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第24話 パンケーキ
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頭痛とともに目覚めてすぐ、ルイに譲っていたはずのベッドに自分が寝ていることに気づき、あの子はどこにいるのかと、部屋の中に視線と意識を巡らせていると、本人がドアを開けてひょっと顔を見せ「おはようございます」と明るい声を出し、「できることはぜんぶやっておきました。空中砂量計のサンプルの計量だけは分からなかったけど」と言った。
まず昨夜のことを詫びようと思っていたのに、そのための言葉が出てこなかったのは、ルイの屈託の無い笑顔のせいだけではなく、まだ子どもらしさを残した鼻と、切り揃えられた髪の下に露わになった左右の耳との間に、繊細でありながら、その面差しの印象を大きく変えてしまう銀色の構造物が架けられているのに気づいて、別種の強い感情が瞬時に沸き起こったからで、ほんとうはどういうつもりなのかと尋ねたかったのだけれど、何をどんな口調で言っても咎め立てしているように聞こえてしまいそうで、言葉にできなかった。
もちろんルイも、香穂の眼鏡がこの家の中でも特別に大切なものであることは分かっているはずで、この聡明な子どもが、他ならぬ今日のこの日の朝にこのフレームを掛けて現れたのが、ただのいたずらや悪ふざけであるはずがなかった。
「ありがとう、ルイ。君がいてくれて本当に助かる」
その言葉にルイは、レンズの無い素通しのフレーム越しに目を細めて、にっと白い歯を見せて笑ってくれたけれど、今日が木曜日で明日は約束の金曜日だから、こうしてこの部屋でルイと顔を合わせていられるのもたぶんこれが最後だと思うと、この子がここにいたのはほんの数日だったというのに、人生において重要なものをひとつ失おうとしている気がした。
「他に何かしましょうか?」
「いや、いいよ。今日は何も」
できる限り何気なくそう答えてはみたものの、フレームだけの眼鏡の位置を指先で直しながら、小首を傾げて何か問いたげなルイの顔を見ていると、どうせ何かがおかしいと気取られているのなら、最後にこの子のために何かしてやろう、いやふたりで何かしようという気になり、ふと脳裏に浮かんだのが、一緒に食べ物を焼いて味わうというイメージだったのは、バーベキューをしたりとかみんなでお好み焼きを作ったりとか、たとえばそんな経験がいつまでも心に残るということが、古い世界ではよくあったからだろう。
「ルイ、パンケーキを焼こう」
「パンケーキって何ですか?」
たしか随分前に配給された食料品の中にベーキングパウダーが入っていて、こんなもの何に使えって言うんだろうと思っていたのだけど、小麦粉も乾燥卵もあるし、ふたりで簡単なパンケーキを焼いて食べるというのは悪くないアイディアに思えた。
フライパンでは一枚ずつしか焼けないから、資材置き場からちょうどいい大きさの鉄板を見つくろって来てきれいに洗い、簡易コンロを二つ並べた上に置くと、ふたりで食料のストックをかたっぱしからひっくり返して使えそうなものを探した。
「お、砂糖が残ってるな。カラメルソースが作れるかも」
「これはどうですか?」
「ドライトマト? 試してみようか」
「いちごジャム?」
「いいね。レーズンもあったよ。これは混ぜて焼いてもいいな」
鉄板に生地を丸く広げると、ぷつぷつと音がし始め、やがて香ばしい匂いが部屋に広がる。
「これがパンケーキ?」
「見ててごらん」
木を削った箆とナイフを使って裏返すと、思った以上にきれいに焼き色がついていたので、「わあ、きれい」と目を輝かせているルイにも道具を渡してやらせてみると、流石に器用な子だけあって、一枚目は心もとなかったけれど、二枚目、三枚目となると苦もなくきれいにひっくり返すことができるようになり、それからは二人で次々と焼いては裏返し、また焼いては裏返し、レーズンにカラメルソース、いちごジャム、ドライトマト、マーガリン、レトルトのしるこ、缶詰みかんの汁を煮詰めたシロップと、いろいろ乗せたり挟んだり試しながら、二人ともお腹いっぱいになるまで食べつづけた。
何か口に入れるたびに「おいしい!」と感激し、何か言うたびに手を叩き、銀色のフレームの奥で目をきらきらさせてずっと楽しそうに笑っているこの子どもを、半ば砂に埋もれたこの家に残して行くなんて、自分でも信じられないくらいひどいことなのけれど、だからと言って島田りさ子との約束を反故にしようとは全く思わず、ルイがかわりに監砂台を引き継いでくれないだろうかなどと考えてさえいた。
