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第1章 1985年12月7日以後
第6話 アキヒコ2、1985年12月11日(水)
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ケネディ国際空港に着いたのは午前8時だった。まだ夏時間になっていないので、時差14時間、飛行時間もほぼ14時間。つまり、11日の朝に成田を出れば、11日の8時にニューヨークに着く、ということだ。10日にビザの手配、チケットの手配をすませた。パスポートは会社の指示で作らされていた。海外で何かあると応援に行かないといけない、ということで。
水曜日は、銀行に行って日本円を50万円ほどおろした。それをドルのトラベラーズチェック30万円相当とキャッシュ20万円相当に換えた。だいたい、クレジットカードで済むだろう。(財閥系の会社のいいところは、三井銀行のビザカードが入社当初からゴールドカードであることだ。限度額は300万円。足りるだろう)現場の太田所長に連絡して、宿泊先とホテルの電話番号を伝えた。同じ内容をFAXした。
家に戻り、荷造りをする。別段持って行くものはない。下着と靴下とシャツ、地味なスーツ、洗面用具だけだ。足りなければ向こうで買えばいい。どたばたしているうちに家族が帰ってくる。事情を話して、明日からニューヨークに行く、会社には連絡してある、向こうの連絡先はここだ、と両親と妹に説明した。いつも滅茶苦茶なことをやるぼくだからたいがいのことは驚かないが、さすがに、目を丸くして聞いている。妹が「絵美さん、お気の毒に」と言った。ぼくは「あいつを連れて帰ってこなくちゃいけないんだ」と考えなしに答えた。そう、たとえ遺体であっても。
無理に寝た。簡単だ。ブランディーをハーフボトル、ラッパ飲みにすれば眠れる。夢も何も見なかった。それで、翌日、不思議なことに、パッチリと早朝に目が覚めた。二日酔いも何もないのだ。朝食をガフガフと突っ込んだ。体力をつけないといけない。もちろん、シュワルツネッガーのように生卵を5個丸呑みにするなんてことはしない。
絵美のお父さんのお見舞いに行きたかったが時間がなかった。そこら中に電話をかけた。メグミにも真理子にもかけておいた。みんなあまり喋らなかった。「・・・こういうわけだ。とにかく、少なくとも1週間は向こうに行っている。日本に戻ったら連絡する」と手短に伝えた。「気をつけてね」とみんな言った。「大丈夫だ、今のところは。じゃあ」と電話を切った。たぶん、絵美のお母さんのことだから、名簿などは持って行っているだろう、向こうから手配が出来るように。絵美の方の連絡はニューヨークからすればいい。
何もすることがなく、ぼくは猫の頭をなでながら、ボケッとして、お茶をガブガブ飲み続けた。時間になり、どうせこのまま家にいてもしょうがない、と思って、スーツケースを持って、タクシーを拾い、YCATまで行って、リムジンに乗った。多少混んでいた。さっさとチェックインして、ウェイティングラウンジでいらいらして待った。免税店でウィスキーを買った。
搭乗が始まり、席に座って、もう何も考えないで毛布をひっかぶって寝てしまった。あまり食欲もなく、酒をもらっては眠り、酒をもらっては眠ってばかりだった。
ケネディ国際空港では、イミグレがご旅行の目的は?と訊くので、「観光」と答えておいた。ご宿泊先は?というので、「ペニンシュラ」とつっけんどんに答えた。そう、まだ1985年なのだ。ぼくは英語がそれほど話せなかったのだ。
空港の到着ロビーを抜けると、そこに黒のトレンチコートのポケットに手を突っ込んで立っている洋子がいた。「待っていたわ」と洋子が言った。
ぼくはスーツケースを抱え上げて走り寄った。彼女の前に突っ立って、「洋子、来てくれてありがとう」とぼくは言った。洋子は、ぼくの肩に手をおいて、ぼくの目をしっかり見て、「私は、一昨日の午前中に着いたの。時差でぼけているわ。でも、明彦よりもマシかな?絵美さんのママは昨日の午後3時についたわ。今はホテルで休まれている。睡眠薬をホテル付きのドクターに処方してもらったの。私よりも時差がキツいし、なによりこの状況だから。レンタカーを借りておいたわ」と、ゆっくりと言った。
「さ、ホテルに行きましょう」と歩き出した。「パーキングエリアまで歩くのよ。数分よ」と言う。
洋子の借りた車は、キャデラックの1982年型フリートウッドだった。まだ、アメ車がダウンサイジングをする前の最後の世代だった。トランクにスーツケースを放り込み、右座席に座る。洋子はドアを閉めると、エンジンをかけ、ヒーターのスイッチを入れた。エンジンをちょっと暖め、すぐ車を出した。相当に乱暴な運転だった。「慣れているのよ、学会で来るからね」と、洋子は言う。グランドセントラルパークウェイをたどっていく。「それでね」と洋子が説明した。
「NYPDが日本のニューヨーク総領事館に連絡をしたの。12月7日、つまり事件が起きて絵美さんが死亡した日は土曜日だったから、総領事館は、外務省にはFAXを送って、直接森さんの家に電話をかけたということ。本来なら外務省から連絡が行くんでしょうけどね。曜日の問題よ」
「・・・」ぼくは黙って聞いていた。
「この連絡があったのが7日の午後7時。死亡時刻は、7日の午前11時。まだ日が明るいときだったのね。即死よ。本人がパスポートを所持していて、パスポートのファイナルページに自宅住所、電話番号が記載されていたから、スムーズに本人の特定ができたということ」洋子が運転しながら、ぼくの方をチラッと見る。
「聞いてるよ、大丈夫だよ、続けて」
