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満月まであと二日

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 あくる日の聖歌塔はこの時期珍しいほどの雨音に包まれていた。
 竜の神殿と同じ渓青岩で築かれたこの建物は、清らかな淵に墨を一滴溶かしたような特有の色合と瀟洒しょうしゃな佇まいとで他の建物とは一線を画している。
 辺りの草木がしっとりと濡れ若芽が絶えず玉のような雨粒を戴いている様子は、聖歌塔から恵みの雨が降り注いでいるようにも見えた。
 平素はその名の通り神官や聖歌専門の技官が祈りの歌を捧げる場だが、今日は二人の歌鳥が賑やかにさえずっていた。

 聖歌塔に着くや否や、楽譜を開くこともなくアメジストはにこやかに告げた。
「とりあえず何か一曲歌っていただきましょうか」
――えっ今ですか?
 まさかそう口に出すわけにもいかないので、心の中で念じるに留めておく。
 お茶でもいただきましょうか、と同じくらい軽い調子で提案されて面食らったが、もじもじして無為な時間を過ごすわけには行かない。昨日図書塔で決意した想いを反芻し、嫌がる自分をなんとか鼓舞した。

 シトリニアが一人で何かと戦っている様子をアメジストは不思議そうに見つめた。
「あら、本当になんでもいいのよ?」
 そう促されて意を決し、曲は一番歌い慣れているはずの聖歌を選んだ。
――聞かれるのはアメジストだけだから大丈夫
 そう自分に言い聞かせて小さくうなずくと、大きく深呼吸して口を開いた。

 久しぶりに聞く自分の歌声は消え入りそうなほど細くて小さく、音程もおぼつかない。一生懸命歌っているシトリニア自身が聞いていて落ち着かない気持ちになるほどだ。
 音程はひな鳥が初めて羽ばたくように幾度となくよろよろと上下し、音程に自信がないからか声量すらも生まれたての小鹿のように覚束ない。
 それでも何とか最後の小節に着陸して消えるように終わった後、歌鳥たちの間に重い沈黙が流れた。

 アメジストはあごに手を当てて思案していたが、やがて歩を進めると神官が御説話みせつわの際に使用する教壇の前に立った。
「そうね。まず、腹筋ってご存知かしら、シトリニア」
 身につけた柳緑のドレスの裾には林檎の花がたっぷり刺繍されている。喉元の詰まったデザインのドレスと一つにゆるく編んで肩に流した髪型とが、凛とした佇まいを引き立ててまるで姫神官のように神々しい。
「知っています。ここです」
 姫神官に尋ねられたシトリニアは、優秀な聖歌技官のように自信に満ちた表情でうなずくと、桃色のドレスに包まれたお腹をぽん、と叩いて見せた。
 雪のように白いレースで丸い襟ぐりを縁取った桃色のドレスは、シトリニアお気に入りの一着だ。ウエストの切り替えから下はシフォンが重ねられているのもかわいい。髪は耳上だけを編み、後ろで束ねて真珠のピンで留めてもらった。

 花の妖精のような出で立ちでお腹を叩くシトリニアに微笑みかけながら、アメジストは鷹揚にうなずいた。
「正解ですわ。ではそこから声を出すもりでもう一度聖歌の冒頭を歌ってみて」
 シトリニアはきょとんとして空色の瞳を見開いた。
「え、歌って喉から出るものではないの?」
 予想外の答えにアメジストはあきれたように空色の瞳をつむった。少し考えた様子だったが、そのまま教壇に頬杖をついてしまう。
 過去のあらゆる場面で歌を避けてきたシトリニアに対し、半ば天賦の才で歌い上げるアメジストが助言するのは想像以上に前途多難そうだった。

