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第H章:何故倒された魔物はお金を落とすのか
信仰心と探究心/4:そのシスターが黒い魔物を討ち滅ぼした手段は祈りではなく北里柴三郎と同じ魔法だった
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「おはよう」
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「うん。少なくとも、あなたよりは」
一言多いのはシズクの悪い癖だ。本人をすればなにかうまい返しのひとつでもしてやろう程度なのかもしれないが、こういう細かいところでうっかりと踏み込むべきでないところに踏み込む悪癖がある。だから周りに嫌われていたのだ。
さておき、実際にイルマの目にはくまが出来ている。あまり眠れていないことは確かだった。こういう時に、真っ先自分側に原因を考えるのがリクであり、相手側に原因を考えるのがシズクである。日本人的にはリクの思考が普通に感じるだろうが、実際に問題と原因の分布を統計的にまとめてみればほとんどの問題は相手側にあり、その点でシズクの考えは極めて合理的である。ただ、相手側に原因があった場合のほとんどが解決不能である一方、自分側に原因があった場合は能動的な解決が可能であるという点において、その後の問題解決の可能性までを考えれば自分側から考える方が効率的かもしれない。
しかし、この点においてもシズクの特異性が現れる。それは彼女の状況分析能力と解決能力が極めて高いという点に加えて、彼女がいい意味でも悪い意味でも遠慮をしない性格である点が大きい。
「なにか夜更かししてまですることがあるの?」
「あぁ、その、えっと……か、神様に捧げる祈りの儀式を」
嘘だ。目が泳いでいる。つい、いつものリクにしているような問い詰めをはじめようとしてしまうが、その行動はいつものリクに止められる。
「す、すみませんねぇ、こいつ、デリカシーとかなくて」
「なにそれ」
「いいから」
むすっと鼻息を荒げたところで、ふとその匂いに気付く。それは、カビの匂いに感じた。小綺麗に掃除されたこの教会で、何故? ともあれ、リクに止められた反面、無理をすることもできずにため息がこぼれ、そんな様子にイルマは微笑ましそうに笑って見せる。
「朝ごはんできてますから、手を洗ってきてもらえますか?」
「ん、ありがと」
指さされた通りに外に出て、井戸から組み上げた手を洗ったところで、ふと気付く。
「存外に近代的ね」
「この井戸が?」
「いや、手を洗う習慣」
日本人としては当たり前のことかもしれないが、実のところ、手を洗う習慣というのはかなり近代的なものだ。公衆衛生という概念は、医学の発展と共に病魔の正体が呪いなどの迷信じみたものではなく、細菌やウィルスによるものだと判明した後で意味をもって確立したものだ。それまでは、ただなんとなく汚いというだけで行われていたものであり、それだけのために汗を流して汲んだ水を使うという発想はまず生まれなかった。
ふと教会に目をやると、イルマが猫に餌をやりつつ、朝食のパンを焼いていた。そのままあたりを見渡して、イルマは町の違和感に気付く。
「うんち、落ちてないね」
「お前はいい加減その小学生マインドから脱却しろ。ここはペンギン村じゃない」
「パリでもないみたいだね」
「花の都をペンギン村と並べるなよ」
「うんちって意味では同じでは?」
これもまた日本人には理解し難いことかもしれないが、中世ヨーロッパは根本的に公衆衛生という概念が存在しない。人間がその身で作った汚物は、基本的に道に投げ捨てていた。今では紳士の代名詞となっているシルクハットも、元を正せば2階の窓から投げ捨てられる糞便から頭を守るものだというほどだ。これは、実際の中世ヨーロッパが、近年の異世界転生物にありがちな世界と根本的に異なる要素であると言えるだろう。
