上 下
15 / 18

『昔見た景色と今見る景色』

しおりを挟む
 菜花さんに癌が再発したことを告げられたあの日から、時間だけが闇雲に過ぎていった。
 僕は現状をどうにかする明確な手立てを見つけられないまま、それでも菜花さんと会話をすることによって何か解決策が見つかるかもしれないと、この5日間の間に彼女にメッセージを送ったり通話を試みたりと自分なりに出来ることを頑張った。
 だけど、送ったメッセージには既読が付かず、着信も拒否されているのか菜花さんから一度も応答は得られないまま。
 こうなったら直接会って話すしかない。そう思い立った僕はユキカさんの家に訪れていた。

「いらっしゃい。どうぞ、中に入って」

 インターホンを鳴らすと、ユキカさんは僕がここに来た要件を分かっていたのか、何も聞かずに僕を家の中に招き入れた。
 僕はユキカさんに案内されるがままにリビングに通され、そして椅子に座らされた。

「せっかく来てもらったのに申し訳ないのだけれど……今はこの家に旭ちゃんはいないの」

「どこかに出かけているんですか?」

「いいえ、そうじゃなくてね……。四葩君と話して帰って来た後、すぐに実家に帰りたいって言い出しちゃって……いきなりのことだったし、来月には卒業式があるからそれが終わってからでいいんじゃない? って止めたんだけど……次の日には1人で電車を使って実家に帰っちゃったみたいで……」

「そ、そんな。じゃあ卒業式まで菜花さんは戻ってこないってことですか?」

「それが……どうしても四葩君に会いたくないみたいで、卒業式にも出ないってあっちで駄々をこねてるみたいで……私たちも手に負えない状態なのよ」

 ユキカさんはそう言って困ったような表情で苦笑していたが、僕は想像にもしてなかった菜花さんの行動に苦笑いすることさえ出来なかった。
 どうやら僕は菜花さんの覚悟を見誤っていたらしい。
 たとえ連絡がつかなくても、ここで会うことが出来なかったとしても、卒業式の日には必ず会えるから、その時にでも菜花さんを無理矢理引き留めそこで話をすればいいと、そう僕は高を括っていたのだ。
 菜花さんは4月から本州の美大に通うことが決まっている。
 このまま連絡をとることも出来ず、直接会うことも出来ないまま菜花さんが本州に渡ってしまえば、冗談ではなく本当に2度と菜花さんと会うことが出来なくなるかもしれない。

「お願いします! 菜花さんの実家の場所を教えてください!」

 僕は焦りながらユキカさんに懇願する。
 だけど、ユキカさんは無情にもその首を横に振った。

「それは出来ないわ」

「っ……どうしてですか? 僕が会いに行くことで菜花さんだけでなく、菜花さんの両親にも迷惑がかかるからですか? そんなこと僕だって分かってますよ。今の状態の菜花さんを変えることが出来るなんて、そんなたいそれたことは言えません。それでも僕は菜花さんに会わないといけないんです!」

「落ち着いて四葩君。旭ちゃんと会って、四葩君はいったい何を話すの? 伝えたいことはちゃんと決まってる? 考えもなしにむやみやたらと会いに行くだけじゃ、前と同じことを繰り返すだけよ?」

「そ、それは…………そうですけど……」

 僕はそれ以上言葉が続かずに口ごもった。
 ユキカさんが先に言ったことは正しく、返す言葉が見つからなかった。
 会うことさえ出来ればなんとかなる。その考えが甘い期待であることなんて、僕だって当然分かってる。
 でも、それ以外に出来ることが……僕には何も思い付かなかった。
 