「日本国内で死亡届を提出するときには、死亡証明書、この場合は検屍報告書が必要なの。検屍はニューヨークのモルグで行われた。刑事事件だから当日7日午後2時に行われたわ。検屍報告書は作成されていて、NYPDに回された。検屍報告書はNYPDから総領事館に回される。総領事館で翻訳してくれるはず。日本って変ね?何でも日本語だから、死亡証明書も和訳しないといけない。和訳が間違っていたらどうするつもりなのかな?遺体証明書も必要で、これは総領事館が発行してくれる」
「わかった。検屍報告書、総領事館、和訳文書、遺体証明書、わかった。それから?」
「NYPDがこっちの葬儀社を紹介してくれたの。絵美さんのママは速やかに日本に遺体を空輸して、葬儀は日本で行いたい、こちらで荼毘に付したくないと言われているわ。棺とか見に行かないとね。日本では使い物にならないから、日本では棺を交換しないと。棺は空輸用というのがあって、軽いのよ。アルミ製。パンナムに訊いたら、エンバーミング、つまり、遺体保存処置をしないとダメだそうなのよ。だから、葬儀社で血液を抜き取って、遺体保存用の輸液を注入するの。その遺体保存処置を行ったという証明書も必要ね。これはパンナムに提出する。パンナムは、航空荷物運送状を発行してくれる。それから、遺体を棺に納めたら、総領事館が確認して、赤い封蝋をしてくれるわ。通関手続きが簡単になるのよ」
「あとでメモしておくよ、続けて」
「日本国内では、森家から葬儀社に連絡をとって、成田まで遺体を受け取りに来てもらわないといけない。ママが言うには、家の葬儀社があるそうだから、そちらに連絡する必要がある。あらかたの葬儀の段取りなどは、こちらから指示する必要があるわね。葬儀の日取りなども決めないと」
「お母さんが眠りから覚めたら相談を始めよう。それから?」
「ママは気をしっかり持っているけれど、あなたがサポートしないと国内手配がうまく行かないでしょう。NYPD、こちらの葬儀社、総領事館、パンナムとの連絡、手配は私がやるわ。明彦は、ママのケアをやってちょうだい。それと国内連絡。日本の葬儀社との連絡、絵美さんのパパとの連絡、親戚関連の連絡、交友関係への連絡、そうそう、大学にも連絡しないと。院からの一時留学という形で来ていたそうね?だから、大学院、指導教授にも連絡する必要があるわ」
「ぼくが出来るのはその分担だな。洋子の方が面倒だ。でも、出来るだけぼくも一緒に連れて行って欲しい。ぼくの分担に支障がなければ・・・」
「一緒に行かないと気が済まないものね。気持ちはわかるわ。それから、NYPDが本人確認の必要がある、と言っている。私は担当刑事に、私は確認できない、本人の母親がこちらに到着しているが、心労でまいっていて、今日は出来ない。本人の友人が11日の午前中に到着するので、母親と彼、つまり、あなたが今日NYPDに出頭して、一緒にモルグに行く。それで本人確認をする、と打ち合わせてある。だから、これからホテルにチェックインして、明彦の時差ぼけを治して、朝食をすませて、NYPDに午後二時半頃に行く、という予定よ。ざっと、こんなところよ。辛い、キツいでしょうけれど、明彦の感情は後で自分で整理することね。まずは、やることをこなして、ママのケアをしないといけないわ。」
「了解。ぼくの時差ぼけなど気にしないでいい。ずっと眠っていたから、時差ぼけなんかないんだ。洋子、ありがとう。だけど、洋子、ここまでなぜしてくれるんだ?キミと絵美はそれほどの関係はなかったろう?」
「バカね、キミは。私に絵美さんと同じことが起こったら、そして、もしも、絵美さんが明彦の私に対する思いを知っていたなら、彼女は私と同じことをしたはずよね?こういうことは私にはうまく出来る。これは事実として言っているの。そして、彼女も私と同じようにやったでしょうね。それが理由よ」と、洋子はこう言った。
明彦の私に対する思い。ぼくの洋子に対する思い。洋子は、ぼくの絵美に対する思いは知っている・・・ぼくの絵美に対する思い・・・混乱している。ぼくの洋子に対する思いってなんだ?じゃあ、ぼくの絵美に対する思いって何だ?・・・え?同じものだったのか?同じ思いをぼくは二人に持っていたのか?
「ぼくの絵美に対する思いと、ぼくの洋子に対する思いは、同質で同じものだったのか、洋子?」
「今頃気付いたの?バカモノ!・・・まあ、いいわよ。あとでゆっくり考えて。でも、いまはしっかりして、明彦!」
或いは、ぼくに同じようなことが起こっても、彼女たち2人は同じことをしたはずだ。なぜそう確信があるのかよくわからない。だが、ぼくと彼女たちはそうなのだ。当時、ぼくも絵美も27才で、洋子は34才だったが、洋子に同じことが起こったら、絵美はNYPDに飛んでいって、同じようなレベルのことをしたと思う。
むろん、洋子は、私はモンペリエの法学部の助教授で、IDはこれ。私は森家のこちらの弁護士同様と思ってちょうだい!代理人よ。それで、何がどうなっているのか、今、教えるのよ。おわかりかしら?とまくし立てたのだ。
洋子の得意なことのひとつは、あれだけ知的で思いやりのある優しい女性なのに、必要であれば、「お黙り!」「お下がり!」「お教えなさい!」が、たとえ相手が大統領であっても出来たことだ。洋子は、ぼくの彼女の中で、本当に最強の女性の一人だった。ベッドの上だけじゃない。
洋子はペニンシュラの前に車を乗り付けた。トランクを開けた。ベルボーイがぼくのスーツケースを受け取った。洋子は車のキーを配車係に預けて、チップをやった。
「さ、明彦、チェックインして、ママの様子を見に行こう」と、洋子は言った。
ホテルのチェックインを済ませ、部屋に入った。洋子も一緒だ。午前10時半になっていた。
「どうする?シャワーを浴びる?」
「いや、絵美のお母さんの様子を見に行こう」
