砂委員

猫村まぬる

文字の大きさ
9 / 31

第9話 夕方

しおりを挟む
 二人が戻らない、という学校からの知らせを受けたのは、彼女らの砂委員の最終日だった金曜の夕方、夏の長日とはいえそろそろ空が薄暗くなり始めたころだった。
 電話を取った母はそのままろくに身支度もせずに学校へ走っていったが、一緒について行くことは許されず、警察なり消防なりから直接連絡があるかもしれないというので留守番を命じられ、静かな居間のダイニングテーブルにひとりで残された。
 香穂と島田りさ子が、二人で浜に出たきり戻らないという、分かっていたのはそれだけで、それ以上のことを考えたくはなかったけれど、戻るべき時刻を二時間以上過ぎてまだ浜にいるのだとしたら、旗の列はじきに宵闇よいやみに紛れて安全通路も分からなくなるだろうし、風が出てくれば明かりを頼りに街の方角を知ることさえ出来なくなるだろう、などと考えずにはいられなかった。
 テーブルに伏せて、時計の音とともに連絡を待つ間、冷たい吐き気が続き、頭の奥では不快な摩擦音が聞こえ、身体も椅子もテーブルも床も支えを失ってひゅんひゅんと傾き続けていた。こうしている間にも取り返しのつかないことが起こっているのではないか、この瞬間がリミットなのではないか、まさに今が、流れる砂の中から香穂を救い出す最後のチャンスなのではないのか。
 電話も鳴らず、誰も戻らないまま闇で満たされてゆく家で、明かりもつけずにテーブルに突っ伏して、知らず知らずのうちに眠っていたらしく、それはいったい夢だったのか、幻視だったのか、あるいは後年に挿入された偽の記憶だったのか定かではないけど、まるで映写機が回り始めたみたいに、白く輝く映像が視界に広がった。
 真昼間のように明るい砂の上で、小麦色の小さな細い手と、ふんわりとした白い手が、しっかりと握りあっている。全ては光に満たされた塵煙の中にあり、二つの手と砂の他には何も見えない。砂の寄せ波が覆いかぶさって来ても、手と手はただ血色が失せるほど強く握り合うだけで、逃れようともしなかった。
 白く柔らかそうな手の甲に、骨ばった指がぐっと食い込む。
 その時、誰かの声が聞こえた。
「砂にまれちゃえばいいのよ」
 飛び跳ねるように顔を起こすと、誰もいない真っ暗な部屋で、風に揺すられた窓がかたかたと鳴っていた。
 夜光時計の針はまだそれほど進んでいなかったが、そのまま闇に座り続けていることにはもはや耐えかね、椅子を蹴って玄関を飛び出したら、外の風は心配したほどではなく、空気もまだ澄んでいたけど、旧市街への坂を駆け下り、真っ暗なオペラ通りを走ると、路面に積もった砂が靴の下でぽふぽふと音を立て、砂塵の匂いが鼻をくすぐった。
 家並みが途切れ、道がカーブし始めたあたりで、浜のほうがいつになく明るいことに気づいて足を速めると、舗装が砂に消えるあたりに、いくつかの人影が、夜間工事に使う大きな照明灯に照らされているのが見え、怒鳴るような人声も聞こえてきた。
 淡い砂煙の立った光のスポットの中には数人の救急隊員と学校の教師、そして両親の姿もあり、そのうちの何人かがこちらを見ていた。そして彼らの輪の中にひとり、砂の上に座っている子どもの姿に気づき、まっすぐに駆け寄ったが、体育座りをしたその少女は香穂ではなかった。
 赤いタオルを肩に掛けていたほかには、島田さんが身につけていたのはグレーの下着だけで、砂の上で自分の両膝を抱きしめて縮こまった汗みずくの白い身体が照明を浴びててらてらと光り、膝と胸郭の間で押しつぶされた左右のふくらみが歪んだ白磁のように輝いていたのを、胸が悪くなるほどはっきりと思い出せるのは、われ知らず記憶に焼きつけていたのだろうか、香穂の安否さえまだ分かっていなかったのに。
 男たちの声が聞こえ、二人の救急隊員が軽々と担架を運んで光の輪に入って来た。毛布の端からのぞいた髪も、何かを探してるみたいに宙をまさぐる手も、熱にうなされるように誰かを呼び続ける声も、確かにあの子だった。
「香穂」
 目の前を通る瞬間、その手に触れようと伸ばした手は、空中ですれ違った。
 すぐに車に乗せられ、島田さんともども病院へ運ばれた香穂は、しかし二日後にはけろりとした顔で退院してきて、そのまま夏休みに入った。砂の中に失くしてしまったメタルフレームの代わりに新調した赤いセルフレームの眼鏡のせいもあってか、むしろ以前より元気になったようにさえ見えた。
 そして島田りさ子が毎日のように遊びに来るようになった。
 二人は明らかに親密さを増していて、ほとんどの時間は香穂の部屋に閉じこもっていたけど、たまに姿を見せるときは腕を組んだり肩を抱いたりして、似ていない姉妹みたいにひそひそ話をしてくすくすと笑いあったりしていた。それはどう見ても危険な兆候としか思えず、大人たちがあの夕方の出来事を単なる事故としか思っていないのが不思議でならなかったし、実際、夏休みの半ばを待たずして香穂は消えてしまい、それきり戻らなかった。

 香穂は今度こそ本当に、八月の砂に消えてしまい、それきり二度と戻らなかったのだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

触手エイリアンの交配実験〜研究者、被験体になる〜

桜井ベアトリクス
恋愛
異星で触手エイリアンを研究する科学者アヴァ。 唯一観察できていなかったのは、彼らの交配儀式。 上司の制止を振り切り、禁断の儀式を覗き見たアヴァは―― 交わる触手に、抑えきれない欲望を覚える。 「私も……私も交配したい」 太く長い触手が、体の奥深くまで侵入してくる。 研究者が、快楽の実験体になる夜。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

処理中です...