「リク君、この村でネズミって見た?」
「いや、見てないな。猫がそこら中にいるからじゃないか?」
確かに、そう言われてみるとこの村には猫が多い。一方で、犬は居ないように見える。
「猫派の集落なのかね」
「それはそれで楽しいけど」
ともあれ、今日はもう少しこの村、そして、この世界の文化を見て回ろう。そう決めつつ、朝食をいただく二人だった。
さて。床と食の感謝として、イルマの手伝いを申し出た二人が教会内の清掃を行っている中、日がまだかろうじて登りきらない頃合いに、教会に人が集まり始める。彼らの前でイルマが務めを果たす。
「神はおっしゃいました。人よ、美しくあれと。手洗いとうがいを持ってその身を清め、汚物や腐敗物は我が目に止まらぬよう地に埋めよと。悪しき者の使いであるネズミを嫌い、それを駆除する猫を友とせよと。さぁ、手に水を蓄えて祈りましょう」
そうして皆で祈る、もとい、手を洗う様子はとても奇妙だった。
「公衆衛生じゃん。これ、ほんとにこの世界の宗教なの?」
そう呟くと、近くで手を洗っていた妙齢の女性が答える。
「村の外から来た方は不思議に思うようですね。やはりシスターイルマの教えは、大きな街での教えとは違うのかもしれません。けれど、私達は彼女を信じている。それでいいんです」
「なるほどね。いや、いいことだと思う。実際、正しいことを言っている。というか、他の街の教会では、手を洗おうみたいな教えはしてないの?」
「少なくとも私は聞いたことがないですね。あれはシスターイルマの独自の教えらしいですよ。なんでも、黒い魔物に打ち勝つ術を神様から啓示を受けた、とか」
「黒い魔物?」
黒、という言葉に思わず目が鋭くなる。
「それって、人に感染……いや、えぇっと……人に乗り移って、体を黒い痕だらけにするみたいなやつのこと?」
「はい。かつてそれで北部の街ひとつが壊滅したとも聞きます。その街には高名な司祭の方もおられたというのに、神への祈りも黒い魔物には勝てなかったのでしょう」
「まぁ、そう、だろうねぇ。でも、その啓示ってのはイルマさん本人が言ってたの?」
「そう聞いています。噂ですけど、夜な夜な墓場を掘っていたのを村の男衆に見つかり、その時にそう答えたのだとか。すべて神の言葉に従っている、とか」
「墓場を掘るとか剣呑だねぇ。ありがとう」
軽く会釈をして去っていく女性を見送った後、リクが驚いたように声をかける。
「そんな魔物の話、どこで聞いたんだ? というか魔物って、お前ゲームもやらんしアニメも見ないじゃないか」
「ある意味、だから知っていたっていうか。わかんない? その魔物の正体」
「魔王が作った強敵なんじゃないか?」
「リク君は今の話に出ていた高名な司祭様くらいの知恵者だね」
「そうか? 照れるな」
意図が通じないのは少なくともリクにとっては幸運かもしれない。
「ペストだよ。黒死病。中世最大の感染症。実際に2億人死んだっていうから、病気を魔物扱いするなら確かに人類にとって最大の敵だったね」
「あぁ、そういえば」
「で、その原因は公衆衛生を怠っていたことによるネズミの蔓延。つまるところ、街をきれいにして、ネズミを駆除すれば対策できたってこと。それに気付いているとか、ほんと何者なのよあの人」
イルマが科学的思考を持って物事を解決してきた才女であることは、もう火を見るよりも明らかだった。しかし、彼女はその説明に神の名を出し、人々も彼女を神に仕える者として認識している。これは、少なくともシズクには歪に感じた。
「ねぇ、イルマさん」
人がいなくなったタイミングを見て声をかける。
「どうしました?」
「神様って、本当にいるの?」
一瞬、わずか一瞬の間。軽く目が泳いだそこをシズクは見逃さない。
「えぇ、もちろんですよ」