「そうね、それが先ね」
「でも、彼女睡眠薬を飲ませたんだろう?寝ていたらドアを開けることが出来ないじゃないか?」
「フロントに言って、彼女の部屋の鍵をもうひとつもらってあるの。だから、ノックをしても出なかったら、私の持っている鍵で開けるわ。ママにもそう断ってあるから、大丈夫よ」
「了解。さすがだな、洋子は。先を読んでる」
「商売柄ね」
お母さんの部屋と、ぼく、洋子の部屋は隣り合っている。ぼくの部屋を出て、すぐ左がお母さんの部屋、右が洋子の部屋だった。ぼくらは彼女の部屋に行ってノックをした。1分くらいしてもドアは開かないので、洋子の持っている鍵で開ける。
部屋に入ると、彼女は起きていた。ベッドに上体を起こしてぼんやりしている。彼女はうつろな目でぼくらを見つめた。すぐには口を開かなかった。しかし、なんとか彼女は笑みを浮かべて言った。「明彦君、来てくれたのね、ありがとう」
「八時に空港に着きました。今、10時半ですよ」
「もうそんな時間なの?」
「よく眠れましたか?」
「ええ、大丈夫」と、彼女は無理に笑みを浮かべて言った。
「起こしたみたいですね、森さん、ごめんなさい」と、洋子が言う。
「いいえ、起きていたのよ。ボンヤリしていたの。何も考えられなくって」
「空港からの車の中で、洋子から今の現状を聞きました。何をするかは、わかってます。だから、今は休まれていた方がいい。ぼくらがやりますから。何か飲まれますか?食べられます?」とぼくが訊くと、「水が欲しいの」とぽつりと言った。
洋子は、テーブルの上に置いたあった水差しを取り上げ、グラスに半分ほど満たすと、ベッドの彼女の横に座って、背中を支えながら水を飲ませた。
「洋子さん、ありがとう」と、彼女が言う。「明彦君、昨日空港に着いてから、ずっと、洋子さんにはお世話になってしまったの。私一人では右往左往するばかりでしょ?」と、彼女は洋子を見て微笑んだ。「わざわざ娘のためにフランスから来ていただいて、なんとお礼の申し上げようがあるのかしら」
「気にしないで下さい。私に同じことが起こったら、絵美さんは私と同じことをしたはずですから」と、洋子が言った。
「絵美も明彦君の紹介で、いいお友達を持ったわ」と彼女が言った。
たぶん、洋子は、ぼく、絵美、洋子の関係を説明するのが難しいので、ぼくの紹介で絵美とあって、友人になった、とでも彼女に説明したのだろう。
「オレンジとリンゴをむくわ」と、洋子が言って、コンプリメントのフルーツバスケットから果物を取り出し、バスルームに行って洗ってきて、ナイフで手早くカットした。「睡眠薬の効果が切れたから、喉が渇いていると思いますよ。これを食べてくださいね?」と洋子が果物の皿を差し出すと、彼女は素直に食べた。おいしかったのか、全部食べてしまった。
「そうそう、食欲があるのは良い兆候です。ルームサービスで何かお取りしましょうか?」と洋子が訊くと、「いいえ、これで十分。ありがとう、洋子さん」と言った。
「シャワーを浴びられますか?お風呂は?」と、洋子が訊く。
「いいえ、疲れたの」とうつむいて言った。「夜にでも浴びます」と言う。
「そうですか。今日は二時半にNYPDに行かないといけません。お疲れでしょうが、我慢してください。鎮静剤を飲まれますか?」と洋子が言った。
「そうね、鎮静剤の助けを受けた方がよさそうね」
洋子は、ハンドバックから、処方された紙包みの中から鎮静剤を1錠取り出した。水差しから水をグラスについで、彼女に鎮静剤と水を飲ませた。
「二時にホテルを出ます。まだ三時間ほどあります。一時半頃まで眠れますよ。さ、横になって」と洋子は彼女を横にして、枕の位置を整え、ブランケットをかけた。「よく眠るんですよ。一時半に私が起こしにまいります」
「よろしくお願いします、洋子さん」と言って彼女は目を閉じた。
「じゃあ、お母さん、ぼくらは失礼します。後で、お目にかかりましょう」とぼくは言った。彼女はちょっと目を開いてぼくを見つめ、「明彦君、ありがとう」と言う。「大丈夫、洋子とぼくがいますから。では」と言って、ぼくらは部屋を出た。
洋子とぼくは、ぼくの部屋に行った。
「よくお母さんの世話をしてくれて、洋子、ありがとう」とぼくは言う。
「普段の私からは想像もつかない?」と、洋子はニヤリと笑っていった。
「いいや、こういうとき、洋子は当然のようにテキパキとなんでもこなすと思っていたよ」
「そうね、こういうときはね」と、洋子はベッドに座った。「久しぶりね?明彦。バカみたいに突っ立ってないで、ほら、ここ」と、バンバンとベッドの彼女の横を叩いた「ここに座って」
「こういうときでも、洋子は変わらないな、そういうところは」
「そんな人間は変わらないわよ、いつでも。ほら、明彦、顔を見せて」と、洋子がぼくの顔を手で挟んで彼女の方に向けた「どう?悲しいの?」と言う。
「話だけだろ?まったく実感がわかないんだ。成田からこっちに来る間の記憶も曖昧なんだ」
「そうね。お昼までゆっくり休むことね。あなたも鎮静剤を飲む?」と洋子が言う。
「いいや、飛行機の中で寝てばかりいたから、鎮静剤はいらない。それよりも、クイックシャワーをして、洋子、食事をしよう。そして、絵美のことを話したい、洋子と」
「いいわよ、あなたがそれでいいなら」
「洋子、本当にありがとう。ぼくじゃあうまく対処できなかったし、お母さんも困ったと思う。本当にありがとう」
「明彦と私の仲だから・・・」
「そうだね・・・ぼくを通じた絵美との仲でもある。車の中で洋子が言ったことを考えていたんだ。ぼくは、絵美と洋子をどちらがどちらというのではなくて、愛していたのだね。自分で気がつかない間に・・・」