「念のため聞きますけど、今まで歌を指導されたことはありまして?」
 下手な歌を聴かれるのがあまりにも恥ずかしくて、もはや無意識の行動として歌が関わる機会を避けてきたシトリニアは過去の自分を思い起こすために虚空を見上げた。高い天井で磨き抜かれた渓青岩が淡い光を反射している。
「変な言い方だけど、みんな私が上手に歌えると思い込んでいるみたいだったから聖歌技官の授業も無くて。それでいつの間にか自分から言う機会を逃してしまって……礼拝の時なんかは、できるだけ声を小さくして歌っていたの」
「わかりました」
 自分の口からどんどん言い訳めいた言葉が出てくることにうんざりして言葉を切りそうになったが、切り返すのはアメジストの方が早かった。形のよい眉がキリキリと上がっている。
「自分で聞いておいて申し訳ありませんけど。私、努力しない方の言い訳は嫌いですの」
「うぅ」
 我が身の非を射抜かれてシトリニアはうなだれそうになったが、過去を悔いている暇はないことを思い出して止めた。儀式まで残された時間はあまりに少ない。あとたった二晩眠るだけで満月の日を迎えてしまう。
「本当にあなたの言うとおりよ。とにかく私、腹筋から声を出せるように練習してみるわ」
 気を取り直して両手をお腹に置くと、腹筋の存在に意識を集中して発声してみる。

――しかし、腹筋から声を出すってどういうことかしら。歌は喉から出すものと思っていたけれど、まさかアメジストほどの歌い手になると腹筋にも声帯が……?
 シトリニアの声から迷いの香りを感じ取ったのか、アメジストはめくっていた楽譜を壇上に置いたまま歩み寄った。
 「まぁでも、言われていきなり意識するのも難しいと思いますわ」
 シトリニアは餌をもらった雛鳥のように口を閉じると、こくりとうなずく。
「軽く歌ってみますから、聞いていらして」
 隣に立って姿勢を正すと、可憐な異母妹に手を差し出して微笑んだ。
「お手を」
「は、はい」
 まるでダンスに誘われるように手を重ねると、アメジストはその手を柳緑のドレスに包まれた腹部に当てさせた。
 驚くシトリニアに質問の隙を与えず、すぅっと息を吸うとまっすぐ前を見て歌い始める。
――すごい
 アメジストが歌う『清流の調べ』は圧巻の声量だった。
 歌声は聖歌塔全体に満ち、喜びに震えるように反響している。この歌声と比べたら、自分の声なんて雨どいから滴る水滴のようにおぼつかない。
 歌っている間もアメジストはシトリニアの手を離さずあちこち動かして当てさせたが、そんなことをしていても音程に不安なところがなく、敷かれた道の真ん中をまっすぐに歩むような安定感がある。
 シトリニアはただただ手を引かれるがままに、アメジストの細い身体の中でしなやかに息づく筋肉を感じた。

 聖歌塔いっぱいに満ちた甘い余韻が去ると、アメジストはシトリニアの手を離した。
「こんな感じですわ。なにかコツを掴めたかしら」
 先ほどまで神々しいほどの歌声を奏でていた唇から、いつもどおりの調子で言葉が生まれるのをシトリニアは不思議に感じた。
「すごい。あなたは本当に正真正銘の歌鳥だわ」
 自らの胸に湧き上がった感動を少しでも伝えようとキラキラした瞳で語るシトリニアに対し、アメジストはうんざりするほど聞きなれている、といわんばかりの形式的な笑顔を返した。
「ありがとう。でも、あなただって正真正銘の歌鳥なのよ」
「……そうでした」
 思えば幼い日に木陰で歌って以来、アメジストの歌声を聞くのは初めてだった。絶世の歌姫の名声は名高かったが、伝聞には尾ひれが付くもので実際に相見あいまみえるまではその正確さを判断できない。
 しかし実際に異母妹の歌を耳にすると、噂のほうが過小評価と言ってもいいくらいだった。
 客観的に判断するならアメジストにとってシトリニアはお荷物なことが完全に証明されてしまったわけだが、あまりに次元が違うので僻む気にもならなかった。
 シトリニアの心は清々しい感動に満ち、少しでも近づきたいという純粋な意欲を沸き立たせている。

「さて、喉を少し潤したら始めましょうか」
「はい!」
 ハンナが持たせてくれた水差しの水で一息つくと、シトリニアは張り切って発声練習を始めた。
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