「私の母さんは私が物心つく前に癌で亡くなったわ。代わりに父さんが男手一つで私を育ててくれたけど、その父さんも私が高校生の時に癌で亡くなった。そして私の旦那も……癌という病気はね、私たち家族にとって死という言葉を連想させる病気なの。なにも四葩君に旭ちゃんのことを諦めてほしいとは言わないわ。きっと旭ちゃんも本当はそれを望んではいないと思うから。だけどね、旭ちゃんに時間をあげてほしいの。治ったと信じていた癌が再発したり、会いたくないって思うほど四葩君と揉めたり、この短期間の内に悲しいことが集中し過ぎて今は辛い時期だと思うから。だから、気持ちに整理がつくまで待っててあげて。それに、四葩君の方にも時間が必要だと思うしね」

「時間って……なんのですか?」

「そんなの決まっているでしょ? 旭ちゃんの心を救う準備をするための時間よ」

「……僕は何の準備をしたらいいんでしょう? 僕が菜花さんに出来ることって、あるんでしょうか?」

「それは私よりも四葩君の方が知っているんじゃないかしら? 投げやりな感じになって申し訳ないけど……根拠ならちゃんとあるわよ」

「根拠……ですか?」

「旭ちゃんは毎日のように四葩君のことを私に話してくれたわ。これを勝手に四葩君に話したことがバレたら、旭ちゃんに凄く怒られるかもしれないけど――」

 そう前置きをして、ユキカさんはこれまで菜花さんから聞いてきた僕の話を色々と語ってくれた。
 菜花さんが僕と初めて会話を交わした日、ずっと話したかった人と話せて喜んでいたこと。僕と初めて遊んだ日、僕が楽しんでくれるか不安だったが、僕に楽しかったと言ってもらえて安堵していたこと。コスモス畑に行った日、夢に対して迷いのあった菜花さんを僕が励まし優しい言葉をかけてあげたのを笑顔で語っていたこと。過去に癌を患っていたことが僕にバレた日、部屋の中でわんわんと声を上げて泣いていたこと。神社で僕と仲直りした日、僕に告白されたことを家に帰ってからずっと何度も何度も嬉しそうに繰り返し話していたこと。
 ――ここには全てを書き記せないほどの沢山のことを、ユキカさんは僕に教えてくれた。
 僕はそれを聞いている内にこれまでの菜花さんとの思い出が蘇り、目頭がぐっと熱くなった。

「全部が全部ではないけれどね、旭ちゃんが四葩君の話をする時は幸せそうな顔をしていたわ。だから、きっと四葩君なら出来る。今はどうすればいいか分からなくても、時間をかけて考えれば良い解決策が思い浮かぶはずよ。それが思い浮かんだらまた私のところに来なさい。その時に四葩君が自信に満ち溢れた顔をしていたら、旭ちゃんがいる場所を教えてあげるから」

 そう言って、ユキカさんは最後に「大丈夫。四葩君にしか出来ないことがきっとあるわ」と微笑んだ。
 おそらく僕は頼りない不安そうな表情を浮かべていて、そんな僕を元気付けるためにユキカさんはそう励ましてくれたのだろう。
 それなのに僕は、任せてください、やってみせます、みたいな気持ちの良い返事をすることは出来ず、ただ「ありがとうございます」と礼を言うことしか出来なかった。
 その後、僕は温かいお茶と茶菓子をご馳走になり、ユキカさんの家をあとにした。
 家に帰るまでの道中、僕は俯き歩きながら考える。
 僕にしか出来ないことがきっとあると、ユキカさんはそう言ってくれた。
 だけど、人に誇れるようなものが何もない僕に……いったい何が出来るんだろう……。
 結局その答えは家に帰ってからも、見つかることは無かった。

 