「それだけじゃない。私の明彦に対する思いは、いつの間にか、絵美さんの明彦に対する思いと同じになったのよ。おかしいわね?私たちの間でいろいろあった。美佐子のこともあった。絵美さんのことも聞いた。でも、愛情に一番も二番もないのよ。それが与えるだけの愛情で、奪うつもりがなければ。だから、私たち、私と絵美さんの愛情も同質で同じものにいつの間にかなっていたのね。去年の8月、私がだまし討ちで、絵美さんと会ったじゃない?」
「まったく・・・」
「思った通りの女性だったわよ。私と非常に似ていた。私を6年若くしたら、彼女そのものになるわね」
「そうだね、二人は非常に似ている。だけど、二人の女性を愛するなんてことを、ぼくは何か抑制していたのかな?自分で自分に制限をかけていたのかな?」
「どうなのかしらね?あとで将来考えられるようになったら、よく反芻してみることね。さ、シャワーを浴びていらっしゃい。私はレストランをチェックしておくから。状況がどうあれ、おいしいものでも食べなくちゃね」
「わかった」と、ぼくはスーツケースから着替えを取り出し、手早く服を脱いで、バスルームに行った。シャワーを浴びて出てくると、洋子が電話をかけていた。
「あなたのリコメンデーションは?・・・え?どの料理でもいいことよ。地中海料理?それで結構。どこにあるの?・・・うんうん、M2Fね?わかった。それで予約は?要るの?要らないの?・・・そう、では1023号室のミス・シマズで予約してちょうだい。2名よ・・・OK?そうそう、それともう一点。ドレスコードは?・・・スマートカジュアルね?ありがとう。じゃあ」と言って受話器をおろした。どんな場所でも、洋子の手にかかると魔法の扉が開くのだ。
「このホテルの中2階のファイブスに行きましょう。5丁目55番地だからファイブスなんだって。トリプルファイブにすればいいじゃない?ねえ?」と彼女は言う「ドレスコードはスマートカジュアルだって。何を着るの?」
「そうだな、キャメルの黒のジャケット、チノパンツ、白のタートルネックのセーターにするよ」
「わかったわ。私も合わせましょう。じゃ、私、着替えてくる」と言って、立ち上がってドアの方に行った。ドアを開けて、振り返ると、「明彦、ホテルでキミと違う部屋にいるというのは違和感があるわね」と言って、ニヤッと笑ってウィンクして行ってしまった。
ファイブスで適当にコース料理を注文した。食事をしながら、ぼくは、胸にわだかまっている疑問を洋子に訊いた。「これは刑事事件なんだろう?誰に射殺されたんだろうか?通り魔の犯行なのか?」
「NYPDで、弾丸の検査をしているところなのだそうよ。登録された銃器から発射されたものなら、その銃器の持ち主を特定できる。この検査が済まないとハッキリしたことはわからない。射殺された状況は、刑事から聞いたのだけど、目撃者によると、彼女はタイムズスクエアのオープンカフェに座っていて撃たれたということ。どこから撃たれたのか?今調べている途中。でも、刑事がオフレコで言ったのは、弾道の角度からして、水平位置、つまり、地面から撃たれたようじゃない形跡があるらしい。もっと、高いところから、たとえば、ビルの上の方の階とか、屋上とか」
「ちょ、ちょっと待てよ、洋子。地面にいる人間から撃たれたのなら、通り魔などの犯行と疑えるけど、上方、ビルの中からとか屋上からというのは、待ち構えていないと撃てないだろ?計画的な犯行なのか?」
「明彦、先を急いじゃダメ。刑事もあくまでオフレコで、正式書類をモルグからもらっていないから断言できないが、検屍官が口頭でそういったということなの」
「う~ん、しかし、計画的だったとしたら、絵美はなぜそんなことに巻き込まれたんだろう?誰の犯行なんだろう?絵美は何をしていたんだ?」
絵美は何をこのニューヨークでしていたんだ?
ファイブスの食事を終えて、ぼくらはぼくの部屋に戻ってきた。
「ママには、何かあったら、連絡は私の部屋にしてと言ってあるの」と、洋子が言う。「だから、私は自分の部屋にいないといけない、そうなんだけど・・・」
「そうなんだけど?何?」
「あのさ、こういう状況下でさ、こういう提案はどうなのかな?と思うけどね・・・」
「言いにくそうだな?」
「言いにくいなあ・・・明彦、私の部屋に来ない?昼食まで時間があるじゃない?」
「ああ、そういうことか?そうだね。二人の方がよさそうだ」
「久しぶりでしょ?ちょっとは、その・・・あれよね?あれをさ・・・明彦と同じホテルで、別の部屋に寝るというのが、私には想像も出来なければ、実行も出来ないだけなのよ」
「いいよ、行こう」
「そんな簡単に言えるの?」
「絵美はそんなことでは怒りゃしないさ」
「そうかな?」
「絵美は、さっさと洋子の部屋に行きなさいと言うだろう。洋子が同じ立場でも、同じことを言うだろ?」
「なるほど。説得力はあるな?」
「自分から、私の部屋に来ない?と言い出したくせに?」
「私だって、気になるから・・・」
「さ、一人じゃ辛いしね、洋子の部屋に行こう。ウィスキーが1本あるしさ」
「私もブランディーがあるわ。レミーがある」
「絵美はブランディーが好きだったから、それを飲もう。追悼だ」
ぼくはジャケットとウィスキーを持って、洋子の腕を持った。「行こう、キミの部屋に」
洋子の部屋に行って、ぼくはさっさと服を脱いでアンダーパンツだけで、洋子のベッドに潜り込んだ。洋子がブランディーをドレッサーから持ってきて、グラスに注いだ。「ほら、これ」とグラスをぼくに押しつけた。「洋子もさっさと服脱いで」と、今度はベッドをぼくがバンバン叩いた「ここに潜り込めよ」
「わかった」と洋子は言って、服を脱いでいった。いつものように、服は床の上に散乱したまま。それで、ブラとショーツだけになって、洋子はグラスを持ってぼくの脇に潜り込んできた。
