薄明色の神衣

深山遊鳥

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 森を切り拓いて作られた集落は、山の頂に向かって東西に長く広がっていた。
 集落と言っても、集落の北東隅にある掘立柱塀に囲まれた寺院と、その半分ほどの規模の大きな屋敷が残っているだけで、他には目ぼしい建物は見当たらない、ほぼ廃集落だった。
 二人が歩いてきた道は寺と屋敷まで伸びているが、その他の敷地は雑草や低木に覆われている。
 集落内には、直径や一辺が二十メートル前後の墳墓が幾つも築造されている。
 それらの多くは葺石から雑草が伸びており、雑草や低木に覆われて小山のようになっているものもあった。
 使部と郎女は、寺院の南門の前で立ち止まった。
 寺域は約百メートル四方、飛鳥京にある法興寺や川原寺よりも小さい。
 そのため、これらの寺にしか親しみがない郎女は、初めはここを寺とは思えなかった。
 しかし、塀の向こうに見える三重塔の三層目の屋根と、その上にそそり立つ緑青色の相輪を見て、ようやく寺院と分かったのだった。
 塀の漆喰は汚れて黄ばみ、漆喰が剥がれて中の土が剥き出しになっているところもある。
 塀の屋根は瓦葺きではあるが、瓦の上の所々が苔むし、何枚か割れて下に落ちているものもあった。
 南辺の中央に位置する南門は三間一戸の八脚門で立派な構えであったが、柱や板扉などに塗られた丹は色褪せ、本来の木の色がむき出しになっている個所もあった。
 振り返ると、屋敷の方は塀が崩れて向こうの掘立柱建物まで見えている。
 建物も板葺きの屋根は抜け落ちて、到底人の住めるような場所ではなかった。
「あれぇ……人、おるんやろか」
 郎女は思わず呟いた。
 使部はドンドンと閉じられた板扉を叩き、
「おーい!誰かいないか!京から縫女を連れてきた!」
 と、大声で叫んだ。
 しかし反応はない。
 使部は何度もドンドンと叩き、中の者を呼んだ。
「なぜだ、なぜ来ない!間違っているはずは……」
 使部は顔に焦りの色を滲ませて手にした木簡を見、掲げられた寺額を見た。
 寺額だけが新しく、「禅林尼寺」と彫り込まれている。
「おい!おい!おい!」
 使部は焦りのあまり足を振り上げ、門扉を蹴ろうとしたその時。
「何用でしょうか?」
 今にも扉に当たりそうだった足を寸前で止め、思わずよろめく。
 門の向こうから、十代前半といった年頃の女童めのわらわの声が聞こえた。
「京から新しい縫女を連れてきた。お言いつけの文もある!」
 使部はそう言って、扉を木簡でカンカンと叩いた。
「承知いたしました」
 そう女童の声が聞こえると、扉の向こうは無音になった。
「あ、おい!吾を中に入れろ!おい童!」
 女童は行ってしまったのか、扉が開く気配はない。
「新しい?」
 郎女は僅かに首をかしげた。
 使部が苛々と足を踏み鳴らしながら待っていると、扉の向こうから、
「北の門にお回り下さい」
 と言う女童の声が聞こえた。
「おい!ここが正門だろうが。なぜ開けない!?吾は京から来た官人だぞ!」
 使部は怒鳴ったが、再び行ってしまったのか返事はない。
「あの童、後でぶん殴ってやる!」
 使部は吐き捨てるように言うと、郎女を置いて行ってしまった。
「あれぇ!」
 郎女も慌てて後を追う。
 二人は塀沿いに作られた小道を小走りで進む。
 小道の横には、寺を囲むように小さな畑が作られ、青菜が芽を出していた。
 二人がたどり着いた北の棟門は南門と打って変わって小さく、木材の痛みはより激しかった。
「裏門から入れだと!?ふざけるのも大概にしろ!この戯け共が」
 使部が毒づく。
 すると声に呼応したかのようにギイイ、と扉が内側に開いた。
「!」
 二人の前に、齢三十代頃の尼僧が女童を連れて立っていた。
 尼僧は剃髪をし、壊色えじき(茶褐色)の如法衣にょほうえ(僧侶の普段着である七条袈裟)を身につけている。
 女童の方は尼僧と違って髪を総角に結い、青碧色の衣と裙を身につけていた。
 尼僧は合掌して二人に向かって頭を下げる立拝をし、
「戯けはみましです。大門はあてなる御方のみがくぐれる門。この程度のことも知らぬとは、底が知れますね」
 と、使部の顔を真っ直ぐ見て静かに言った。
「何!?吾だって官人だぞ!公奴婢くぬひと一緒にするな!」
 使部はそう言って詰め寄ろうとしたその時。
 ドスッ!
