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一回だけじゃん!
しおりを挟む鳴り響くアラーム音で夢から覚めた。
何百回と聞いた「DONBURI KANJYO」の「カラビナ」のシャウトが脳みそを揺らす。
――うう、くそ。
「カラビナ」は俺の一番好きな曲だが、四枚出したインディーズのサードシングルで、あまり売れなかった。そのせいか、ライブでもあまりやってくれない。
千秋楽のホール、アンコールでかかったと聞いたときは心底へこんだ。
仮納品にクレームさえ付かなければ、ギリギリ行けたのに。
――チケ代、マジで損した。
呻きながら、ヘッドボードのスマートフォンに手を伸ばして。
「――って!」
ゴンッ、と拳をぶつけて、ガバッ、と起きた。
「……どこだここ」
どこかのホテルというのはわかる。
だが、泊まった記憶がまるでない。
昨日はプロジェクトの打ちあげでもりあがった。
一軒目の肉バルで十時に解散して、萌の部屋に行く前に、ちょこっとだけまだ勝利の美酒というか余韻に浸りたくて目についたバーに入った。
だって、萌はアルコールが駄目だから、一緒にハイボールで乾杯もできない。
一杯だけのつもりで頼んで、予想外の美味しさにもう一杯頼んだ。
その時点でやめとけばよかった。というのは、今さらだ。
バーに入った時点で酔っていたし、萌のところで寿司を食べるつもりで肉バルでは控えめにしていたから、アルコールが回るのも早かった。
三杯目を頼んだところで、ヒールの音が近付いてきて、ふわっと甘い香水の匂いが――。
「……うわ……」
たぶん、ヤッた。
うん、ヤッた。
コーラルピンクのオフショルダーニットに黒のペンシルスカートの女。
顔は……思いだせない。
胸は萌より小さかった。
肌も萌よりざらついていた。
たいした女じゃなかった気がする。
「……あるんだ……こんなこと……マジで」
最悪だ。
鳴りひびくアラームの中、ベッドの端に投げだされていたスーツの上着を引きよせ、内ポケットを確かめた。
「……ある」
大事な品が盗まれていなかったことにホッとしながら、ベッドを下りた。
「……病気とか……ないよな?」
コンドームは使った。それは確かなはずだ。
女が俺のモノを握りながら、コンドームのパッケージの端を噛んで、ピッと破いたシーンがエロくて、そこだけ記憶に残っている。
それでも、今日の内に性病検査は行っておいた方がいいだろう。萌のためにも。
「……あぁもう、マジでサイアクだわ」
ぐるりと見渡して、窓辺のテーブルへと近付く。
途中に転がっていたカバンを拾い、財布やら何やらを確かめてから、テーブルに置かれたスマートフォンを手に取った。
くるりと表に返し、タップして、通知の数に顔をしかめる。
ほとんど萌からの着信とメッセージだ。
きっと心配してかけてきたのだろう。
何となく後ろめたくて、画面の上で指を浮かせてタップをためらっていると、不意に着信画面に切りかわった。
「っ、……あ」
思わず出てしまった。
最悪なことに萌からだ。
「……もしもし」
とりあえず耳に当ててみる。
「おはよう」と聞こえた萌の声は、いつもより硬い。
――え? 怒ってる?