 あの日から菜花さんに会えないまま、時間だけがただただ過ぎていった。
 ユキカさんの話していた通り、菜花さんは卒業式にも来ていなかった。
 その卒業式からも2週間もの時が経過していて、あと2週間もすれば僕は仕事が始まり、晴れて社会人の仲間入りとなる。
 親伝いの情報だと、大学や専門学校に通う同級生の何人かはもうこの町を出て、新しく住む場所へ旅立っているのだとか。
 もしかしたら、もう菜花さんも本州に渡ってしまっているのかもしれない。
 ユキカさんは次に僕と会った時に僕が自信に満ち溢れている表情をしていたら、菜花さんがいる場所を教えてくれると言っていたが……その日は訪れるのだろうか?
 未だに僕は何一つとして良い解決策が思い付かず、失くした探し物を探す様に、特にアテもなく住宅街を散歩している。
 ここの街並みは数年前から変わらないのに、周りの環境はどんどんと変化していく。
 時間の流れはあの日から置き去りになっている僕の心を待ってはくれない。
 僕は一回ため息にも似た深呼吸をして、空を見上げる。
 澄み渡る真っ青な空には油絵で描かれたような色濃い雲がいくつか漂っていて、手を伸ばせば届きそうなほど近くに感じた。
 今度は南側を眺める。
 西から東にかけてどこまでも拡がっているように見える四国山脈にはところどころに咲き出した桜が山化粧を始めていて、高山植物や松や杉などの様々な種類の緑と調和していた。
 今度は北側を眺める。
 紙の町と称されるこの町のシンボルとも言える製紙工場の煙突群から吐かれた煙は今日も青いキャンバスに白線を描いていて、その奥に見える瀬戸内海は今日も穏やかで、静かにゆらゆらと揺れ動く海面が太陽の光を煌びやかに反射させていた。
 目に映る景色の全てが……美しいと思えた。
 そう……本当に心の底から、美しいと思ったんだ。
 去年までは特別なんてものが無かった見慣れたはずの色褪せた景色が、色鮮やかに世界を染め上げていた。
 ……いや、きっと今見ている景色は去年の春に見た景色となんら変わらないものなのかもしれない。
 変わったのは僕だ。
 菜花さんがカメラとの出会いで人生が変わったように、彼女との出会いが、彼女と一緒に過ごした日々が、僕の人生を変えていった。
 温かい気持ちが胸に染み渡っていくのを感じながら、僕は神社の鳥居を潜る。
 昨日も座ったボロボロのベンチには近くの木の葉っぱや茎などが少しばかり散り落ちていて、僕はそれらを払い除けて腰を下ろした。
 僕はポケットからスマホを取り出し、メモ欄を開いて[小説]と題が打ってあるファイルをタップする。
 画面に表示されたのは書きかけの小説。
 展開、文章、セリフ――あらゆるものが上手く進行している書きかけの小説だ。
 僕はいつものように思いついた文章を手当たり次第に書き連ね、あらかた書き終えた後にその文章を読み返す。
 そして、それらの文章を修正し、加筆し、次々と物語を書き進めていく。
 そうやって小説を書き進めていると、突然スマホの画面に水滴が落下した。
 一気に視界がボヤけて、書いている文字が読めなくなる。
 ……あぁ、本当に……なんて馬鹿なことをしているんだろう。
 卒業式の次の日から僕は毎日この神社に通い、小説を書いていた。
 ここで小説を書いていれば、また菜花さんに会える――そんな気がした。
 そんなことあるはずないと分かっているのに……。
 もういっそのこと諦めてしまったほうが楽なんじゃないかと、そんな考えがこれ迄に何度も何度も頭を過ぎった。
 違う誰かを選べばいい。この世の中にはそっくりな人間が3人はいると、どこかで聞いたことがある。菜花さんに限りなく似ている人を頑張って探せばいい。たとえそれが無理な話だったとしても、類似品はいくらでもある。容姿、性格、趣味――何かしらの特徴が菜花さんと一致する人を何千万といる中から見つけ出せばいい。きっと、そっちの方が良いに決まっている。
 菜花さんの声も、仕草も、顔も、名前も――年月が経てば嫌でも全てを忘れさせてくれるだろう。
 そうやって必死に自分に言い聞かせた。何度も何度も何度も何度も――だけど、一度でさえ納得は出来なかった。
 菜花 旭という人間はこの世にたった1人しか存在しない。
 代わりなんて、存在するはずがない。
 僕が一緒に人生を歩みたいのは、菜花 旭に似ている人なんかじゃない。
 僕が一緒に人生を歩みたいのは、菜花 旭だけだ。
 そう心の底から想っているのに、僕はこの気持ちを菜花さんに届ける術が無くて、菜花さんの心を救う案も思い浮かばなくて、こんな場所で泣くことしか出来ない自分が、悲しくて情けなくて悔しくて堪らなかった。