「そう言えば、明彦、シャワーしてないじゃない?」
「明日の朝浴びよう。夜中に浴びてもいい」
「ちょっと汗臭いわね?」
「うん、長いフライトだったからね」
「明彦の匂いがする」
「久しぶりだ」
「明彦?」
「どうした?」
「私もね、妹を亡くしたみたいな心境だわ」
水曜日は、銀行に行って日本円を50万円ほどおろした。それをドルのトラベラーズチェック30万円相当とキャッシュ20万円相当に換えた。だいたい、クレジットカードで済むだろう。(財閥系の会社のいいところは、三井銀行のビザカードが入社当初からゴールドカードであることだ。限度額は300万円。足りるだろう)現場の太田所長に連絡して、宿泊先とホテルの電話番号を伝えた。同じ内容をFAXした。
家に戻り、荷造りをする。別段持って行くものはない。下着と靴下とシャツ、地味なスーツ、洗面用具だけだ。足りなければ向こうで買えばいい。どたばたしているうちに家族が帰ってくる。事情を話して、明日からニューヨークに行く、会社には連絡してある、向こうの連絡先はここだ、と両親と妹に説明した。いつも滅茶苦茶なことをやるぼくだからたいがいのことは驚かないが、さすがに、目を丸くして聞いている。妹が「絵美さん、お気の毒に」と言った。ぼくは「あいつを連れて帰ってこなくちゃいけないんだ」と考えなしに答えた。そう、たとえ遺体であっても。
無理に寝た。簡単だ。ブランディーをハーフボトル、ラッパ飲みにすれば眠れる。夢も何も見なかった。それで、翌日、不思議なことに、パッチリと早朝に目が覚めた。二日酔いも何もないのだ。朝食をガフガフと突っ込んだ。体力をつけないといけない。もちろん、シュワルツネッガーのように生卵を5個丸呑みにするなんてことはしない。
絵美のお父さんのお見舞いに行きたかったが時間がなかった。そこら中に電話をかけた。メグミにも真理子にもかけておいた。みんなあまり喋らなかった。「・・・こういうわけだ。とにかく、少なくとも1週間は向こうに行っている。日本に戻ったら連絡する」と手短に伝えた。「気をつけてね」とみんな言った。「大丈夫だ、今のところは。じゃあ」と電話を切った。たぶん、絵美のお母さんのことだから、名簿などは持って行っているだろう、向こうから手配が出来るように。絵美の方の連絡はニューヨークからすればいい。
何もすることがなく、ぼくは猫の頭をなでながら、ボケッとして、お茶をガブガブ飲み続けた。時間になり、どうせこのまま家にいてもしょうがない、と思って、スーツケースを持って、タクシーを拾い、YCATまで行って、リムジンに乗った。多少混んでいた。さっさとチェックインして、ウェイティングラウンジでいらいらして待った。免税店でウィスキーを買った。
搭乗が始まり、席に座って、もう何も考えないで毛布をひっかぶって寝てしまった。あまり食欲もなく、酒をもらっては眠り、酒をもらっては眠ってばかりだった。
ケネディ国際空港では、イミグレがご旅行の目的は?と訊くので、「観光」と答えておいた。ご宿泊先は?というので、「ペニンシュラ」とつっけんどんに答えた。そう、まだ1985年なのだ。ぼくは英語がそれほど話せなかったのだ。
空港の到着ロビーを抜けると、そこに黒のトレンチコートのポケットに手を突っ込んで立っている洋子がいた。「待っていたわ」と洋子が言った。
ぼくはスーツケースを抱え上げて走り寄った。彼女の前に突っ立って、「洋子、来てくれてありがとう」とぼくは言った。洋子は、ぼくの肩に手をおいて、ぼくの目をしっかり見て、「私は、一昨日の午前中に着いたの。時差でぼけているわ。でも、明彦よりもマシかな?絵美さんのママは昨日の午後3時についたわ。今はホテルで休まれている。睡眠薬をホテル付きのドクターに処方してもらったの。私よりも時差がキツいし、なによりこの状況だから。レンタカーを借りておいたわ」と、ゆっくりと言った。
「さ、ホテルに行きましょう」と歩き出した。「パーキングエリアまで歩くのよ。数分よ」と言う。
洋子の借りた車は、キャデラックの1982年型フリートウッドだった。まだ、アメ車がダウンサイジングをする前の最後の世代だった。トランクにスーツケースを放り込み、右座席に座る。洋子はドアを閉めると、エンジンをかけ、ヒーターのスイッチを入れた。エンジンをちょっと暖め、すぐ車を出した。相当に乱暴な運転だった。「慣れているのよ、学会で来るからね」と、洋子は言う。グランドセントラルパークウェイをたどっていく。「それでね」と洋子が説明した。
「NYPDが日本のニューヨーク総領事館に連絡をしたの。12月7日、つまり事件が起きて絵美さんが死亡した日は土曜日だったから、総領事館は、外務省にはFAXを送って、直接森さんの家に電話をかけたということ。本来なら外務省から連絡が行くんでしょうけどね。曜日の問題よ」
「・・・」ぼくは黙って聞いていた。
「この連絡があったのが7日の午後7時。死亡時刻は、7日の午前11時。まだ日が明るいときだったのね。即死よ。本人がパスポートを所持していて、パスポートのファイナルページに自宅住所、電話番号が記載されていたから、スムーズに本人の特定ができたということ」洋子が運転しながら、ぼくの方をチラッと見る。
「聞いてるよ、大丈夫だよ、続けて」
「日本国内で死亡届を提出するときには、死亡証明書、この場合は検屍報告書が必要なの。検屍はニューヨークのモルグで行われた。刑事事件だから当日7日午後2時に行われたわ。検屍報告書は作成されていて、NYPDに回された。検屍報告書はNYPDから総領事館に回される。総領事館で翻訳してくれるはず。日本って変ね?何でも日本語だから、死亡証明書も和訳しないといけない。和訳が間違っていたらどうするつもりなのかな?遺体証明書も必要で、これは総領事館が発行してくれる」
