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夜の狭間で

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 私は渓青岩でできた美しい回廊を歩いていた。
――そうだ。今日は儀式の日で、私は竜の神殿にいる
 こんな当たり前のことをなんで忘れていたんだろうと思いながら、改めて周囲の景色を見た。

 回廊自体の幅は広くはないが天上は抜けるように高い。渓青岩の透き通るような暗い青色を見上げるうちに、水底を歩いているような不思議な錯覚を覚えた。
 一定間隔を置いて出現する太い円柱ももちろん渓青岩で、その上部にはそれぞれ異なる彫り物が施されている。身をくねらせる軟体生物や勢いよく跳ねる大きな魚など、少し不気味だが見ていて飽きることがない。
 足元の渓青岩がまるで職人の手で磨き上げたばかりのように輝いているのは、建設当時からほとんど立ち入る者がいないからだろう。靴底が当たるたびにしずくが水を打つような音が心地よくこだまし、不安な気持ちが少し安らいだ。
 隣を見れば、アメジストがぴったり同じ速さで歩いている。その表情は豊かな黒髪に遮られて見えないが、ここにいるのが自分一人ではないことに安心した。
――万全を尽くして練習したんだもの。二人ならきっと上手くいくわ
 心の中で自分に言い聞かせるように唱えると、奥へ奥へと歩みを進めた。

 やがて回廊は終わり、ぽっかりと広い空間が現れた。
 天井は丸く切り取られ、満月の光がいっぱいに注いでいる。あまりに月が明るいので、星が全て消えてしまったかのように空は暗い。
 その光を一身に浴びて横たわっているのは、虹色に輝く竜だ。
――なんて大きいの
 私は息を飲んだ。その大きさは今まで目にしたどんな生き物とも比べようながなく、ウロコの一枚一枚でさえ私の手のひらには収まりそうになかった。とぐろを巻いて横たわる姿は、小高い丘と表現したほうがふさわしいだろう。
 眠りを妨げる来訪者の気配を感じ取ったのか、そのまぶたが開いた。猛禽類のような濃い黄金色の瞳が現れ、漆黒の瞳孔がぎょろりと私の姿を捉えた。
「来たか」
 気だるげに頭をもたげたると、そのあまりの大きさに見る見るうちに黄金の瞳が遠くなった。圧倒的な力を誇示するかのように私を冷たく見下ろしている。
「ナイチンゲールはどうした」
 不機嫌を隠そうともしない様子で発せられた問いに驚いて、急いで周りを見渡した。

「うそ……」
 驚きのあまり思わず喉から声が漏れた。
いつの間にか傍らのアメジストが消えている。
 ありえない、と脳が視覚を強く否定した。
 記憶にある限り回廊は一本道だったし、ずっと隣を歩いて来たのだから一人だけ迷うはずもない。
 私は混乱し、ただうろたえた。
 二人でなければ儀式は成功しない……どうしようどうしようどうしよう。

「身の程もわきまえず、おろかな娘だ」
 怒りをあらわにした声が雷のように響いて身体を駆け巡り、はじかれたように竜を見上げた。
 怒りで半ば開けられた口には、凶悪な鋭さの牙が二重三重にびっしりと並んでいる。それが岩をも噛み砕くであろうことは混乱した頭でも容易に察しがついた。
――頭を砕かれ地に落ちる(・・・・・・・・・・)
 図書塔で見つけた歌の一節が脳裏によみがえった。
 とにかく逃げようとしたが、足はまるで泥に浸かったように言うことを聞かない。
「なんで動かないのよ!」
 悲鳴に近い声で叫び必死で振り返ると、もうすぐそこに竜の頭が迫っている。
 その背後では星のない空に大きな月が、おろかなカナリアを逃すまいとするかのように強く強く照らしつけていた。
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