「おいおい、なんで泣いてんだよ?」

 頭の上から降ってきた聞き覚えのある声に、僕はハッと我に返り顔を上げる。
 そこにいたのは菜花さん……ではなく、藤だった。
 藤は困惑した表情を浮かべ、僕を見下ろしていた。

「藤……どうしてここに?」

「明日から本州に出発するからよ。18年間過ごしてきたこの町を出て行く前によく見ておこうって思ってな。そんで、ふらふら~と散歩してたわけよ。って、そんなことよりもだ。なんで泣いてんの?」

 藤の再びの指摘に僕は慌てて目を擦る。
 今さら何でもないフリは無理があるし、どう誤魔化そうかと思っていると、藤は「あっ、ちょっと待ってろよ」と言い残し、急に走り去っていった。
 そして、藤に言われるがまま待つこと数分。藤は両手に缶のサイダーを持って再び戻ってきた。

「これ好きだっただろ? そこのジーハンで買ってきたんだ。ていうか、この神社懐かしくね? 覚えてる? 幼稚園の時とか小学低学年ぐらいの時はよくここで鬼ごっこしたりかくれんぼしたりサ野球とかして遊んだよな」

 藤は僕の隣に座るとサイダーを僕に渡し、自分の分のサイダーを開けてゴクゴクと喉を鳴らしながら流し込む。
 そして、藤はそれを一気に飲み干すと「あー! うまいっ!」と豪快に笑った。
 僕はその10秒にも満たない時間、貰ったサイダーを開けないまま、ずっと藤の方を見つめていた。

「あれ? どうしたんだよ? 飲まねぇの? 奢りだから遠慮すんなって」 

「……奢るのを条件に僕が泣いていた理由を聞き出そうって魂胆だろ?」

「なぁ⁈ ばっ、バカっ! 物で釣ろうとか、そんな意地汚いことするかよ! 俺はただ落ち込んでいる友を励まそうとしただけだっつーの!」

「……本当に?」

「本当だよ……俺を悪魔かなんかだと思ってんのか? まったく……出会い頭は勢いで聞いちまったけど、よくよく考えてみりゃあ夕が泣いているところを見たのなんて幼稚園の時ぐらいが最後だしな」

 藤はそう言って、頭の裏をわしわしと掻きながら顎をしゃくらせ、視線を何もない斜め上に向ける。

「まぁ……その、なんだ……何があったのかは興味はあるよ。本音を言ってしまえば、そりゃあな。だけど今の夕が泣くってことは、それって余程のことがあったってことだろ? だから、夕が自分から話しをするまで俺は聞かない。まっ、こうやって隣にいて適当なことを話すだけでも、気分転換ぐらいにはなるだろうしな」

 藤は表情を緩ませながらそう言うと、頭の後ろに両手を組んで大袈裟に体を仰け反らせながら空を見上げた。
 藤は話している間、一度も僕を見なかった。
 その行為が僕にとっては催促になってしまうことを、藤はきっと理解していたからだ。
 ……僕は手に持っている藤から貰ったサイダーを見つめながら考える。
 僕が小説を書いていることも、菜花さんとのことも、いつか藤に全てを話せる日が来ればいいと、僕はそう思っていた。
 藤は明日から本州に行くと言っていたが、時々連絡を取り合いはするにしても、これまでのように気軽に会うことや今日みたいに偶然会うことはなくなってしまうだろう。
 僕は藤のことを親友だと思っているし、藤も僕のことを親友だと……思ってくれてはいるはずだけど、環境が変わって会えない日が長く続いてしまえば、これまでと同じ関係でいられるかどうかは分からない。
 たぶん僕はずっと四国暮らしだが、藤は大学卒業後は本州で就職する可能性だってある。
 そこで伴侶を見つけ、家庭を築けば……僕との関係は段々と希薄になっていくだろう。
 それを僕は……寂しいと感じた。
 一番仲の良いと言える友人に、大切なことを何も話せないままで疎遠になってしまうのは、嫌だと思った。
 全てを話せる日、というのは今日だけなのかもしれない。
 いや、きっとそれは今日だけしかなかった。

