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第27話:Fクラス生徒・鳥羽一善

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 落下物は植木鉢のようだった。
  倒れていた生徒の頭から1メートルも離れていない場所に、土を撒き散らし割れ拡がっている。 
 植わっていたらしい満開のクレマチスの花が根を出し倒れ、雨に打たれていた。
  誰がこんな物をと見上げると続けざまに大きな声が降ってきた。

 「おーい。退いてくれ!」

 見上げると黒い、大きな影が三階のベランダの縁の上にわだかまっていた。
 よく目を凝らせばそれは人で、ベランダの縁の上にしゃがんでこちらを見下ろしているのだと分かった。
 暗面をこちらに向けてベランダにとりついた姿はひどく異質で、見上げるものに不気味な印象をもたらした。
 「じゃ、行くぞ。」

 続けて声が降ってきたかと思うと、男はベランダの手すりの縁からするりと滑るように飛び降りた。
 曇天をぬって大きな黒い影が長い手を伸ばし地上に降りたつ。
 ぱしゃと水を蹴立てる音を立てて地に着くとぐんと深く腰を落として地に手を付き、膝を地に着くほどに深く畳んだところで立ち上がり、すぐにすたすた歩き始めた。
 何の衝撃も受けていない平常らしい歩きぶりが人物の印象にますますもって怪異の質を加えた。
 
 その容貌もまたその印象を深めるようなものだった。
 筋肉質らしい大柄な体に赤くうねる肩まで届く髪。
 外国人のように堀りが深い目を引く容貌。
 空を蹴って出てきたこととその容姿とが、日本人である俺に鬼や天狗を髣髴ほうふつとさせる。

 泥の中から上半身を起こしていた生徒の一人は、近づいてくる男の姿を認めるや慌てた様子で急いで立ち上がろうとして滑りまた泥に肘をついた。
 男は倒れている生徒達の近くまで行くと、ぐると首を動かし、滑った生徒の上に目を止めた。そしてその横まで歩いて立ち止まると、深く腰を曲げその顔を覗き込む。

「なあ、お前さ、俺の飼ってたザリガニ知らねえ?」

「と、鳥羽とば…!!」

 脈絡のまるで分らない質問を受けた生徒は泥を掻いて後ずさる。
 その泡を喰った様子に構わず男はさらに顔を近づける。

「二日前にさ、皆既月食があっただろ?
 あの時にな、ちょっと空の様子でも見ようかと思って屋上に行ったんだ。
 そんで、部屋に戻ったら居なくなってたんだよ、9匹全部。」

 生徒は質問など耳に入っていない様子で、慌てた様子で手を動かし後ずさって相手から離れようとするが、泥ですべるのか動きの大きさの割りには移動できていない。
 そして生徒が下がるのに合わせて男が間合いを詰めるので、二人の距離はまるで変わらないままだった。

「なあ、知らねえ?」

 そうしてる内に生徒にさらに顔を近づけ、重ねて男は問いかける。

「ひ…」

 生徒は小さく声を上げて動きを止めた。少しそうしていたかと思うと突然横向きに倒れこんでうつ伏せ、その姿勢から立ち上がって逃げようとした。
 しかし鳥羽と呼ばれた男は逃げ出そうとした生徒の足を片手ではしと捕まえた。

「なあ、どうして逃げるんだ?」

 そのままぐい、と足を引っ張り生徒を泥に這わせて引き寄せる。

「…逃げる。」

 はてな、というように、男は首を傾げ足首を掴むのに使ってない方の手を顎に当てて呟いた。

「…うーん、待てよ。…逃げる、逃げる…逃げた…、と言うことは?」

 必死に逃げようともがく生徒の足を、片手で軽く掴んだまま考え込むように目をつむる。

「……そうか。
 何か後ろめたいことがあるんだな?
 ……て言うことは、もしかしてお前がやったのかな?
 逃げるって事は多分そうだよな。
 そうか。
 そうなのか。」

 一人ごちるそのあいだに形相が変わっていく。
 穏やかな表情から、酷く険のあるものへと。

 「…ひどい。
 茹でて食っちまったのか?俺のペット。
 そりゃあんまりだ。」

 そう言うと生徒の足を突然に離した。
 慌てて起き上がろうとする生徒だが、

「ッぐ!あぁあッ!」

「せっかく釣ったのに、どうしてそういう事するんだ?
 それはちょっと酷いんじゃないか。」

 もがく生徒の背中へダンと足が踏み降ろされ、生徒は鋭い悲鳴をあげる。
 その苦悶に構わず男は何度も何度も足を踏み下ろした。頭や背や腰をところ構わず、力任せに見える様子でめちゃくちゃに踏みつけている。
 
「なあ、何でそんなことしたんだ?どうしてなんだ?」
 
 激しく打擲ちょうちゃくしながら平常そのものの口調で話しかける。
 生徒は踏みつけられるたび苦しそうに呻き、抵抗してもがいて泥を掻いていた。

「ちが、違います…。俺は…してない…。」

 散々打たれた後に生徒は、ほうほうのていでそう言った。

「え、違うのか。
 そっか、じゃあ誤解だ。蹴ってごめん。」

 それを聞いた途端に男はそう言い生徒からあっさり離れた。しかしその時生徒はすでに泡を吐いて倒れていた。

 その様子を見て突然に呪縛から覚めたように我にかえった。
 ただでさえ現実味のないこの世界、その中でも超常現象じみた男の登場からのバイオレンスな展開、余りに運びが急で映画の外から見ているような状態になっていた。

 駄目だ、止めないと。

 この世界の人間の仕組みも生き死にも本当にはわからない、わからないが目の前で人死にが出るなんて真っ平ごめんだ。

 そう思い改めて男を見ると、今度はあの白黒髪の男の前に立っていた。
 目を離したのは一瞬だったと思うのだが、その間に先ほどからかなり離れた位置に息も切らさずに立っている。

「なあ、お前、俺のザリガニ食ったやつ知ってるか?」

「……!」

 白黒髪の男は何も答えず逃げ出した。
 が、足を負傷しているらしくその歩みはふらふらと遅い。

 男は、たやすく追いつくとその背に拳を打った。
 かふ、と苦悶の声をあげスマートフォンを投げ出して地面に倒れた白黒髪の男の背を更に踏みつけた。

「逃げる、ってことは、やったのはお前か。」

「おい、止めろっ!」

 出遅れたがとにかく止めようと思い、走ってそう叫ぶと男は続けざまに蹴りを入れようとしていた脚をゆっくり白黒髪の男の背に置いた。

「ん、お前…誰だっけ…。」

 じ、とこちらを目をすがめて見てくる、こちらに飛びかかってくるかもしれないと思い臨戦態勢で臨んだが、相手はそんな気は毛ほどもないように気の抜けた直立体勢でこちらに顔だけ向けている。

「あ、風紀委員長か。
 …だよな?」

 これは以外な返事だった。
 『風紀委員長』はどうもこの学校で相当顔が売れているようなのだが、この生徒はあまり顔を合わせる機会が無かったのだろうか。かなり素行が悪そうなのにそれも不思議だ。

「ああ、れ?でも…。
 お前ってそんな顔だっけ?」

 男は、鳥羽はこちらを見ながら不思議そうに呟いた。

「…お前、恐川、だったよな。
 …お前…何か顔変じゃね?」

 人の背に足を乗せたままこちらの顔をじっと見ている。
 問いかけようとすると低く通りのいい声が背後から聞こえた。

「その足を降ろせ、一善いちぜん!」
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