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第16話 眼鏡
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収集物の棚に眼鏡を置く。
そこはベッドの正面の特別な位置で、女生徒の紺の制服の上下も置いてあるが、それらは香穂のものと同じデザインではあっても、見つかった場所もそれぞれ全然違うし、細身だったあの子とはサイズも違うようだから、実際に彼女が着ていたものではなく、ただ記憶を呼び起こすための縁でしかない。
しかしこの眼鏡に関しては、彼女がかけていた本物ではないと考える理由が見当たらなかった。
砂に洗われて薄くなった制服も、畳めば元の紺色に近く見え、ブレザーの胸ポケットの上にフレームだけの眼鏡を置くと、この家のどこかに、今もあの子がいるような気がする。
このメタルフレームは、一度目の事故で砂の中に落としてしまうまで、何年間もあの子の顔の上にあって、家ですら外しているところを見るのは稀だったから、外した顔を思い浮かべる方が難しいほど彼女の一部分になりきっていた。
これを失くしてから、香穂は赤いセルフレームの新しいものをかけていたが、それはわずか二週間あまりのことだったし、その眼鏡をかけた彼女の顔を見ることができた時間は短かった。あの上級生、島田りさ子が毎日のようにこの家に遊びに来て、この二階の部屋に香穂と二人で籠もっていることが多かったからだ。
香穂が消える数日前に、島田りさ子は一度だけこの家に泊まった。夕方、空が赤みを帯び涼しい風が吹き始めた頃に、バッグを抱えたりさ子を香穂が出迎えて「りさ子ちゃん」「りさ子ちゃん」とはしゃぎ気味で二階に引っ張って行ったのを覚えている。その夜は島田りさ子が家族に混じって夕食の席に加わっていたり、香穂と一緒に湯を浴びるとかでバタバタしたり、とかく落ち着かないまま更けてゆき、やがて二階の部屋から二人の娘がふざけ合う笑い声が聞こえなくなったのは、夜半を過ぎてからだったと思うから、あの音に気づいて目覚めた時は、おそらくはもう明け方近くだったのだろう。
絹織物を櫛でそっと撫でるような、粉薬が流れ落ちるような、指紋と指紋が擦れ合うような、音にならないあの音が、二階から聞こえて、われ知らず寝床を出て、足音を忍ばせながら階段を上がっていたのは、衝動を抑えきれなかったと言うべきか、それとも香穂を守ろうという義務感に駆られたと言ったほうがいいのか、気づくと扉の前にたたずみ、意識しすぎるとかえって聞こえにくくなるのだけれど、しかし鳴り止むことなく続くその音に耳をそばだてていた。
どんな理屈でドアを開けることを正当化したのか、自分でも覚えていないが、どうしてもそのままではいられず、これから見るかもしれない何かに脅えながらノブに手をかけゆっくりと回すと、扉はキィとも鳴らずに静かに開いた。
照明は消えていたのに、ベッドに並んだ二人がはっきり見えたのは、珍しく月夜だったのか、隣家の明かりが窓から入って来ていたのか分からないが、ふたりとも、ふだん香穂が部屋着にしているTシャツとショートパンツを身につけ、湿り気の残った髪を同じように後ろでひとつに結わえ、鏡像のようにほぼ左右対称の姿勢でベッドに横たわって、香穂の右手は島田りさ子の白い左手を握り、りさ子の左手も香穂の細い手を握り、そうして二人で閉じた世界を作ろうとするみたいに、互いに相手に向かって上体をひねった姿勢で、少し汗ばんだ額と額をくっつけ合っていた。ふたりの顔の間に眼鏡はなかった。
敷居を越え、息を殺して数歩近づくと、半開きの唇をほとんど触れそうなほど寄せ合って目を閉じた二人の少女の、華奢な、あるいはふくよかな肩や胸が、各々の呼吸のリズムで開いたりしぼんだりを繰り返し、ショートパンツから伸びた四本の脚が、ベッドの縁からぶらんと下がり、そのうちの真ん中の二本、するりと細く浅黒い右脚と、ふんわりと肉付きの良い白い左脚が寄り添うように並んで、足首から先はいっしょに、銀色のクッキー缶に詰まった砂に沈んでいた。
どうすれば正解だったのか。二人の間に割って入ればよかったのか、香穂だけでも叩き起こして砂から抜け出させるべきだったのか、それとも大人の手に委ねればどうにかしてくれたのだろうか。
でも何もしなかった。罰を受けるような気持ちでただ二人の姿を見つめるばかりで、何もできなかった。
この部屋の、このベッドの前に立ったまま。
それから数日後、大人たちに黙って浜に出た香穂と島田りさ子は、沖合い二キロの地点で陥没性の砂流に呑まれ、そしてその二日後に偶然通りかかった巡検中の砂防課職員によって助け出されたのは、鼻と口だけがかろうじて砂から出ている状態で発見された島田さん一人だけで、香穂のものは何ひとつ、靴も、着ていたらしい制服のブラウスやスカートも、赤いセルフレームの眼鏡も見つからなかった。