「あのさ……藤に話したいことがあるんだ――」

 そう切り出して、僕は藤に全てを話した。
 僕が小説を書いていて、それをネットに上げていること。それがバレてしまったことがきっかけで菜花さんと遊ぶようになったこと。菜花さんが過去に癌を患っていたことを知って、菜花さんと喧嘩したこと。菜花さんと仲直りした日、僕が菜花さんに告白したこと。告白の返事は保留となり、菜花さんの癌が完治する2年後まで持ち越されることになったこと。そして――菜花さんの癌が再発して、今の状況に至るということ。
 全部、全部を藤に話した。
 僕が喋っている間、藤は口を挟まず、空を見上げたまま僕の話しを聞いていた。

「――というわけで、ここで小説を書いていたわけなんだけど……」

 僕が話し終えると、藤は顔を引き攣らせて苦笑した。

「いやぁ、菜花さん関連のことだとは思っていたけど……想像してた以上に……うん。ヘヴィな話だな……」

「……うん。もし僕も誰かから同じ話しを聞かされたら、藤と同じ反応をしてたと思う」

「夕の力になってやりたいのは山々だが……すぐには何も思いつかねぇや。すまねぇな」

「謝らなくていいよ。僕なんて1ヶ月以上も何も思い浮かんでないし……」

 僕たちは2人して黙り込む。
 藤は神妙な面持ちで未だに空を見上げていて、僕は持っている缶に浮き上がった水滴が下に垂れていくのを呆然と眺めていた。
 何の種類か分からない鳥の鳴き声と風が木を揺らす音だけが耳に届く。
 静かで漠然とした時間がただただ流れていく。

「……あのさ、今これを言うのは場違いっていうのは流石の俺でも分かってるんだけどさ……夕の書いた小説見せてくんない?」

「……お前な、聞くにしてもタイミングってもんがあるだろ。もうちょっと時間を空けてから聞けよ。せめて家に帰ってからとかさ……」

「この機会を逃したら夕は教えてくれないかもしれないだろ? なんたって6年も俺に隠していたわけだしな。今は勢いで色々と喋ってくれているけど、家に帰って冷静になったら教えてくれないかもしれねぇじゃねぇか」

「いや……もう小説を書いていることは教えたんだから、聞かれたら答えるに決まっているだろ……多分」

「多分って言ったな⁈ 小さい声で多分って! やっぱ心変わりする可能性があるってことだろ!」

「だ、だって……今は教えてあげてもいい気分だけど、家に帰ったら恥ずかしくならないとは言い切れないし……」

「なら今言え! 今! それに……ほら! 夕の書いた小説を読むことによって何か良い考えが閃くかもしれないし!」

 藤は取って付けた理由を述べながら、興奮気味に僕の肩を掴んで激しく揺する。
 もしかして、藤がさっきまで神妙な顔をしていたのは、僕と菜花さんの関係をどうやって修復しようか考えていたのではなく、この重苦しい雰囲気の中で僕の小説を読みたいと言っていいかどうか迷っていたからではないだろうか?
 そうであってほしくは無いけど……きっとそうなんだろうなぁ……。

