぱたぱたと両手を振る。

「え? いや、全然!平気、へっちゃらですよ!」
「いやいや」

さすがにその言葉は無理があると思った。
というかいつもこれ程度のやりとりはしていたのだ。
彼女にとって、これもプレッシャーだったのだろうか。
そう考えると申し訳なく思った。

俺が気を使っているのが顔に出たのだろうか。
先生はまるで俺を安心させるかのように力なく笑って言う。

「そういうのは、生徒が心配することじゃないですよ」

しかしその表情は、仕草は、どう見ても無理している人のそれだった。
だからこそ俺は言った。
「いいっすよ今更見栄張らなくても」
「そ、そうですか?」
「ええ。先生がちょっと抜けてるってことは知ってますから」
「うぐっ、そ、そうですか……」

先生は言いながらショックを受けたかのように肩を落とした。
それから「うぅ」と唸って、

「ちょっと、ちょっとだけですよ……? 最近、ちょっとだけ辛くて」

なんて、ちょっと、と手であらわしながらおどける先生。
俺は「ふうん」と相槌をうった。

「結構、溜まってるんだ」

俺がそう言うと先生は目をかっぴらく。

「たまっ!? そんなことないです!! いやらしい言い方しないでください」
「いやらしいかな……?」

急に大きな声を出すな。

「でもほんと、大丈夫、大丈夫ですから。寝たら元気になるので!」

そう言う先生の目は赤い。
俺は少し考えた。
そして口を開く。

「先生さあ、あんま生徒相手だと言いにくいのかもしれませんけど」

なんだかんだ、先生は真面目だから。
でもだからこそ、本当に困ったときに声が出せないんだと思う。
だから、言った。

「辛かったら、言ってくださいよ。愚痴なら聞きますから」

先生は俺の言葉に、一瞬だけ目を輝かせたように見えた。
しかしまた俯く。

「うぅ、でも、迷惑じゃ」
「いいっすよ、全然。誰だって辛いときくらいあるでしょ。大人だって」

多分、大人とか子供とか、関係ないんだと思う。
だって俺は、先生がさっき泣いていた時、子供っぽいなんて思わなかったから。
ただただ辛い思いをしていた彼女が、感情を吐き出しているだけだったから。

