薄明色の神衣

深山遊鳥

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 船刀自は郎女よりも二歳年上、先達の縫女だった。
 年が近いので仲良くなれるかも、と期待した時期もあった。
 しかし、彼女は郎女と違い仕事が手早く、三年の期限を超えていつか縫部として働くのではないか、と言われるほど頼りにされる存在だった。
 ハキハキと物を言い、どちらかというと気が強い性格で、もたつきすぐに言い淀む郎女を疎ましく思っていたのだろうか。
 竹尺で叩くようなことまではしなかったが、手が遅い、もっと早くしろ、と縫部や他の先達の縫女達と一緒になってよく郎女を責め立てたものだった。
 そのため親しく話したこともなかったが、ひと月ほど前にいなくなってしまった。
 特に理由を聞かなかったのは、縫女の出入りが多く、誰かがいなくなるのは当たり前のことだったからだ。
 郎女よりも肥えている程に健やかな体つきだったはずだが、たったひと月で死の床に就くことになるとは。
 ――古里は知らない。
「帰りたいのですか?」
 郎女は船刀自の手を握って訊いた。
「……」
 その干乾びた体のどこにあったのかと思うほど、涙がとめどなく溢れている。
 弱々しくであるが、手が握り返された。
 ――帰りたい。
「吾ぁもそう思います」
 郎女は呟いた。
 ここで一人死ぬのは嫌だ。
 真っ暗な房の中で、誰にも看取られず死ぬのは嫌だ。
 古里へ帰りたい。
 己も、死ぬ時は父や弟に看取られたい。
 もしくはあの――
 下道圀勝の顔が浮かんだ。
「行きましょう!」
 郎女は気合を入れるかのように強い口調で言うと、船刀自の手をしっかり握った。
「!」
 船刀自が口を動かした。
 郎女は耳を口元に寄せる。
「この……山の……向こう。二上ふたかみの……丹比たじひ
「分かりました。河内国やね」
 郎女は微かな声を聞き取ると、そう返事をした。
 船刀自は黙って目を細める。
 郎女は立ち上がって衣の袖をまくり、裙の裾をたくし上げた。
 筵をめくり、黒いシミがべっとりとついた麻の衣を厭うことなく船刀自を背負う。
 そして、房の外に出て案内された道を戻っていくと、北の裏門から寺の外へ飛び出した。
 郎女は二上という地がどこにあるのか、丹比という里がどこにあるのかもわからない。
 しかし、河内国がこの葛城の山々の向こう、西にあるとても広い野の国であることは知っていた。
 郎女が裏門を出ると、北へ森の中に入っていく小道が見えた。
 郎女は左に曲がって、塀沿いの小道を山の頂が見える西へと進む。
 しかし、寺の北面の塀が終わると、これ以上西へ向かう道はなかった。
 郎女は周りを見回すが、西へ行く道らしき道は見当たらない。
 郎女は踵を返し、裏門で見た小道を行くことにした。

 郎女は森の中の小道を走ってすぐに、三叉路に突き当たった。
 迷わず角を曲がって細い坂道を西へ走ると、再び三叉路が見えた。
 南北の道は今までの道よりも平坦で、人が二人並んで歩ける程の広さがある。
 どちらの道に行くと西へ行く道があるのか、と北の道を見た時。
「!!……なに……何やの!?」
 郎女はギョッとして思わずのけぞった。
 北の方角に寺があった。
 郎女のいる道から伽藍の様子は見えないが、飛び出してきた寺と同じように丹の朱色が色褪せはじめた五重塔が一基、森の木々から頭を出している。
 郎女は、何とも言えないおどろおどろしい、どす黒い煙のようなものが五重塔の下の方から噴き上がっているように見えた。
 ここに寺があることは大津道を歩いているときに見えていたので知っていたが、こんな煙は見えただろうか?
 見るだけでなんとも息苦しく、体がだるくなるような――
「……あけへん!」
 郎女は頭を左右に振った。
 背負った船刀自の息は微かで、今にも命が終わりそうだ。
 あんな所に近づいたら、船刀自の死を早めてしまうのではないか。
 南を見やったが、そちらの方は煙が噴き出すような場所は見当たらない。
 郎女は船刀自を背負い直すと、
「あっちへ行くのは嫌や……遠回りかもしれんけど、許してください!」
 と、逃げるように南に向かって走り出した。
「あった!」
 走って五分もしないうちに、山へ向かう道との四ツ辻にやってきた。
 今度は迷わず右へ曲がり、同じような道幅の坂道を上り始めた。
 坂の傾斜は徐々に急になり、速く走ることが難しくなっていく。
 息を切らしながら坂道を駆け上って十分程した時。
 森の木々の向こうに、眩しい光が差し込んでいるのが見えた。
 よく見ると、道の右側、斜面の上の木々が切り拓かれ、小さな墳墓が作られていた。
 墳墓は、集落跡にあった墳墓よりもずっと小さい一辺が十メートルもない方墳で、墳丘は貼石で覆われている。
 墳墓の周りは草が綺麗に刈られ、頻繁に手入れをされているのがよく分かった。
「あれぇ!」
 郎女は思わず声を上げ、顔をしかめた。
 貼石が日の光に照らされて輝く墳墓を覆い隠すように、先ほどの寺と同じ煙のようなものが漂っている。
 近寄りたくはなかったが、墳墓はこの道のすぐ横に築造されている。
 ここを通らなければ先へ進めない。
「大事ありませんか!?」
 郎女はそう声をかけ、肩越しに船刀自を見た。
 しかし、船刀自は自ら郎女にしがみつく力はもうないらしく、ぐったりと背中にもたれている。
 せめて吐く息が郎女の体のどこかに掛かってくれると生死がわかるのだが――
「……あけへん!」
 郎女は再び頭を左右に振った。
 こうしているうちに命が尽きてしまうのではないか。
 墳墓を観察すると、煙のようなものは寺で見た時よりもずっと薄く、不快感もほとんどない。
「行くしかっ!」
 郎女は大きく息を吸ってから息を止めると、船刀自が落ちないよう背を屈めて全速力で墳墓の横を駆け抜けた。