「……はぁ」

 僕は観念して大きな、それはもう大きなため息を溢す。
 藤に僕が小説を書いていることを教えればこうなることは分かっていたし、それも覚悟の上で僕は全てを打ち明けたのだ。
 恥ずかしさなんてもう既に……いや、実際はとてつもなく恥ずかしいけれど、僕は『四季』という作家名を渋々ながらに藤に教えた。
 それを聞くや否や、藤はなんの躊躇いもなくスマホを取り出して検索をかけ、ネットに上げている僕の書いた小説に辿り着くと、それを読み始めた。
 ……なんとも居た堪れない気持ちになった僕は貰ったサイダーを開けて一口分だけ口に含む。
 温くなったサイダーは炭酸の強さを残しつつも、味はあまりしなかった。
 温くなったせいなのもあるだろうけど、読まれたくないものを隣で読まれている恥ずかしさも味覚を鈍らせている一因だったのかもしれない。
 当然、そんな精神状態の僕が小説を読んでいる藤の反応をまじまじと見ることは出来ず、特にこれといった見たいものは無いのにスマホを意味なくいじったり、サイダーの飲み口に唇を当てるだけ当てて離して飲んだフリをしたりしながら、時々横目でチラリと藤の反応を窺う。
 藤は宝探しをする少年の様な好奇心溢れる輝いた目を僕の書いた小説に向けていて、笑ったり物思いに耽るような顔をしたり急に真剣な顔つきになったりと、表情を次々と変えながら僕の小説を楽しんでいた。
 ――僕の小説を読み始めてから20分ぐらいが経った頃、藤は俯きがちにしていた顔をいきなり上げ、そして僕の方に顔を向けた。
 藤と目が合いそうになり、僕は咄嗟に視線を自分のスマホに向ける。
 ……気のせいだろうか。一瞬だけ見えた藤の目にはうっすらと涙が浮かんでいたような、そんな気がした。

「お前さぁ……なんでもっと早く教えてくれないんだよ。酷え奴だな、本当。6年も秘密にしてたから俺に読まれて恥ずかしくなることや困ることが書かれているのかと思ってたけど、そんなこと全然書いてないしよぉ」

「いやぁ……書いている内容がどうとかじゃなくて、自分の頭の中を覗かれているような気がして恥ずかしくて……」

 藤の顔を見えないまま、僕は人差し指で頬を掻く。
 そんな僕を藤は「わはは!」と豪快に笑い飛ばし、僕の背中を軽く一発だけ叩いた。
 ……いや、叩いたという表現は間違いかもしれない。
 あれは背中を軽く押したと表現した方が合っているような、そういった優しい触れ方だった。

「そんなの何も恥ずかしがることなんてねぇだろ。しゃんと胸を張れよ。夕がやってることは、誰もかれもが出来ることじゃねぇんだからさ。まだ全部は読めていない俺がこんなことを言っても信じてはくれないかもしれないけど……俺は今まで読んできた小説の中で、夕の書いた小説が1番好きだぜ」

 そう言った藤の顔は、きっと笑っていた。
 僕は藤の方を向かないまま、照れ隠しで残っていたサイダーを一気に口の中に流し込む。

「……いや、小説だけじゃねぇな。俺はお前のことも大好きだ」

 ボソリと呟くように言った藤の唐突な告白に、僕は口一杯に含んでいたサイダーを吹き出す。
 それは口元近くに添えていた缶に直撃して色々なところに飛散し、主に僕の上着とズボンが目も当てられないほどの大惨事に見舞われた。

「うおおっ⁉︎ きったねぇなぁ! いきなりどうしたんだよ⁉︎」

「……それはこっちのセリフだよ。まさか男が好きだったとはな……」

「はぁ⁉︎ そ、そんなわけねぇだろうがっ! さっきの好きは恋愛的な意味じゃなくて友人として好きって意味だ! それぐらい分かれ、バカっ!」

「……人の恋愛観はそれぞれだしな。同性同士の恋愛を否定するつもりはないよ。ただ、その対象が自分になるのは勘弁してもらいたいだけで、僕だって異性を恋愛対象と見ているから」