「でもあなたは信じてないよね? だって、見たことがないから」
物語を信じることができることは、人間が地球上の生物の中で頂点と言えるほどまで発展した最大の理由である。人間の力、それは、嘘を作り、嘘を信じる能力だと言えるだろう。アインシュタインは、人類最大の発明を複利だと言った。そもそも複利とは未来に対する嘘だと言えよう。つまるところ、嘘こそが人類最大の発明だ。
嘘は未来に借金をしている。そうすることで確かに今は満たされるが、いずれその支払いを行わなければ、相応の報いというものがある。そういった意味で言えば、嘘とは約束である。近いうちに、現実にできる事柄だけを述べてもいいということだ。
その点で言えば、概念としての神の発明は、まさに悪魔の契約だったと言えよう。確かに、神を信じたことで救われた存在はそれこそ無数にいただろう。しかし、誰も神の存在を真実にできなかった。だからこそ、現代でも宗教は争いの火種になり、人を不幸で愚かな存在に貶めている。環境破壊を人類のツケだというならば、それ以上に宗教こそ人類の最大のツケであろう。
「見つかりそう? 神様」
「それは……」
「難儀だよね。何も知らなければ、未来を想像し、過去を分析する力がなければ、神様はいるで話を終わりにできる。実際に、ほとんどの人たちはそこで幸せになれる。未来への借金だけを積み重ねてね。でも、あなたはそれができない。だから探してしまう。神様を見つけ、借金を返そうと努力してしまう。けれど、それで見つかるのは決して神様ではなく、神様が作ったシステムの残滓だけ。そういうものをひとつひとつ見つけていくことで、確かに神様に近づいた気になれる。私にはその感覚がわかる。神様が遠すぎて、とても見つかる気がしないという感覚もね」
「…………」
「信じていないから近寄れる。信じてしまったら絶対に会えない。まさに神様のパラドックスだね。敬遠な信者の前にこそ、神様は降臨しないんだから」
「あの!」
イルマが驚くほど大きな声を出す。それは、願いを込めた言葉で。
「神様って、本当にいるんですか!?」
シズクは嘲笑って答える。
「いるよ。絶対にいるわけがないと思ってるんだけど、だからこそ、いるんだろうなぁって日々わからされてる。ただ、それはあくまで、世界を創造した全知全能に見える意思を持った何かであって、作った理由もおそらく独善的でエゴイスティックな自己満足。世界や人類の救済にはこれっぽっちも興味を持ってないよ。多分ね」
その狂信的で、それでいてまっすぐな瞳は、まるでイルマを吸い込みそうだった。その目が、彼女の真実の姿を見抜く。
「イルマ。あなた、もぐりのシスターでしょ」
正体を見破られたイルマが瞳の中の事象の地平線に囚われてしまうより早く。教会の扉を開く音が、その心の首根っこを掴んだ。
「邪教改めである!」
振り向いた先に居たのは、装飾に身を包んだ男を先頭にした武装集団だった。それはシズクにとっては十字軍の知識で、リクにとってはファンタジーゲームの知識で解釈された。
「教皇庁の教えに背き、邪教をもって民衆をたぶらかす魔女め! 神の名の元に、貴様を連行する!」
やれやれとため息をついてイルマに問いかける。
「どうしたの? 墓場を暴いた? 死体の解剖でもした? 意図的に他人の骨を折ってみたりもした? それとも、怪しげなカビを培養して、あまつさえそれを人間の体に塗りたくったりした? 一体毎日夜更かしして、どれをやってたっていうの?」
「……です」
「え?」
「全部です……」
その懺悔の言葉に思わず吹き出し、一転、大笑いをはじめたシズクの姿は、どこからどうみても狂気のそれであり、騎士達に恐怖を与えるには十分なものだった。
「リク君、私ね、死ぬまでにやってみたかったことがあるの」
「もう死んでると思うんだけど、一応何か聞いておくよ」
「うん。あのね……」
イルマの手を掴み、走り出す。
「教会から花嫁を連れて逃げてみたかったの」