「ぐわっ!」
「あれぇ!」
 後ろにいた郎女が頭を下げた時、載せていた荷を前に落としてしまい、使部にぶつけてしまった。
「なんなんだよ!」
 使部は、慌てて荷を拾い上げる郎女を睨みつけた。
「あっ、あの、あの。頭下げてくださった方には、ありがとうて頭下げた方がええと思います!それに怒り顔より、笑い顔の方が、ええし……」
 郎女は思わず口にしてしまったが、話すうちになぜこんなことを言うのか、と己の行動に呆れて結局口ごもってしまった。
「なんだぁ、女丁が吾に口答えする気か!?」
「素晴らしい。その通りです!」
 尼僧が微笑んで言った。
「はぁあ!?どこが!」
「御仏も同じことを申されております。穏やかな顔、優しい言葉で人と交わることができるのは、慈悲の心を持つ証」
「な!……此奴が?」
 尼僧は郎女に向かって再び立拝した。
「あれぇ!」
「みましの言葉を聞いて、己の中に慢侮の念があることに気づきました。愚僧は都維那ついなとして比丘尼達を管する務めがあるために、その立場に甘えてつい厳しい言葉を……みましはよくご存じでしたね。どうしてその悟りに至ったのですか?」
「吾ぁは、ちゃうんです。これは吾ぁではなく、いろとが教えてくれたことで」
「まぁ、みましの弟!比丘なのですか?」
「いえ、田人たひと陶人すえひとです」
「おぉ!それは!……弟を持つみましなら、もしかしたら上手くいくかもしれません」
「へ?」
「……みましにも心憂い思いをさせてしまいましたね」
 尼僧は使部にも立拝をした。
「う!……わ、分かって、もらえれば、それで……」
 使部は今までの強い勢いとは違い、戸惑うように顔を赤くした。
「愚僧はこの寺で都維那の職に任じられております、善興尼と申します」
「吾は物部依羅連豊名もののべのよさみのむらじとよな
「……みましは?」
「わ、吾は八木、と申します」
「木簡を」
 善興尼は使部から木簡を受け取ると、書かれていた文面を見た。
「……依羅様は判事様からお聞きかと思いますが、ここで強い怒りや悲しみを見せることはなりません。白銅鏡まそかがみの如き平らけき心でもってお過ごしください。八木刀自は女童が房(部屋)へ案内します。依羅様はこちらへ」
「あ、吾ぁは、まだ家刀自(主婦)ではのうて……」
「そうでしたか。礼を失してしまいました。どうかお許しください」
「あ!いや、その、ありがとうございます」
「こちらへどうぞ」
 南門で聞こえた声と同じ声で、女童が郎女を手招きした。
 ――大足おとって偉い子ぉなんやわ。
 女童の後をついていきながら、郎女は改めて弟の賢さに感心した。
 
 郎女が寺の中に足を踏み入れたのは、これが初めてのことだった。
 頭に載せた荷を落とさない様に気をつけつつ、きょろきょろと辺りを見回す。
 境内中央の西側に三重塔と、東側にある桁行五間(約十五メートル)・梁行四間(約十二メートル)の金堂が建っている。
 南に中門を持つ回廊が堂塔を囲み、その北側に桁行八間(約二十四メートル)・梁行四間(約十二メートル)の講堂が、そして講堂と回廊の間に経蔵と鐘楼がある。
 現代で言う法隆寺式伽藍配置だった。
 回廊の外側にも建物が何棟も建てられている。