「わかった。検屍報告書、総領事館、和訳文書、遺体証明書、わかった。それから?」
「NYPDがこっちの葬儀社を紹介してくれたの。絵美さんのママは速やかに日本に遺体を空輸して、葬儀は日本で行いたい、こちらで荼毘に付したくないと言われているわ。棺とか見に行かないとね。日本では使い物にならないから、日本では棺を交換しないと。棺は空輸用というのがあって、軽いのよ。アルミ製。パンナムに訊いたら、エンバーミング、つまり、遺体保存処置をしないとダメだそうなのよ。だから、葬儀社で血液を抜き取って、遺体保存用の輸液を注入するの。その遺体保存処置を行ったという証明書も必要ね。これはパンナムに提出する。パンナムは、航空荷物運送状を発行してくれる。それから、遺体を棺に納めたら、総領事館が確認して、赤い封蝋をしてくれるわ。通関手続きが簡単になるのよ」
「あとでメモしておくよ、続けて」
「日本国内では、森家から葬儀社に連絡をとって、成田まで遺体を受け取りに来てもらわないといけない。ママが言うには、家の葬儀社があるそうだから、そちらに連絡する必要がある。あらかたの葬儀の段取りなどは、こちらから指示する必要があるわね。葬儀の日取りなども決めないと」
「お母さんが眠りから覚めたら相談を始めよう。それから?」
「ママは気をしっかり持っているけれど、あなたがサポートしないと国内手配がうまく行かないでしょう。NYPD、こちらの葬儀社、総領事館、パンナムとの連絡、手配は私がやるわ。明彦は、ママのケアをやってちょうだい。それと国内連絡。日本の葬儀社との連絡、絵美さんのパパとの連絡、親戚関連の連絡、交友関係への連絡、そうそう、大学にも連絡しないと。院からの一時留学という形で来ていたそうね?だから、大学院、指導教授にも連絡する必要があるわ」
「ぼくが出来るのはその分担だな。洋子の方が面倒だ。でも、出来るだけぼくも一緒に連れて行って欲しい。ぼくの分担に支障がなければ・・・」
「一緒に行かないと気が済まないものね。気持ちはわかるわ。それから、NYPDが本人確認の必要がある、と言っている。私は担当刑事に、私は確認できない、本人の母親がこちらに到着しているが、心労でまいっていて、今日は出来ない。本人の友人が11日の午前中に到着するので、母親と彼、つまり、あなたが今日NYPDに出頭して、一緒にモルグに行く。それで本人確認をする、と打ち合わせてある。だから、これからホテルにチェックインして、明彦の時差ぼけを治して、朝食をすませて、NYPDに午後二時半頃に行く、という予定よ。ざっと、こんなところよ。辛い、キツいでしょうけれど、明彦の感情は後で自分で整理することね。まずは、やることをこなして、ママのケアをしないといけないわ。」
「了解。ぼくの時差ぼけなど気にしないでいい。ずっと眠っていたから、時差ぼけなんかないんだ。洋子、ありがとう。だけど、洋子、ここまでなぜしてくれるんだ?キミと絵美はそれほどの関係はなかったろう?」
「バカね、キミは。私に絵美さんと同じことが起こったら、そして、もしも、絵美さんが明彦の私に対する思いを知っていたなら、彼女は私と同じことをしたはずよね?こういうことは私にはうまく出来る。これは事実として言っているの。そして、彼女も私と同じようにやったでしょうね。それが理由よ」と、洋子はこう言った。
明彦の私に対する思い。ぼくの洋子に対する思い。洋子は、ぼくの絵美に対する思いは知っている・・・ぼくの絵美に対する思い・・・混乱している。ぼくの洋子に対する思いってなんだ?じゃあ、ぼくの絵美に対する思いって何だ?・・・え?同じものだったのか?同じ思いをぼくは二人に持っていたのか?
「ぼくの絵美に対する思いと、ぼくの洋子に対する思いは、同質で同じものだったのか、洋子?」
「今頃気付いたの?バカモノ!・・・まあ、いいわよ。あとでゆっくり考えて。でも、いまはしっかりして、明彦!」
或いは、ぼくに同じようなことが起こっても、彼女たち2人は同じことをしたはずだ。なぜそう確信があるのかよくわからない。だが、ぼくと彼女たちはそうなのだ。当時、ぼくも絵美も27才で、洋子は34才だったが、洋子に同じことが起こったら、絵美はNYPDに飛んでいって、同じようなレベルのことをしたと思う。
むろん、洋子は、私はモンペリエの法学部の助教授で、IDはこれ。私は森家のこちらの弁護士同様と思ってちょうだい!代理人よ。それで、何がどうなっているのか、今、教えるのよ。おわかりかしら?とまくし立てたのだ。
洋子の得意なことのひとつは、あれだけ知的で思いやりのある優しい女性なのに、必要であれば、「お黙り!」「お下がり!」「お教えなさい!」が、たとえ相手が大統領であっても出来たことだ。洋子は、ぼくの彼女の中で、本当に最強の女性の一人だった。ベッドの上だけじゃない。
洋子はペニンシュラの前に車を乗り付けた。トランクを開けた。ベルボーイがぼくのスーツケースを受け取った。洋子は車のキーを配車係に預けて、チップをやった。
「さ、明彦、チェックインして、ママの様子を見に行こう」と、洋子は言った。
ホテルのチェックインを済ませ、部屋に入った。洋子も一緒だ。午前10時半になっていた。
「どうする?シャワーを浴びる?」
「いや、絵美のお母さんの様子を見に行こう」
「そうね、それが先ね」
「でも、彼女睡眠薬を飲ませたんだろう?寝ていたらドアを開けることが出来ないじゃないか?」
「フロントに言って、彼女の部屋の鍵をもうひとつもらってあるの。だから、ノックをしても出なかったら、私の持っている鍵で開けるわ。ママにもそう断ってあるから、大丈夫よ」
「了解。さすがだな、洋子は。先を読んでる」
「商売柄ね」