かくして二人は、この世界で最初の略奪を行うことになった。盗んだものは、死体と、倫理観と、愛と、そして、真実だった。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「うん。少なくとも、あなたよりは」
一言多いのはシズクの悪い癖だ。本人をすればなにかうまい返しのひとつでもしてやろう程度なのかもしれないが、こういう細かいところでうっかりと踏み込むべきでないところに踏み込む悪癖がある。だから周りに嫌われていたのだ。
さておき、実際にイルマの目にはくまが出来ている。あまり眠れていないことは確かだった。こういう時に、真っ先自分側に原因を考えるのがリクであり、相手側に原因を考えるのがシズクである。日本人的にはリクの思考が普通に感じるだろうが、実際に問題と原因の分布を統計的にまとめてみればほとんどの問題は相手側にあり、その点でシズクの考えは極めて合理的である。ただ、相手側に原因があった場合のほとんどが解決不能である一方、自分側に原因があった場合は能動的な解決が可能であるという点において、その後の問題解決の可能性までを考えれば自分側から考える方が効率的かもしれない。
しかし、この点においてもシズクの特異性が現れる。それは彼女の状況分析能力と解決能力が極めて高いという点に加えて、彼女がいい意味でも悪い意味でも遠慮をしない性格である点が大きい。
「なにか夜更かししてまですることがあるの?」
「あぁ、その、えっと……か、神様に捧げる祈りの儀式を」
嘘だ。目が泳いでいる。つい、いつものリクにしているような問い詰めをはじめようとしてしまうが、その行動はいつものリクに止められる。
「す、すみませんねぇ、こいつ、デリカシーとかなくて」
「なにそれ」
「いいから」
むすっと鼻息を荒げたところで、ふとその匂いに気付く。それは、カビの匂いに感じた。小綺麗に掃除されたこの教会で、何故? ともあれ、リクに止められた反面、無理をすることもできずにため息がこぼれ、そんな様子にイルマは微笑ましそうに笑って見せる。
「朝ごはんできてますから、手を洗ってきてもらえますか?」
「ん、ありがと」
指さされた通りに外に出て、井戸から組み上げた手を洗ったところで、ふと気付く。
「存外に近代的ね」
「この井戸が?」
「いや、手を洗う習慣」
日本人としては当たり前のことかもしれないが、実のところ、手を洗う習慣というのはかなり近代的なものだ。公衆衛生という概念は、医学の発展と共に病魔の正体が呪いなどの迷信じみたものではなく、細菌やウィルスによるものだと判明した後で意味をもって確立したものだ。それまでは、ただなんとなく汚いというだけで行われていたものであり、それだけのために汗を流して汲んだ水を使うという発想はまず生まれなかった。
ふと教会に目をやると、イルマが猫に餌をやりつつ、朝食のパンを焼いていた。そのままあたりを見渡して、イルマは町の違和感に気付く。
「うんち、落ちてないね」
「お前はいい加減その小学生マインドから脱却しろ。ここはペンギン村じゃない」
「パリでもないみたいだね」
「花の都をペンギン村と並べるなよ」
「うんちって意味では同じでは?」
これもまた日本人には理解し難いことかもしれないが、中世ヨーロッパは根本的に公衆衛生という概念が存在しない。人間がその身で作った汚物は、基本的に道に投げ捨てていた。今では紳士の代名詞となっているシルクハットも、元を正せば2階の窓から投げ捨てられる糞便から頭を守るものだというほどだ。これは、実際の中世ヨーロッパが、近年の異世界転生物にありがちな世界と根本的に異なる要素であると言えるだろう。
「リク君、この村でネズミって見た?」
「いや、見てないな。猫がそこら中にいるからじゃないか?」
確かに、そう言われてみるとこの村には猫が多い。一方で、犬は居ないように見える。