 堂塔は基壇の上に建つ立派な礎石建築であるが、こちらは京の建物と変わらない掘立柱建物だ。
 建物群のうち回廊の左右に、南北に長い長舎が一棟ずつ建てられていた。
 これが尼僧や沙弥尼しゃみに(正式な尼僧となっていない少女)達が起居する僧房だった。
 堂塔も僧房も南門や塀と同じく傷みが目立つ。
「あれぇ……」
 見える建物が何なのかを知らない郎女でも、この寺が古いものであることはすぐに理解できた。
 しかし、境内のあちらこちらから草木が伸び放題であること、工人でなくとも修理できそうな箇所もそのままであることが気になった。
 僧房は桁行八間(約二十四メートル)・梁行四間(約十二メートル)で、一間おきに両開きの板戸が取り付けられている。
 女童は西側にある僧房の一番手前、最も北側になる房の前で立ち止まると、戸を引き開けた。
「どうぞ」
 女童はそう言うと、それ以上何も言わずに講堂の方へ行ってしまった。
「どうもぉ」
 郎女は頭から荷を下ろして抱えると、女童に向かって頭を下げた。
 房の中に一歩足を踏み入れる。
「!!」
 郎女はいつもの口癖を辛うじて飲み込んだ。
 思わず外に出る。
「待って、何やの。今……」
 郎女は荷をしっかり抱きしめて、恐る恐るもう一度足を踏み入れた。
 ひどい悪臭がする。
 糞便と腐臭が混じりあった不快な臭気。
 目を凝らす。
 房の中は暗く、開けた戸から差す日の光の部分だけが中を照らしている。
 中は三間(約九メートル)で、開けた戸の向かい側の壁にも同じ戸が取り付けられているが、そちらは閉められていた。
 床は土間で、日の光の差し込まない暗闇の方に筵が敷かれている。
 郎女は暗闇の方を見た。
「……」
 微かに音がする。
「……して……って……」
「あれぇ!」
 郎女はその場に荷と提瓶を置くと、慌てて向かい側の戸も押し開けた。
 ひゅっと風が吹き込む。
 房の中もいくらか明るくなり、全体を見ることができるようになった。
 郎女は暗闇だった部屋の隅へ行き、筵の上に座った。
 壁際に、掛布団のように筵がかけられた人が一人、横たわっていた。
 結われていない髪は抜けてまばらとなり、青白い肌の体はやせ細って、骨に皮が直接へばりついているように見える。
 枕元には黒い大きなシミができており、黒い乾いた塊も混じっている。
 傍には木桶が置かれているが、起き上がってそこへ吐くだけの体力はないようだった。
「……」
 死人同然の姿ながら、その口だけはずっと動き続けていた。
 郎女は病者の口元に耳を近づけた。
「……だして、帰して……」
「いましは、船刀自ふねのとじですか?」
 郎女が話しかけると、閉じられていた病者の目がかっと見開いた。
 澱んだ目から涙が溢れ出す。
「吾ぁのこと、覚えてはります?八木です」
 郎女は大きな声を出して言った。
 船刀自と呼ばれた病者は声のする方へカクカクと首を動かした。
「無理しやんで!今、水か何かもろうて来ます。あと、体拭いて筵も……」
 船刀自は郎女の方へ震えながらゆっくり手を伸ばすと、
「帰して……古里へ」
 と、掠れた小声で言った。
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