お母さんの部屋と、ぼく、洋子の部屋は隣り合っている。ぼくの部屋を出て、すぐ左がお母さんの部屋、右が洋子の部屋だった。ぼくらは彼女の部屋に行ってノックをした。1分くらいしてもドアは開かないので、洋子の持っている鍵で開ける。
部屋に入ると、彼女は起きていた。ベッドに上体を起こしてぼんやりしている。彼女はうつろな目でぼくらを見つめた。すぐには口を開かなかった。しかし、なんとか彼女は笑みを浮かべて言った。「明彦君、来てくれたのね、ありがとう」
「八時に空港に着きました。今、10時半ですよ」
「もうそんな時間なの?」
「よく眠れましたか?」
「ええ、大丈夫」と、彼女は無理に笑みを浮かべて言った。
「起こしたみたいですね、森さん、ごめんなさい」と、洋子が言う。
「いいえ、起きていたのよ。ボンヤリしていたの。何も考えられなくって」
「空港からの車の中で、洋子から今の現状を聞きました。何をするかは、わかってます。だから、今は休まれていた方がいい。ぼくらがやりますから。何か飲まれますか?食べられます?」とぼくが訊くと、「水が欲しいの」とぽつりと言った。
洋子は、テーブルの上に置いたあった水差しを取り上げ、グラスに半分ほど満たすと、ベッドの彼女の横に座って、背中を支えながら水を飲ませた。
「洋子さん、ありがとう」と、彼女が言う。「明彦君、昨日空港に着いてから、ずっと、洋子さんにはお世話になってしまったの。私一人では右往左往するばかりでしょ?」と、彼女は洋子を見て微笑んだ。「わざわざ娘のためにフランスから来ていただいて、なんとお礼の申し上げようがあるのかしら」
「気にしないで下さい。私に同じことが起こったら、絵美さんは私と同じことをしたはずですから」と、洋子が言った。
「絵美も明彦君の紹介で、いいお友達を持ったわ」と彼女が言った。
たぶん、洋子は、ぼく、絵美、洋子の関係を説明するのが難しいので、ぼくの紹介で絵美とあって、友人になった、とでも彼女に説明したのだろう。
「オレンジとリンゴをむくわ」と、洋子が言って、コンプリメントのフルーツバスケットから果物を取り出し、バスルームに行って洗ってきて、ナイフで手早くカットした。「睡眠薬の効果が切れたから、喉が渇いていると思いますよ。これを食べてくださいね?」と洋子が果物の皿を差し出すと、彼女は素直に食べた。おいしかったのか、全部食べてしまった。
「そうそう、食欲があるのは良い兆候です。ルームサービスで何かお取りしましょうか?」と洋子が訊くと、「いいえ、これで十分。ありがとう、洋子さん」と言った。
「シャワーを浴びられますか?お風呂は?」と、洋子が訊く。
「いいえ、疲れたの」とうつむいて言った。「夜にでも浴びます」と言う。
「そうですか。今日は二時半にNYPDに行かないといけません。お疲れでしょうが、我慢してください。鎮静剤を飲まれますか?」と洋子が言った。
「そうね、鎮静剤の助けを受けた方がよさそうね」
洋子は、ハンドバックから、処方された紙包みの中から鎮静剤を1錠取り出した。水差しから水をグラスについで、彼女に鎮静剤と水を飲ませた。
「二時にホテルを出ます。まだ三時間ほどあります。一時半頃まで眠れますよ。さ、横になって」と洋子は彼女を横にして、枕の位置を整え、ブランケットをかけた。「よく眠るんですよ。一時半に私が起こしにまいります」
「よろしくお願いします、洋子さん」と言って彼女は目を閉じた。
「じゃあ、お母さん、ぼくらは失礼します。後で、お目にかかりましょう」とぼくは言った。彼女はちょっと目を開いてぼくを見つめ、「明彦君、ありがとう」と言う。「大丈夫、洋子とぼくがいますから。では」と言って、ぼくらは部屋を出た。
洋子とぼくは、ぼくの部屋に行った。
「よくお母さんの世話をしてくれて、洋子、ありがとう」とぼくは言う。
「普段の私からは想像もつかない?」と、洋子はニヤリと笑っていった。
「いいや、こういうとき、洋子は当然のようにテキパキとなんでもこなすと思っていたよ」
「そうね、こういうときはね」と、洋子はベッドに座った。「久しぶりね?明彦。バカみたいに突っ立ってないで、ほら、ここ」と、バンバンとベッドの彼女の横を叩いた「ここに座って」
「こういうときでも、洋子は変わらないな、そういうところは」
「そんな人間は変わらないわよ、いつでも。ほら、明彦、顔を見せて」と、洋子がぼくの顔を手で挟んで彼女の方に向けた「どう?悲しいの?」と言う。
「話だけだろ?まったく実感がわかないんだ。成田からこっちに来る間の記憶も曖昧なんだ」
「そうね。お昼までゆっくり休むことね。あなたも鎮静剤を飲む?」と洋子が言う。
「いいや、飛行機の中で寝てばかりいたから、鎮静剤はいらない。それよりも、クイックシャワーをして、洋子、食事をしよう。そして、絵美のことを話したい、洋子と」
「いいわよ、あなたがそれでいいなら」
「洋子、本当にありがとう。ぼくじゃあうまく対処できなかったし、お母さんも困ったと思う。本当にありがとう」
「明彦と私の仲だから・・・」
「そうだね・・・ぼくを通じた絵美との仲でもある。車の中で洋子が言ったことを考えていたんだ。ぼくは、絵美と洋子をどちらがどちらというのではなくて、愛していたのだね。自分で気がつかない間に・・・」
「それだけじゃない。私の明彦に対する思いは、いつの間にか、絵美さんの明彦に対する思いと同じになったのよ。おかしいわね?私たちの間でいろいろあった。美佐子のこともあった。絵美さんのことも聞いた。でも、愛情に一番も二番もないのよ。それが与えるだけの愛情で、奪うつもりがなければ。だから、私たち、私と絵美さんの愛情も同質で同じものにいつの間にかなっていたのね。去年の8月、私がだまし討ちで、絵美さんと会ったじゃない?」
「まったく・・・」