そこはベッドの正面の特別な位置で、女生徒の紺の制服の上下も置いてあるが、それらは香穂のものと同じデザインではあっても、見つかった場所もそれぞれ全然違うし、細身だったあの子とはサイズも違うようだから、実際に彼女が着ていたものではなく、ただ記憶を呼び起こすための縁でしかない。
しかしこの眼鏡に関しては、彼女がかけていた本物ではないと考える理由が見当たらなかった。
砂に洗われて薄くなった制服も、畳めば元の紺色に近く見え、ブレザーの胸ポケットの上にフレームだけの眼鏡を置くと、この家のどこかに、今もあの子がいるような気がする。
このメタルフレームは、一度目の事故で砂の中に落としてしまうまで、何年間もあの子の顔の上にあって、家ですら外しているところを見るのは稀だったから、外した顔を思い浮かべる方が難しいほど彼女の一部分になりきっていた。
これを失くしてから、香穂は赤いセルフレームの新しいものをかけていたが、それはわずか二週間あまりのことだったし、その眼鏡をかけた彼女の顔を見ることができた時間は短かった。あの上級生、島田りさ子が毎日のようにこの家に遊びに来て、この二階の部屋に香穂と二人で籠もっていることが多かったからだ。
香穂が消える数日前に、島田りさ子は一度だけこの家に泊まった。夕方、空が赤みを帯び涼しい風が吹き始めた頃に、バッグを抱えたりさ子を香穂が出迎えて「りさ子ちゃん」「りさ子ちゃん」とはしゃぎ気味で二階に引っ張って行ったのを覚えている。その夜は島田りさ子が家族に混じって夕食の席に加わっていたり、香穂と一緒に湯を浴びるとかでバタバタしたり、とかく落ち着かないまま更けてゆき、やがて二階の部屋から二人の娘がふざけ合う笑い声が聞こえなくなったのは、夜半を過ぎてからだったと思うから、あの音に気づいて目覚めた時は、おそらくはもう明け方近くだったのだろう。
絹織物を櫛でそっと撫でるような、粉薬が流れ落ちるような、指紋と指紋が擦れ合うような、音にならないあの音が、二階から聞こえて、われ知らず寝床を出て、足音を忍ばせながら階段を上がっていたのは、衝動を抑えきれなかったと言うべきか、それとも香穂を守ろうという義務感に駆られたと言ったほうがいいのか、気づくと扉の前にたたずみ、意識しすぎるとかえって聞こえにくくなるのだけれど、しかし鳴り止むことなく続くその音に耳をそばだてていた。
どんな理屈でドアを開けることを正当化したのか、自分でも覚えていないが、どうしてもそのままではいられず、これから見るかもしれない何かに脅えながらノブに手をかけゆっくりと回すと、扉はキィとも鳴らずに静かに開いた。
照明は消えていたのに、ベッドに並んだ二人がはっきり見えたのは、珍しく月夜だったのか、隣家の明かりが窓から入って来ていたのか分からないが、ふたりとも、ふだん香穂が部屋着にしているTシャツとショートパンツを身につけ、湿り気の残った髪を同じように後ろでひとつに結わえ、鏡像のようにほぼ左右対称の姿勢でベッドに横たわって、香穂の右手は島田りさ子の白い左手を握り、りさ子の左手も香穂の細い手を握り、そうして二人で閉じた世界を作ろうとするみたいに、互いに相手に向かって上体をひねった姿勢で、少し汗ばんだ額と額をくっつけ合っていた。ふたりの顔の間に眼鏡はなかった。
敷居を越え、息を殺して数歩近づくと、半開きの唇をほとんど触れそうなほど寄せ合って目を閉じた二人の少女の、華奢な、あるいはふくよかな肩や胸が、各々の呼吸のリズムで開いたりしぼんだりを繰り返し、ショートパンツから伸びた四本の脚が、ベッドの縁からぶらんと下がり、そのうちの真ん中の二本、するりと細く浅黒い右脚と、ふんわりと肉付きの良い白い左脚が寄り添うように並んで、足首から先はいっしょに、銀色のクッキー缶に詰まった砂に沈んでいた。
どうすれば正解だったのか。二人の間に割って入ればよかったのか、香穂だけでも叩き起こして砂から抜け出させるべきだったのか、それとも大人の手に委ねればどうにかしてくれたのだろうか。
でも何もしなかった。罰を受けるような気持ちでただ二人の姿を見つめるばかりで、何もできなかった。
この部屋の、このベッドの前に立ったまま。
それから数日後、大人たちに黙って浜に出た香穂と島田りさ子は、沖合い二キロの地点で陥没性の砂流に呑まれ、そしてその二日後に偶然通りかかった巡検中の砂防課職員によって助け出されたのは、鼻と口だけがかろうじて砂から出ている状態で発見された島田さん一人だけで、香穂のものは何ひとつ、靴も、着ていたらしい制服のブラウスやスカートも、赤いセルフレームの眼鏡も見つからなかった。
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