まさか――ドキリとして、すぐに思いなおす。
浮気がバレたわけではないだろう。
怒っているとしたら、寿司を用意させたのに来なかったことだ。
――どうしよう。
迷ったのは一瞬。
――いわなきゃ、ばれないよな。どうせ、ほとんど覚えてないし。
抱いた記憶がなければ、ないのと一緒だ。
「……あー、ごめん。昨日、何か盛り上がっちゃって、二軒目いって飲みすぎちゃって、そのままホテルに泊まっちゃった。まっててくれたのに、マジでゴメン」
謝る声に答えはない。いつもの彼女なら「ううん、気にしないで」とすぐに言ってくれるはずなのに。
「あー、その……寿司、駄目になっちゃったよな。……せっかく待っててくれたのに、萌の気持ち、無駄にするようなことしてゴメン」
まだ萌は黙っている。
――なんだよ。すねてんのか。萌らしくもない。
ほんの少しの苛立ちを感じたときだった。
「え?」
電話の向こうで、萌が呟いたのはSNSアプリの名前だった。
「……ツイブック? わかった。今、ひらく」
スピーカーオンにして、SNSアプリを起動する。
「開いた。……昨日投稿した打ち上げの写真? うん、開いた。うわ、俺、すごい顔真っ赤じゃん。はは――え? 何? イイネ?」
言われてイイネをつけてくれたアカウント一覧を開く。
「とちあやめ@恋活中? うん、いる。……うん、開いた。……画像? 夜景の? うん、開いた。これが――」
何?――とは聞けなかった。
ちらりと窓を見れば、わかった。窓辺のテーブル。見える夜景。何より、そこに写りこんでいるスマートフォンに見覚えがありすぎる。
「……どうして?」
静かな問いに答えに詰まる。
「答えないってことは、したんだね、浮気」
ぽつりと言われて、ハッとなる。
なぜすぐに否定しなかったのか。黙りこんでは認めたのも同然だ。
「……正直、覚えてない」
嘘をつくのも嫌で、そう答えると今度は萌が黙りこんだ。
「……萌」
ひそやかな息遣いが聞こえる。何かを抑えこもうとしているような。
怒鳴ろうとしているのか、泣こうとしているのか。どちらも聞きたくなくて口を開いた。
「萌、聞いてくれ! 昨日は浮かれてて、酔ってどうかしてた。マジで覚えてないんだよ。どんな女かも覚えてない。……そりゃ、寝たのは、確かだけど……でも……でも、萌の方がずっとよかったし!」
そう口にした瞬間、萌が息をのむのがわかった。
「……萌?」
息遣いが変わる。電波の向こう、静かに萌は泣いていた。
「あ……ごめん……俺……」
「……もういい」
――もういい? 何が? 何がもういいんだよ?
ジワリと手のひらに汗がにじむ。
「いや、よくないって! ちゃんと説明する! 今から会いにいくから!」
「会いたくない!」
悲鳴のような萌の言葉に今度は俺が息をのむ。
「……会いたくないって……まってよ……まさか、別れようとか、そんなこと言わないよな……?」
聞いても萌は答えない。
「嫌だ! そんなの、絶対嫌だ! 二度としないって!」
「そんなのあたりまえでしょう!」
「っ、そりゃ、そうだけど……だけど! こんなのただの事故だって!」
「事故? 何が事故なの? 事故は一瞬でしょ! しっかりエッチしておいて何が事故なのよ! もう別れる!」
萌の叫びに頭が真っ白になる。
――なんで? 謝ってるじゃん。なんでだよ。
何だか俺まで泣けてきて、叫び返した。
「一回だけじゃん! 今年五年目だよ、俺たち! これで終わりとか、ありえなくない!? なぁ、萌、俺たちそんな薄っぺらい関係だったのか!?」
必死に言いつのった。
「俺、なんでもするから! 別れるなんて、そんなヒドイこと言うなよ!」
叫んで、それから、沈黙が落ちた。
ドクドクと耳の奥で脈がうるさい。
祈るような気持ちで萌の言葉をまって。
「……今日一日、考えさせて。今は、ちょっとわけわかんなくなってるから」
「萌、俺、本当に――」
「拓海のこと好きだから、今、すごく混乱してるの。時間をちょうだい」
「萌……わかった」
好きだった、と過去形になっていないことに希望を託して、俺は答えた。
「……明日、連絡、まってる」
「うん。……プロジェクト、おめでとう。おつかれさま。……じゃあ、明日ね」
「……ありがとう」
電話をきって、深々と溜め息をつく。
――どうして、こうなったんだよ。
今日はきっと、人生で一番長く感じる日になりそうだ。
ごん、と窓ガラスに額をつけて、俺は、またひとつ溜め息をついた。
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