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Prologue
ユーマ 星釣の記憶 3
しおりを挟む顔色が悪くなった彼と二人、広いけれど本しか無い僕の部屋で向かい合っていた。
僕は膝を抱えて、彼を見ている事しか出来なかった。彼も僕を見つめていて、この時の僕は『死ぬ』という事がどういう事なのか理解できておらず。彼はまだ眼を開いて僕を見つめているから、これから何が起こるのかを理解していなかった。
―――死ぬ訳には―――
過去の記憶を覗きこんでいるだけなのに、僕には何故か、その時は分からなかった青年の感情が伝わって来た。
まるで自分の記憶では無く。誰かが見ていた僕の生活を見ているかの様だ。
―――この子の前で―――
青年の想いが流れ込んでくる。優しさに満ちた想いが、僕の胸を満たしてくれる。
だけど、僕はこの先の未来を知っている。だからその優しさが、全て悲しく思えてしまうんだ。
彼は自分の足の付け根に手を置いて、何とか血を止めようとしているけれど決して止まる事は無い、そして僕は、何をすればいいのか、誰かを頼るという選択肢すら持たない僕はただ見ている事しか出来なかった。
治療する方法だけなら本で読んだ事があった。だけど、そういった本には知識がある人間が行わなければ逆効果になる部分で止血が取り扱われていて、僕は動き出す事が出来なかった。何より、綺麗な布なんて物はこの部屋には無い、傷口に触れさせれば悪化してしまう様なボロ布しか無かったんだ。
「お兄さん、大丈夫ですか?」
この質問を今の僕が聞いて、自分自身に怒りを覚えてしまったのは筋違いなのだろうか。だとしても、自分で思ってしまう。なんて無知なんだろうか僕は…。
答える事さえ搾りだす様に、残り少ない命を削り口を開いて答えてくれた。
「あぁ…大丈夫だ…だから、君は眠るんだ」
青年の優しさは聞いていて苦しい物だった。死ぬ訳にはいかないと思いながらも、それが叶わない事だと理解しているから、僕に眠れと告げてくれた。
「いいえ、眠く無いから大丈夫です…兄様がごめんなさい、貴方が死んでしまうなんて事を言って…」
なのに、幼い僕は、無知な僕は、その優しさに気付かづに会話を続けようとした。
謝罪はあれどもそれは自分の行為に関する事じゃ無い、それもそうだろう。僕は自分が青年を苦しめている自覚など無いのだから。
―――駄目なんだ―――
だから、青年は悲しむ。
悲しみながらも顔には出さず。呻きそうになる自分の喉に手をやって、漏れ出そうになる咳まで抑えた。
喉が渇いたのかなと疑問を抱いていた僕が恥ずかしい、死を知らなかったんだ。
人が死ぬという事が、あまりにも非現実的な事に思えて信じられずにいた。その時は刻一刻と迫っているのに、青年はその素振りを一切見せず。僕もその様子から何も察する事が出来ない。
隠す者と隠される者、だけどその両者に罪は無く。あるのは互いに思う心だけ―――
―――だからこそ、この空間は残酷だ。
そうファーリエルさんは言っていた。この記憶を、砕いて、粉々にして封じる前に。
きっとこの視点は、ファーリエルさんの視点なのだろう。僕が死ぬ前から、一緒に居てくれたんだ。そう思うと嬉しいけれど、何も出来ない、恩も返せない彼女の存在が悲しく思えてしまった。
僕はそこから始める。自分が読んだ本の物語を、最初は相槌を返してくれていた青年が、段々と段々と静かになって行くのにも気付かずに…。
青年の言葉は小さな返事になっていき、その口数さえも失われて頷くだけの動作に、その頷く事も無くなり、固く閉じて何かを耐えていた拳まで、解される様に開かれていった。既に青年の周りは血溜が出来ていて、助かる筈が無い事は分かっていた。
だけど僕は、気を良くして喋っているんだ。
大好きな青年が死んでしまったのに、その事実に気付かずに話し続けている。笑顔で、何処までも嬉しそうに、そしてそれを扉を僅かに開けて兄様は見ていたんだ。見ながら笑っていたんだ。
――――――
何も聞こえなくなった青年の心の声を上塗りするみたいに、兄様の黒い、真っ黒な感情が伝わり始める。
―――何処までも愚か―――
兄様は知っているから、僕のこれまでを…。
青年は何も言わない、動かない、動けない、動く筈が無いのだから。
―――何処までも見下される為の存在だ―――
兄様は何処までも高みに居る。
青年は呼吸もしない、何故なら彼はその時既に、命を散らせてしまっているから。
その事に、僕はようやく気付いたんだ。
動かないという事が、何を意味するのか。
彼の下に痛む身体を抑えて這って進み、手を添える。
―――あぁ、揺すってどうしたんだ?―――
青年の身体を揺すって、揺すって、何故か目覚め無くて、本の一文を静かに思いだしたんだ。
『死とは、静寂である』
寂しさと共に、実感したんだ。
『死とは、別れである』
兄様は嘘なんて吐いていなかった事が分かった。
その時だけ、生前の僕の人生でその時だけ、僕は明確な悲しみを覚えたんだ。
涙が頬を伝い、段ボールの上に落ちた。滲み、消えていく。
触れた青年は冷たくて、本の中での知識を活用して手首に手を添えて脈を測ってみようとしたり、肉と骨を隔てて心臓の音を聞いてみようと耳を当ててみたり、全てが止まった彼の身体に意味が在ったのかは分からないけれど、僕はその時、彼が死んだと理解した。
『悠馬、そいつはな…お前の所為で死んだんだ』
―――お前の所為だ―――
その時の僕は耳に、この光景を見ている今の僕には耳と心の両方に聞こえてくる兄様の声が、悲しさを、この時の僕に幸せが欠片も無い事を理解させる。
悪意の塊が、僕を殴り付ける。
『なぁ、どうだ悠馬、人を一人殺した感想は』
―――お前は要らない―――
部屋に入り、床を歩きながら兄様は青年の頭部に腰を降ろして、僕を見下した。両手を床に着いて、何も出来なかった事の無力さと、気付く事が出来なかった無知な自分を恥じていた。
『ソレがお前だ悠馬、お前は、誰も助けることなんて出来ないんだよ』
一瞬、最後の一瞬だけ、兄様が当時の僕では無く。この様子を見守る今の僕を見た気がした。
有り得るハズが無い、きっと自分の勘違いだ。
そんな、死んでしまった僕にまで関わって来る筈は無いんだから。
だけど、この光景と、その時の後悔と、青年を自分が死なせてしまったという認識が襲い掛かり、僕は―――。
僕は、人という生物が怖くなってしまった。
悪意を持つ人が、人を殺して平然としていられる人が、人という形を持つ生物の全てが怖く感じた。
当時の僕はそんな余裕も無かった。だけど今の僕は、色々な人がいるんだってハッキリと分かっているのに、それなのに…。
どうしようもなく。人が怖い。
その想いを抱えたまま、僕の意識は現在へと戻る。再び、ファーリエルさんとの会話や雪原の景色を思い出す中で、最後の最後に何故か、記憶の中の最後で兄様が見せた歪な笑顔が頭にこびりついて離れなかった。
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