 郎女は無事墳墓を過ぎた後も坂道を上り続ける。
 墳墓を過ぎて道が小川に沿うようになったあたりから、道が細く坂も急になり始めた。
 森は深く、道も均されていない本格的な山道だ。
 ただ、足元には枯葉が残るものの、折れた木の枝や幹が道を塞ぐような、歩くには不便というほどの障害物はなかった。
 郎女は走って十分程で息が切れ、立ち止まった。
 前屈みという苦しい姿勢で息を整える。
 鳥達の囀りに交じって、遠くでキーキーと獣が鳴く声が響く。
ましらでもおるんやろか」
 郎女は小川の向こうに見える森の中を覗こうとした。
 しかし、葛城の山には獣よりも恐ろしい――
「……山にはなぁ、獣よりも恐ろしいモンが居るさかい……」
 悲しげな顔でそう言った祖父を思い出した。
「せやった!見たらあかんのやった」
 郎女は慌てて目を逸らす。
 郎女は額に滲んだ汗を拭い、歩き出した。
 道幅はどんどん狭くなり、とうとう一人が歩くのがやっとの細さになった。
 背に大きな切石を背負った運脚が三人降りてきた。
 運脚達は黙ってじろじろと郎女を見る。
「あっ!あれぇ、ええと……」
 郎女はどう避けようかとおろおろする。
 しかし、運脚達は動揺することなく崖に落ちないように郎女を避け、山道を降りていった。
「あっ、ありがとうございますっ!」
 郎女は振り返って礼を言う。
「……せや。初めからそうすれば良かった」
 郎女はそう呟くと、船刀自をそうっと地面に下ろし、道沿いの削られた斜面にもたれさせようとした。
 運脚達が切り石を縄で縛っているように、船刀自と己を帯で縛れば両手が空くと思ったのだ。
「ああっ!」
 しかし、地面に下ろされた船刀自は斜面にもたれることなく、ぐったりと坂の下に向かって倒れこんでしまった。
「船刀自!」
「……」
 声を掛けるが返事はない。
 僧房では心配になるほど流れていた涙も今は止まり、虚ろな瞳はどこを見ているのか、郎女にはわからなかった。
「あぁ、あけへん、あけへん!河内国はまだですっ!あと少し、もう少しやから!」
 郎女は慌てて締めていた帯を解くと、船刀自を背負い、赤子を背負う時のように帯をたすき掛けで縛った。
「はよ、早う!」
 郎女はまた走りだした。
 小川から溢れた水が道を濡らし、道に頭を出した岩の上に足を置いて滑りそうになる。
 郎女は、慎重に歩いて小川を超え、ますます急になったつづら折りの山道を登っていった。
 転げ落ちないよう、時に両手でその場にあった草木や崖の土をつかむ。
 最後に壁のような急登を登り切った時。
 視界が明るくなり、ようやく山の峠にたどり着いたのだった。
 郎女は嬉しそうに道を駆け下りると、木々の間から河内平野が見える場所を探し出した。
「あぁっ、河内国!河内国ですよ!」
 船刀自を揺すって平野を指さす。
 河内平野を流れる川と水で満たされた田圃が、日の光を受けて金色に輝いていた。
「へぇーっ、こんな風に見えるんやねぇ!」
「!?」
 郎女の後ろから声がした。
「山超えた時は振り帰らんと来たから知らんかったわ!あそこ、丹治の里やない?ちゃう!?いやぁ、高いトコから河内を見たんは初めてやから、どれがそうやらわからんわ!あははっ!」
 若い女が、軽やかに郎女を追い抜いていった。
 郎女よりもふくよかで肌は日に焼け、髪は赤茶けている。
 しかし、宮人のように髪を高く結い上げ、紅の衣と緑の裙を身に纏っていた。
「あの子は言うこと聞いて、健やかにしとるやろか?あの人はまだ、吾ぁのことを覚えとるやろか?父は?母(おも)は!?皆、吾ぁのこと忘れてないやろねぇ!」
「船刀自……」
「帰ってきたよ!あぁ、やっと!やっと!!」
 郎女はその場にがっくりと膝をついた。
 走っていく船刀自の体は、山道に降り注ぐ光の中に溶けるかのようにして消えていった。
「あぁ。行って、しもうた……」
 郎女はしばらく船刀自が消えた先を見つめていた。
 ようやく立ち上がって山道を外れ、森の中に入ろうと足を一歩踏み入れる。
「獣よりも恐ろしい……」
「!?」
 祖父の声が聞こえたような気がして足を止めた。
 森の中を凝視する。
 しかし、黒い煙のような恐ろしい何かは見えなかった。
 郎女は意を決して森の中に入り、笹をかき分けて山道から離れるように道なき道を進んだ。
 そして、木々の間から河内の平野が見える緩やかな斜面に船刀自の遺骸を下ろした。
 斜面に背をもたれさせて、なるべく平野が見えるように姿勢を整える。
「吾ぁも、いましと同じことになったら、帰りたいです。古里へ」
 郎女は船刀自の遺骸に語りかける。
「けど……御霊だけで帰るんは、嫌です」
 郎女は古里の父と弟、そして下道圀勝の顔を思い浮かべだ。
 できるなら、血と肉を持ったまま帰りたい。
 そして、愛しい人達を抱きしめたい。
 郎女は船刀自の遺骸に頭を下げると、もと来た道を戻っていった。
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