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第9話 夕方
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二人が戻らない、という学校からの知らせを受けたのは、彼女らの砂委員の最終日だった金曜の夕方、夏の長日とはいえそろそろ空が薄暗くなり始めたころだった。
電話を取った母はそのままろくに身支度もせずに学校へ走っていったが、一緒について行くことは許されず、警察なり消防なりから直接連絡があるかもしれないというので留守番を命じられ、静かな居間のダイニングテーブルにひとりで残された。
香穂と島田りさ子が、二人で浜に出たきり戻らないという、分かっていたのはそれだけで、それ以上のことを考えたくはなかったけれど、戻るべき時刻を二時間以上過ぎてまだ浜にいるのだとしたら、旗の列はじきに宵闇に紛れて安全通路も分からなくなるだろうし、風が出てくれば明かりを頼りに街の方角を知ることさえ出来なくなるだろう、などと考えずにはいられなかった。
テーブルに伏せて、時計の音とともに連絡を待つ間、冷たい吐き気が続き、頭の奥では不快な摩擦音が聞こえ、身体も椅子もテーブルも床も支えを失ってひゅんひゅんと傾き続けていた。こうしている間にも取り返しのつかないことが起こっているのではないか、この瞬間がリミットなのではないか、まさに今が、流れる砂の中から香穂を救い出す最後のチャンスなのではないのか。
電話も鳴らず、誰も戻らないまま闇で満たされてゆく家で、明かりもつけずにテーブルに突っ伏して、知らず知らずのうちに眠っていたらしく、それはいったい夢だったのか、幻視だったのか、あるいは後年に挿入された偽の記憶だったのか定かではないけど、まるで映写機が回り始めたみたいに、白く輝く映像が視界に広がった。
真昼間のように明るい砂の上で、小麦色の小さな細い手と、ふんわりとした白い手が、しっかりと握りあっている。全ては光に満たされた塵煙の中にあり、二つの手と砂の他には何も見えない。砂の寄せ波が覆いかぶさって来ても、手と手はただ血色が失せるほど強く握り合うだけで、逃れようともしなかった。
白く柔らかそうな手の甲に、骨ばった指がぐっと食い込む。
その時、誰かの声が聞こえた。
「砂に呑まれちゃえばいいのよ」
飛び跳ねるように顔を起こすと、誰もいない真っ暗な部屋で、風に揺すられた窓がかたかたと鳴っていた。
夜光時計の針はまだそれほど進んでいなかったが、そのまま闇に座り続けていることにはもはや耐えかね、椅子を蹴って玄関を飛び出したら、外の風は心配したほどではなく、空気もまだ澄んでいたけど、旧市街への坂を駆け下り、真っ暗なオペラ通りを走ると、路面に積もった砂が靴の下でぽふぽふと音を立て、砂塵の匂いが鼻をくすぐった。
家並みが途切れ、道がカーブし始めたあたりで、浜のほうがいつになく明るいことに気づいて足を速めると、舗装が砂に消えるあたりに、いくつかの人影が、夜間工事に使う大きな照明灯に照らされているのが見え、怒鳴るような人声も聞こえてきた。
淡い砂煙の立った光のスポットの中には数人の救急隊員と学校の教師、そして両親の姿もあり、そのうちの何人かがこちらを見ていた。そして彼らの輪の中にひとり、砂の上に座っている子どもの姿に気づき、まっすぐに駆け寄ったが、体育座りをしたその少女は香穂ではなかった。
赤いタオルを肩に掛けていたほかには、島田さんが身につけていたのはグレーの下着だけで、砂の上で自分の両膝を抱きしめて縮こまった汗みずくの白い身体が照明を浴びててらてらと光り、膝と胸郭の間で押しつぶされた左右のふくらみが歪んだ白磁のように輝いていたのを、胸が悪くなるほどはっきりと思い出せるのは、われ知らず記憶に焼きつけていたのだろうか、香穂の安否さえまだ分かっていなかったのに。
男たちの声が聞こえ、二人の救急隊員が軽々と担架を運んで光の輪に入って来た。毛布の端からのぞいた髪も、何かを探してるみたいに宙をまさぐる手も、熱にうなされるように誰かを呼び続ける声も、確かにあの子だった。
「香穂」
目の前を通る瞬間、その手に触れようと伸ばした手は、空中ですれ違った。
すぐに車に乗せられ、島田さんともども病院へ運ばれた香穂は、しかし二日後にはけろりとした顔で退院してきて、そのまま夏休みに入った。砂の中に失くしてしまったメタルフレームの代わりに新調した赤いセルフレームの眼鏡のせいもあってか、むしろ以前より元気になったようにさえ見えた。
そして島田りさ子が毎日のように遊びに来るようになった。
二人は明らかに親密さを増していて、ほとんどの時間は香穂の部屋に閉じこもっていたけど、たまに姿を見せるときは腕を組んだり肩を抱いたりして、似ていない姉妹みたいにひそひそ話をしてくすくすと笑いあったりしていた。それはどう見ても危険な兆候としか思えず、大人たちがあの夕方の出来事を単なる事故としか思っていないのが不思議でならなかったし、実際、夏休みの半ばを待たずして香穂は消えてしまい、それきり戻らなかった。