「猫派の集落なのかね」
「それはそれで楽しいけど」
ともあれ、今日はもう少しこの村、そして、この世界の文化を見て回ろう。そう決めつつ、朝食をいただく二人だった。
さて。床と食の感謝として、イルマの手伝いを申し出た二人が教会内の清掃を行っている中、日がまだかろうじて登りきらない頃合いに、教会に人が集まり始める。彼らの前でイルマが務めを果たす。
「神はおっしゃいました。人よ、美しくあれと。手洗いとうがいを持ってその身を清め、汚物や腐敗物は我が目に止まらぬよう地に埋めよと。悪しき者の使いであるネズミを嫌い、それを駆除する猫を友とせよと。さぁ、手に水を蓄えて祈りましょう」
そうして皆で祈る、もとい、手を洗う様子はとても奇妙だった。
「公衆衛生じゃん。これ、ほんとにこの世界の宗教なの?」
そう呟くと、近くで手を洗っていた妙齢の女性が答える。
「村の外から来た方は不思議に思うようですね。やはりシスターイルマの教えは、大きな街での教えとは違うのかもしれません。けれど、私達は彼女を信じている。それでいいんです」
「なるほどね。いや、いいことだと思う。実際、正しいことを言っている。というか、他の街の教会では、手を洗おうみたいな教えはしてないの?」
「少なくとも私は聞いたことがないですね。あれはシスターイルマの独自の教えらしいですよ。なんでも、黒い魔物に打ち勝つ術を神様から啓示を受けた、とか」
「黒い魔物?」
黒、という言葉に思わず目が鋭くなる。
「それって、人に感染……いや、えぇっと……人に乗り移って、体を黒い痕だらけにするみたいなやつのこと?」
「はい。かつてそれで北部の街ひとつが壊滅したとも聞きます。その街には高名な司祭の方もおられたというのに、神への祈りも黒い魔物には勝てなかったのでしょう」
「まぁ、そう、だろうねぇ。でも、その啓示ってのはイルマさん本人が言ってたの?」
「そう聞いています。噂ですけど、夜な夜な墓場を掘っていたのを村の男衆に見つかり、その時にそう答えたのだとか。すべて神の言葉に従っている、とか」
「墓場を掘るとか剣呑だねぇ。ありがとう」
軽く会釈をして去っていく女性を見送った後、リクが驚いたように声をかける。
「そんな魔物の話、どこで聞いたんだ? というか魔物って、お前ゲームもやらんしアニメも見ないじゃないか」
「ある意味、だから知っていたっていうか。わかんない? その魔物の正体」
「魔王が作った強敵なんじゃないか?」
「リク君は今の話に出ていた高名な司祭様くらいの知恵者だね」
「そうか? 照れるな」
意図が通じないのは少なくともリクにとっては幸運かもしれない。
「ペストだよ。黒死病。中世最大の感染症。実際に2億人死んだっていうから、病気を魔物扱いするなら確かに人類にとって最大の敵だったね」
「あぁ、そういえば」
「で、その原因は公衆衛生を怠っていたことによるネズミの蔓延。つまるところ、街をきれいにして、ネズミを駆除すれば対策できたってこと。それに気付いているとか、ほんと何者なのよあの人」
イルマが科学的思考を持って物事を解決してきた才女であることは、もう火を見るよりも明らかだった。しかし、彼女はその説明に神の名を出し、人々も彼女を神に仕える者として認識している。これは、少なくともシズクには歪に感じた。
「ねぇ、イルマさん」
人がいなくなったタイミングを見て声をかける。
「どうしました?」
「神様って、本当にいるの?」
一瞬、わずか一瞬の間。軽く目が泳いだそこをシズクは見逃さない。
「えぇ、もちろんですよ」
「でもあなたは信じてないよね? だって、見たことがないから」
物語を信じることができることは、人間が地球上の生物の中で頂点と言えるほどまで発展した最大の理由である。人間の力、それは、嘘を作り、嘘を信じる能力だと言えるだろう。アインシュタインは、人類最大の発明を複利だと言った。そもそも複利とは未来に対する嘘だと言えよう。つまるところ、嘘こそが人類最大の発明だ。
