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プロローグ又は共通ルート

追憶(リズ視点)

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 泣き疲れて、魂だけのはずの体が酷く重くて、私は眠りについた。おやすみ、良い夢をと言って私の頭をゆっくりと撫ぜたマリちゃんの手の温度が泣きたくなるほど温かくて、誰かの温度を思い出した。

 それは母のものだった。
 私の母は長い金の髪をした美しい人で、父は彼女を惚れさせるために想像もつかない努力をしたのだ、とよく冗談めかして語られたのを覚えている。
 あれはいつのことだったか。恐らく四歳かそこら、少なくともあの憎らしい神託を受けるよりも前だったのは確かである。だって、二人の態度は神託のその時に一変したのだから。

 私は幼い頃、たぶん世界で一番幸せな子どもだった。母の膝に乗り頭を撫でられながら、隣に座る父に、まるで冒険譚を聞くような気持ちでその日の出来事の話をせがんだ。父は苦笑しながらも、彼の言うところの“小さなお姫様”を楽しませるため工夫を重ねながら毎日話をした。
 その時間は愛と光で満ちた幸福な一日の終わりとして、いつも幼い私の側にあった。それはただの日常で、習慣化した幸せではあったけれど、それこそ素晴らしいものだということを私は知っている。

 神託の日の前日も、そうしたのだ。ただいつもと違って、いくらか明日の特別なイベントについての話はしたが。

「明日はリズの誕生日ね、いよいよリズも魔法を使えるようになる」

「リズの属性はなんだろうな、俺と同じ風だと嬉しいけど」

「それなら私だって光がいいわ」

「二属性持ちはそこそこいるから、両方持っていることもあるかもな」

「わたしもそれがいい! おとうさんとおかあさんといっしょ!」

 私が舌足らずな声でそう言えば、父と母は相好を崩して私を抱きしめた。懐かしい。その次の日が来なければよかったのにな。

 私が今何を思っても過去の時は過ぎ去り、やがて神託が訪れた。

「_____」

 神託を聞く人々の嫌な笑い。どよめき。隣の人と肩を叩き合って、ひそひそと何か話してはこちらを見る、その冷たい目。目。目。

 怖くなって視線を逸らした先、父と母は気味の悪いものを見るような目で私を見ていた。



 ああ、どうか私を見ないで。そんな、冷たい目で。



 その後のことはよく覚えていない。ただいつしか私は定期的に誰かに連れ出されては殴られるようになっていた。なんであの地下室で殴らないのか、その答えは簡単だ。血や吐瀉物の匂いは臭い。両親はそれに耐えられなかった。それだけの話だった。

 罵声が聞こえる。私はそれまで大きな声など聞いたことが無かった。父も母も、いつも落ち着いた、優しく低い声しか出さなかった。こんな、こんなひび割れた甲高い大声など出す人では無かった。きっとこの人たちは別人なんだ。違う人なんだ。違う、違う人__

 そう信じ込むには少しだけ、その女の髪の色は私に良く似過ぎていた。

 ある日、本を拾った。爪が痛みに耐えるため地面を引っ掻いた時に、何か硬いものに触れたのだ。うずくまったままスカートの裾にこっそりと隠せば、それは見咎められることはなかった。

 呆然とタイトルをなぞる。五歳までの間に文字はすでに読めるようになっていた。

「0か、ら、始める、魔術入門……」

 私はそれに縋った。本を初めから最後まで読みこむ。表紙通りの魔術入門から、目次通りの禁術まで全て揃ったそれは、私に必要な全ての魔術を授けてくれた。

 私はまず初めに自分の記憶を操作し、偽の記憶を植え付けようとした。

 あの女の髪が私に似ているなら、愛し愛された両親の記憶など忘れて仕舞えば良い。そうしたらこの先いくら殴られようが何をされようが、あのいつかの日々を思い出して愛に苦しむこともない。
 私の親は冷たい人間で、私を一度も愛したことなどなく、私は彼らが大嫌いである。
 私は自分の頭を目掛け魔法を発し__その直前で打ち消してしまった。

「……どうして?」

 どうして。どうしてどうしてどうして何故なんでどうして! 私は何度も何度も魔法を掛け、そして自らの手でそれを打ち消した。
 ああ。私は気付いた。愛が私を縛っている。あの両親を、ただ冷酷なものに出来ないのだ、私は。
 本当に、馬鹿みたいだ。

 私は仕方がないので、代わりに記憶を消すだけに留めた。おかげで今でも、起きている間私は五歳以前の記憶を取り戻すことは出来ない。それでいいのだ。それでいい。

 記憶の消えた私は純粋に全ての人間を恨み、脱出を願い、そして全て燃やし尽くそうとした。ただ良心が勝ったのか罪に怯えたのか、実行することはなかった。そして次善策として、異界の魂を呼び出した。そう、マリちゃんだ。

 初めて会って、混乱の最中だろうに私を抱きしめてくれた。私の全てを肯定してくれた。一番の味方だと、目的を手伝うと、私のため生きると言ってくれた。愛してくれた。記憶の消えた私に、それはどれだけの劇薬として映っただろう。

 私はきっと、マリちゃんが居なければ生きられない。知っている。いつか彼女が帰ることを、私は未だ直視出来ない。
 ああ、ただ、今は、今だけは私の側に__




「おはようございます、リズ」

 マリちゃんの声に、私は目を覚ます。夢を見ていた気がする。でも、どんな夢だったかは思い出せなかった。
 どうでもいい。マリちゃんの前では些細なことだ。
 私はとびきりの笑顔で言った。

「おはよう、マリちゃん!」

 それは紛れもなく幸福な一日の始まりだった。
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