香穂は今度こそ本当に、八月の砂に消えてしまい、それきり二度と戻らなかったのだ。
電話を取った母はそのままろくに身支度もせずに学校へ走っていったが、一緒について行くことは許されず、警察なり消防なりから直接連絡があるかもしれないというので留守番を命じられ、静かな居間のダイニングテーブルにひとりで残された。
香穂と島田りさ子が、二人で浜に出たきり戻らないという、分かっていたのはそれだけで、それ以上のことを考えたくはなかったけれど、戻るべき時刻を二時間以上過ぎてまだ浜にいるのだとしたら、旗の列はじきに宵闇に紛れて安全通路も分からなくなるだろうし、風が出てくれば明かりを頼りに街の方角を知ることさえ出来なくなるだろう、などと考えずにはいられなかった。
テーブルに伏せて、時計の音とともに連絡を待つ間、冷たい吐き気が続き、頭の奥では不快な摩擦音が聞こえ、身体も椅子もテーブルも床も支えを失ってひゅんひゅんと傾き続けていた。こうしている間にも取り返しのつかないことが起こっているのではないか、この瞬間がリミットなのではないか、まさに今が、流れる砂の中から香穂を救い出す最後のチャンスなのではないのか。
電話も鳴らず、誰も戻らないまま闇で満たされてゆく家で、明かりもつけずにテーブルに突っ伏して、知らず知らずのうちに眠っていたらしく、それはいったい夢だったのか、幻視だったのか、あるいは後年に挿入された偽の記憶だったのか定かではないけど、まるで映写機が回り始めたみたいに、白く輝く映像が視界に広がった。
真昼間のように明るい砂の上で、小麦色の小さな細い手と、ふんわりとした白い手が、しっかりと握りあっている。全ては光に満たされた塵煙の中にあり、二つの手と砂の他には何も見えない。砂の寄せ波が覆いかぶさって来ても、手と手はただ血色が失せるほど強く握り合うだけで、逃れようともしなかった。
白く柔らかそうな手の甲に、骨ばった指がぐっと食い込む。
その時、誰かの声が聞こえた。
「砂に呑まれちゃえばいいのよ」
飛び跳ねるように顔を起こすと、誰もいない真っ暗な部屋で、風に揺すられた窓がかたかたと鳴っていた。
夜光時計の針はまだそれほど進んでいなかったが、そのまま闇に座り続けていることにはもはや耐えかね、椅子を蹴って玄関を飛び出したら、外の風は心配したほどではなく、空気もまだ澄んでいたけど、旧市街への坂を駆け下り、真っ暗なオペラ通りを走ると、路面に積もった砂が靴の下でぽふぽふと音を立て、砂塵の匂いが鼻をくすぐった。
家並みが途切れ、道がカーブし始めたあたりで、浜のほうがいつになく明るいことに気づいて足を速めると、舗装が砂に消えるあたりに、いくつかの人影が、夜間工事に使う大きな照明灯に照らされているのが見え、怒鳴るような人声も聞こえてきた。
淡い砂煙の立った光のスポットの中には数人の救急隊員と学校の教師、そして両親の姿もあり、そのうちの何人かがこちらを見ていた。そして彼らの輪の中にひとり、砂の上に座っている子どもの姿に気づき、まっすぐに駆け寄ったが、体育座りをしたその少女は香穂ではなかった。
赤いタオルを肩に掛けていたほかには、島田さんが身につけていたのはグレーの下着だけで、砂の上で自分の両膝を抱きしめて縮こまった汗みずくの白い身体が照明を浴びててらてらと光り、膝と胸郭の間で押しつぶされた左右のふくらみが歪んだ白磁のように輝いていたのを、胸が悪くなるほどはっきりと思い出せるのは、われ知らず記憶に焼きつけていたのだろうか、香穂の安否さえまだ分かっていなかったのに。
男たちの声が聞こえ、二人の救急隊員が軽々と担架を運んで光の輪に入って来た。毛布の端からのぞいた髪も、何かを探してるみたいに宙をまさぐる手も、熱にうなされるように誰かを呼び続ける声も、確かにあの子だった。
「香穂」
目の前を通る瞬間、その手に触れようと伸ばした手は、空中ですれ違った。
すぐに車に乗せられ、島田さんともども病院へ運ばれた香穂は、しかし二日後にはけろりとした顔で退院してきて、そのまま夏休みに入った。砂の中に失くしてしまったメタルフレームの代わりに新調した赤いセルフレームの眼鏡のせいもあってか、むしろ以前より元気になったようにさえ見えた。
そして島田りさ子が毎日のように遊びに来るようになった。
二人は明らかに親密さを増していて、ほとんどの時間は香穂の部屋に閉じこもっていたけど、たまに姿を見せるときは腕を組んだり肩を抱いたりして、似ていない姉妹みたいにひそひそ話をしてくすくすと笑いあったりしていた。それはどう見ても危険な兆候としか思えず、大人たちがあの夕方の出来事を単なる事故としか思っていないのが不思議でならなかったし、実際、夏休みの半ばを待たずして香穂は消えてしまい、それきり戻らなかった。
香穂は今度こそ本当に、八月の砂に消えてしまい、それきり二度と戻らなかったのだ。
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