嘘は未来に借金をしている。そうすることで確かに今は満たされるが、いずれその支払いを行わなければ、相応の報いというものがある。そういった意味で言えば、嘘とは約束である。近いうちに、現実にできる事柄だけを述べてもいいということだ。
その点で言えば、概念としての神の発明は、まさに悪魔の契約だったと言えよう。確かに、神を信じたことで救われた存在はそれこそ無数にいただろう。しかし、誰も神の存在を真実にできなかった。だからこそ、現代でも宗教は争いの火種になり、人を不幸で愚かな存在に貶めている。環境破壊を人類のツケだというならば、それ以上に宗教こそ人類の最大のツケであろう。
「見つかりそう? 神様」
「それは……」
「難儀だよね。何も知らなければ、未来を想像し、過去を分析する力がなければ、神様はいるで話を終わりにできる。実際に、ほとんどの人たちはそこで幸せになれる。未来への借金だけを積み重ねてね。でも、あなたはそれができない。だから探してしまう。神様を見つけ、借金を返そうと努力してしまう。けれど、それで見つかるのは決して神様ではなく、神様が作ったシステムの残滓だけ。そういうものをひとつひとつ見つけていくことで、確かに神様に近づいた気になれる。私にはその感覚がわかる。神様が遠すぎて、とても見つかる気がしないという感覚もね」
「…………」
「信じていないから近寄れる。信じてしまったら絶対に会えない。まさに神様のパラドックスだね。敬遠な信者の前にこそ、神様は降臨しないんだから」
「あの!」
イルマが驚くほど大きな声を出す。それは、願いを込めた言葉で。
「神様って、本当にいるんですか!?」
シズクは嘲笑って答える。
「いるよ。絶対にいるわけがないと思ってるんだけど、だからこそ、いるんだろうなぁって日々わからされてる。ただ、それはあくまで、世界を創造した全知全能に見える意思を持った何かであって、作った理由もおそらく独善的でエゴイスティックな自己満足。世界や人類の救済にはこれっぽっちも興味を持ってないよ。多分ね」
その狂信的で、それでいてまっすぐな瞳は、まるでイルマを吸い込みそうだった。その目が、彼女の真実の姿を見抜く。
「イルマ。あなた、もぐりのシスターでしょ」
正体を見破られたイルマが瞳の中の事象の地平線に囚われてしまうより早く。教会の扉を開く音が、その心の首根っこを掴んだ。
「邪教改めである!」
振り向いた先に居たのは、装飾に身を包んだ男を先頭にした武装集団だった。それはシズクにとっては十字軍の知識で、リクにとってはファンタジーゲームの知識で解釈された。
「教皇庁の教えに背き、邪教をもって民衆をたぶらかす魔女め! 神の名の元に、貴様を連行する!」
やれやれとため息をついてイルマに問いかける。
「どうしたの? 墓場を暴いた? 死体の解剖でもした? 意図的に他人の骨を折ってみたりもした? それとも、怪しげなカビを培養して、あまつさえそれを人間の体に塗りたくったりした? 一体毎日夜更かしして、どれをやってたっていうの?」
「……です」
「え?」
「全部です……」
その懺悔の言葉に思わず吹き出し、一転、大笑いをはじめたシズクの姿は、どこからどうみても狂気のそれであり、騎士達に恐怖を与えるには十分なものだった。
「リク君、私ね、死ぬまでにやってみたかったことがあるの」
「もう死んでると思うんだけど、一応何か聞いておくよ」
「うん。あのね……」
イルマの手を掴み、走り出す。
「教会から花嫁を連れて逃げてみたかったの」
かくして二人は、この世界で最初の略奪を行うことになった。盗んだものは、死体と、倫理観と、愛と、そして、真実だった。
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