しかし先生は俺の言葉に、少しだけ抗議を含んで、溢す。

「だってさっき、怒ってました」
「うぐ!? いや、まあそうなんですけど……」

少しだけ拗ねたように口を尖らせる先生。
前言撤回だ。
子供っぽいじゃないか。
だからこそ俺は、腹を決めた。

「あーもう、わかりましたよ!」

大きな声を出した俺にきょとんとする先生の方を見て、俺は彼女に告げる。

「なんでも言ってください!なんでも頼ってください!先生のお願いだったらなんでも聞きますから!」
「……っ!!」

先生は俺の言葉に呆気にとられて停止する。
その後言葉の意味を理解したのか少し唇をかんで、それから遠慮がちに言う。

「本当に、なんでもですか?」
「中途半端は、俺が気持ち悪いので」

大げさに言ったのは、俺の覚悟の表明だ。
でも嘘はない。それに今言ったとおり中途半端は俺が納得できない。

先生はまた、しばらく黙って。
それから不意に、

「へっ、……うへへへ、そうですか、なんでも」

なんて、だらしない顔でへにゃりと笑うのだった。
……いやその笑い方はどうなの。

そうして先生はきゅっ唇を引き結び、背筋を伸ばす。

「うん。ありがとうございます。元気でました」
「そうですか?今なんか困ってるんなら、手伝いますよ? さすがにテスト作るとかは出来ませんけど雑用くらいなら」

目元をハンカチで押さえながら先生は言う。

「いいんです」

そうして顔をあげた先生と、目が合った。

「なにかあったときに頼れる相手がいるってわかっただけで、がんばれますから」

そう言った先生は、未だにちょっと目元が赤かったけど。
その笑顔は、いつもよりも少しだけ清々しそうなものだった。

そんな彼女の表情に俺はほっとした。

「……そうですか」
「うへへ」

相変わらず変な笑いを漏らす先生に俺もつられて笑う。
それから先生は勢いよく席を立った。

「では、私は職員室に戻ります」
「その前に顔洗った方がいいですよ」
「確かに! そうですね、ありがとうございます」

元気よく返事をする彼女に、もう大丈夫そうだなと判断し、俺も一緒に生徒指導室の出口に向かう。

「ではまた」
「はい、また」

そして先生は職員室へと向かって行った。
俺はスマホで時計を確認する。
随分長い時間が経っていたようだ。

それから先ほどの自分の発言を顧みる。

「さすがに見栄張りすぎたかな……」

なんでも、はさすがに言い過ぎだったか。
でもなあ、無視は出来ないよなあ。

思わずため息を漏らした。

「でも、まあ、いいか」

さすがに目の前で泣かれたら無視するわけにはいかないから。
いうてあの調子ならしばらく大丈夫そうだし、そうそう面倒なことにもならないだろう。

そう思って俺は帰路に着いた。

そして俺は翌日。
早速この時の発言を後悔するのだった。

・・・
翌日の放課後。
俺はジュースでも飲んでから帰ろうと自販機に向かっていると、

「関くぅん!!助けてくださいぃ!!」

なんて声が背後から聞こえた。
目を向けるとすごい勢いで突っ込んでくる安田先生。

「うおお!?なんすか急に!?」

言いながら周りを見渡すと他の生徒達も何事かとちらちらこちらを見ていた。
しかし先生は気にした様子もなく俺にすがりつく。

「明日の小テストの準備が終わらないんですぅ!!」

俺はそんな先生をやんわり引き剥がしながら答える。

「は!?いやいやさすがにそれは無理でしょ!!生徒が関与したらどうなるのか」

すると先生は、少しばかり得意げに胸を反らした。

「大丈夫です、違うクラスのものですから!」

ん?それなら、いいのか?
……いやだめだろう!!

「いやでもさあ」

先生の気を荒立てないようにできる限り優しい口調で諭そうとする俺。
しかし先生は、俺の態度を見てか少しだけ口を尖らせて、

「……なんでもって言った」

そんな風に、俺にだけ聞こえるような小さな声で拗ねるように言うのだった。

「うぐっ」

痛いところを突かれ苦悶の声を上げる俺に先生は追撃する。

「昨日のは、嘘だったんですか?」

ほんの少し目を潤ませた先生が俺を見上げてくる。
確かにそうだ。俺はなんでも言えと言った。
そんな昨日今日の発言を、覆すわけにもいかない。
俺は、諦めた。

「わかった! わかりましたよ! 問題なんて作れないから、なんか他のことなら手伝いますから!! そしたら時間も出来るでしょ?」

さすがにその辺りが妥協点だろう。
すると先生は目を輝かせて、

「わーい!ありがとうございます!」

そうやってはしゃぐのだった。
また、子供のように。
俺はその様子を見て、困った人だなあなんて。
思わず笑ってしまった。

そんな彼女に俺はふと湧いた疑問をぶつけることにした。

「先生、友達とか居ないんですか?」

仕事のことだけじゃなくても、プライベートでも、何か相談できる相手は居ないんだろうか。
そう思っての質問だったが。

「…………いまそのはなしかんけいありますか?」

あからさまにテンションが下がった先生に、俺は、

「ないです……」

ただそう答えることしかできなかった。
職員室に向かう先生の背中は哀愁が漂っていた。

俺は結局その後、他の先生にばれないように、こっそり安田先生のお手伝いをしたのだった。
その甲斐あってか、無事先生はテストを作り上げた。
その後、テストは翌日ではなく来週のことだったと先生は気付き。

俺は、先生に軽く説教をした。

安田瑠璃編 了
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