「思った通りの女性だったわよ。私と非常に似ていた。私を6年若くしたら、彼女そのものになるわね」
「そうだね、二人は非常に似ている。だけど、二人の女性を愛するなんてことを、ぼくは何か抑制していたのかな?自分で自分に制限をかけていたのかな?」
「どうなのかしらね?あとで将来考えられるようになったら、よく反芻してみることね。さ、シャワーを浴びていらっしゃい。私はレストランをチェックしておくから。状況がどうあれ、おいしいものでも食べなくちゃね」
「わかった」と、ぼくはスーツケースから着替えを取り出し、手早く服を脱いで、バスルームに行った。シャワーを浴びて出てくると、洋子が電話をかけていた。
「あなたのリコメンデーションは?・・・え?どの料理でもいいことよ。地中海料理?それで結構。どこにあるの?・・・うんうん、M2Fね?わかった。それで予約は?要るの?要らないの?・・・そう、では1023号室のミス・シマズで予約してちょうだい。2名よ・・・OK?そうそう、それともう一点。ドレスコードは?・・・スマートカジュアルね?ありがとう。じゃあ」と言って受話器をおろした。どんな場所でも、洋子の手にかかると魔法の扉が開くのだ。
「このホテルの中2階のファイブスに行きましょう。5丁目55番地だからファイブスなんだって。トリプルファイブにすればいいじゃない?ねえ?」と彼女は言う「ドレスコードはスマートカジュアルだって。何を着るの?」
「そうだな、キャメルの黒のジャケット、チノパンツ、白のタートルネックのセーターにするよ」
「わかったわ。私も合わせましょう。じゃ、私、着替えてくる」と言って、立ち上がってドアの方に行った。ドアを開けて、振り返ると、「明彦、ホテルでキミと違う部屋にいるというのは違和感があるわね」と言って、ニヤッと笑ってウィンクして行ってしまった。
ファイブスで適当にコース料理を注文した。食事をしながら、ぼくは、胸にわだかまっている疑問を洋子に訊いた。「これは刑事事件なんだろう?誰に射殺されたんだろうか?通り魔の犯行なのか?」
「NYPDで、弾丸の検査をしているところなのだそうよ。登録された銃器から発射されたものなら、その銃器の持ち主を特定できる。この検査が済まないとハッキリしたことはわからない。射殺された状況は、刑事から聞いたのだけど、目撃者によると、彼女はタイムズスクエアのオープンカフェに座っていて撃たれたということ。どこから撃たれたのか?今調べている途中。でも、刑事がオフレコで言ったのは、弾道の角度からして、水平位置、つまり、地面から撃たれたようじゃない形跡があるらしい。もっと、高いところから、たとえば、ビルの上の方の階とか、屋上とか」
「ちょ、ちょっと待てよ、洋子。地面にいる人間から撃たれたのなら、通り魔などの犯行と疑えるけど、上方、ビルの中からとか屋上からというのは、待ち構えていないと撃てないだろ?計画的な犯行なのか?」
「明彦、先を急いじゃダメ。刑事もあくまでオフレコで、正式書類をモルグからもらっていないから断言できないが、検屍官が口頭でそういったということなの」
「う~ん、しかし、計画的だったとしたら、絵美はなぜそんなことに巻き込まれたんだろう?誰の犯行なんだろう?絵美は何をしていたんだ?」
絵美は何をこのニューヨークでしていたんだ?
ファイブスの食事を終えて、ぼくらはぼくの部屋に戻ってきた。
「ママには、何かあったら、連絡は私の部屋にしてと言ってあるの」と、洋子が言う。「だから、私は自分の部屋にいないといけない、そうなんだけど・・・」
「そうなんだけど?何?」
「あのさ、こういう状況下でさ、こういう提案はどうなのかな?と思うけどね・・・」
「言いにくそうだな?」
「言いにくいなあ・・・明彦、私の部屋に来ない?昼食まで時間があるじゃない?」
「ああ、そういうことか?そうだね。二人の方がよさそうだ」
「久しぶりでしょ?ちょっとは、その・・・あれよね?あれをさ・・・明彦と同じホテルで、別の部屋に寝るというのが、私には想像も出来なければ、実行も出来ないだけなのよ」
「いいよ、行こう」
「そんな簡単に言えるの?」
「絵美はそんなことでは怒りゃしないさ」
「そうかな?」
「絵美は、さっさと洋子の部屋に行きなさいと言うだろう。洋子が同じ立場でも、同じことを言うだろ?」
「なるほど。説得力はあるな?」
「自分から、私の部屋に来ない?と言い出したくせに?」
「私だって、気になるから・・・」
「さ、一人じゃ辛いしね、洋子の部屋に行こう。ウィスキーが1本あるしさ」
「私もブランディーがあるわ。レミーがある」
「絵美はブランディーが好きだったから、それを飲もう。追悼だ」
ぼくはジャケットとウィスキーを持って、洋子の腕を持った。「行こう、キミの部屋に」
洋子の部屋に行って、ぼくはさっさと服を脱いでアンダーパンツだけで、洋子のベッドに潜り込んだ。洋子がブランディーをドレッサーから持ってきて、グラスに注いだ。「ほら、これ」とグラスをぼくに押しつけた。「洋子もさっさと服脱いで」と、今度はベッドをぼくがバンバン叩いた「ここに潜り込めよ」
「わかった」と洋子は言って、服を脱いでいった。いつものように、服は床の上に散乱したまま。それで、ブラとショーツだけになって、洋子はグラスを持ってぼくの脇に潜り込んできた。
「そう言えば、明彦、シャワーしてないじゃない?」
「明日の朝浴びよう。夜中に浴びてもいい」
「ちょっと汗臭いわね?」
「うん、長いフライトだったからね」
「明彦の匂いがする」
「久しぶりだ」
「明彦?」
「どうした?」
「私もね、妹を亡くしたみたいな心境だわ」
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