それから夜までずっと、ルイはレンズの無い香穂の眼鏡をかけたままで、本を読んだりお茶を飲んだり何かしゃべったりしていた。
県庁との無線がつながったのは、ベッドで声に出して読書していたルイが、本をことんと取り落として眠りに落ちた直後だった。
まず昨夜のことを詫びようと思っていたのに、そのための言葉が出てこなかったのは、ルイの屈託の無い笑顔のせいだけではなく、まだ子どもらしさを残した鼻と、切り揃えられた髪の下に露わになった左右の耳との間に、繊細でありながら、その面差しの印象を大きく変えてしまう銀色の構造物が架けられているのに気づいて、別種の強い感情が瞬時に沸き起こったからで、ほんとうはどういうつもりなのかと尋ねたかったのだけれど、何をどんな口調で言っても咎め立てしているように聞こえてしまいそうで、言葉にできなかった。
もちろんルイも、香穂の眼鏡がこの家の中でも特別に大切なものであることは分かっているはずで、この聡明な子どもが、他ならぬ今日のこの日の朝にこのフレームを掛けて現れたのが、ただのいたずらや悪ふざけであるはずがなかった。
「ありがとう、ルイ。君がいてくれて本当に助かる」
その言葉にルイは、レンズの無い素通しのフレーム越しに目を細めて、にっと白い歯を見せて笑ってくれたけれど、今日が木曜日で明日は約束の金曜日だから、こうしてこの部屋でルイと顔を合わせていられるのもたぶんこれが最後だと思うと、この子がここにいたのはほんの数日だったというのに、人生において重要なものをひとつ失おうとしている気がした。
「他に何かしましょうか?」
「いや、いいよ。今日は何も」
できる限り何気なくそう答えてはみたものの、フレームだけの眼鏡の位置を指先で直しながら、小首を傾げて何か問いたげなルイの顔を見ていると、どうせ何かがおかしいと気取られているのなら、最後にこの子のために何かしてやろう、いやふたりで何かしようという気になり、ふと脳裏に浮かんだのが、一緒に食べ物を焼いて味わうというイメージだったのは、バーベキューをしたりとかみんなでお好み焼きを作ったりとか、たとえばそんな経験がいつまでも心に残るということが、古い世界ではよくあったからだろう。
「ルイ、パンケーキを焼こう」
「パンケーキって何ですか?」
たしか随分前に配給された食料品の中にベーキングパウダーが入っていて、こんなもの何に使えって言うんだろうと思っていたのだけど、小麦粉も乾燥卵もあるし、ふたりで簡単なパンケーキを焼いて食べるというのは悪くないアイディアに思えた。
フライパンでは一枚ずつしか焼けないから、資材置き場からちょうどいい大きさの鉄板を見つくろって来てきれいに洗い、簡易コンロを二つ並べた上に置くと、ふたりで食料のストックをかたっぱしからひっくり返して使えそうなものを探した。
「お、砂糖が残ってるな。カラメルソースが作れるかも」
「これはどうですか?」
「ドライトマト? 試してみようか」
「いちごジャム?」
「いいね。レーズンもあったよ。これは混ぜて焼いてもいいな」
鉄板に生地を丸く広げると、ぷつぷつと音がし始め、やがて香ばしい匂いが部屋に広がる。
「これがパンケーキ?」
「見ててごらん」
木を削った箆とナイフを使って裏返すと、思った以上にきれいに焼き色がついていたので、「わあ、きれい」と目を輝かせているルイにも道具を渡してやらせてみると、流石に器用な子だけあって、一枚目は心もとなかったけれど、二枚目、三枚目となると苦もなくきれいにひっくり返すことができるようになり、それからは二人で次々と焼いては裏返し、また焼いては裏返し、レーズンにカラメルソース、いちごジャム、ドライトマト、マーガリン、レトルトのしるこ、缶詰みかんの汁を煮詰めたシロップと、いろいろ乗せたり挟んだり試しながら、二人ともお腹いっぱいになるまで食べつづけた。
何か口に入れるたびに「おいしい!」と感激し、何か言うたびに手を叩き、銀色のフレームの奥で目をきらきらさせてずっと楽しそうに笑っているこの子どもを、半ば砂に埋もれたこの家に残して行くなんて、自分でも信じられないくらいひどいことなのけれど、だからと言って島田りさ子との約束を反故にしようとは全く思わず、ルイがかわりに監砂台を引き継いでくれないだろうかなどと考えてさえいた。
それから夜までずっと、ルイはレンズの無い香穂の眼鏡をかけたままで、本を読んだりお茶を飲んだり何かしゃべったりしていた。
県庁との無線がつながったのは、ベッドで声に出して読書していたルイが、本をことんと取り落として眠りに落ちた直後だった。
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