「だから、違うっつーのっ! 俺はな……っ~! あぁ、クソッ!」

 藤は顔を赤色に染めながら前髪をガシガシと掻きむしる。
 流石にさっきのはおふざけが過ぎただろうか?
 冗談だよ、ちゃんと分かってる――僕がそれを言おうとするよりも先に藤の方が口を開いた。

「本当は言うつもりなんてなかったけど……夕だけが隠してたことを言うのは不公平だしな」

 藤は額を手で抑えたまま僕の方に目を向ける。
 顔を真っ赤にしていたから怒っているのかと思いきや、どうやらそれは僕の勘違いで、その様子は藤にしては珍しく、恥ずかしがっているように見えた。
 僕に隠していたことで、藤が恥ずかしいと思うことってなんだろう?
 まさか……本当に僕に好意を抱いている……とか?
 いや、それは無い。ていうか、絶対にそうであって欲しくない。
 となれば、他に考えられることは……コーラの中にメントスを入れる動画をネットに投稿をしている、とかだろうか?
 まぁ、なんにせよ。どうせ下らないことなんだろうなぁ、と僕はそう決め付けていた。
 だけど、それは違った。

「俺さ……実は小さい頃、お前に憧れていたんだぜ?」

 思いもしてなかった藤の言葉に僕は首を傾げる。
 まずは自分の耳を疑った。次に、藤の冗談なんじゃないかと思った。
 だけど、僕を見る藤の真っ直ぐな眼差しが、さっきの言葉が本心だと語っていた。
 でも……僕には分からなかった。
 僕よりも、いや、僕と比べるなんておこがましいと思えるほど藤はイケメンで、高身長で、スポーツも出来て、誰からも好かれる人気者で、唯一の欠点といえば勉強ぐらいだけどそれでも僕よりは上であって、そんな藤が僕のどこに憧れを抱くところがあるのか、僕にはさっぱり分からなかった。

「憧れって……なんで? 藤が僕に憧れる要素なんて何も……」

「お前は自分に自信が無さ過ぎんだよ。それは今も昔も変わらないところだが……でもそのくせして夕は何をするにしても、やる前から諦めることは絶対にしなかっただろ? 自転車に乗れなくて何度転けたって、泳ぐことが出来なくて何度も溺れかけたって、それを見て指をさして笑う奴がいても、夕は不貞腐れず何度も何度も挑戦していた。そんな諦めないで頑張る夕の姿が超カッコいいと思ったんだ」

 藤は昔の、それはもう僕たちが幼稚園とか小学校低学年ぐらいの時の話を持ち出して、懐かしそうに笑った。
 当時の僕を藤がそんな風に見ていたとは思ってなくて、なんだか気恥ずかしくなった僕は「これまた随分と昔の話だな」としか言えなかった。
 藤はそんな僕の言葉に対し伏目がちに表情を落とし「……あぁ、そうだな。お前の言う通り、昔の話だ」と悲しげに言い、さらに言葉を続ける。

「中学生になってからお前は変わっちまったよな。どうせ普通以下の僕には無理だよ、が口癖になって頑張ることをしなくなった。……俺さ、そんなお前を見ながら昔のカッコいい頃の夕に戻って欲しいってずっと思ってたよ」

 暗い表情でそう話をする藤に、僕は内心少し焦っていた。
 つい数秒前までは良い雰囲気だったのに、どうして僕は素直に「ありがとう」を言えなかったのだろう。
 ありがとうを言えなかったにしても、もっと他の言葉を選んでいれば、こんな雰囲気にはならなかったんじゃないだろうか?
 しかし、そんな後悔も今では時間の無駄でしかない。
 僕が今しなければいけないことは、この重苦しい雰囲気を瓦解させるような一言を考えることだ。
 それを考えないといけないんだけれど……藤の言っていた中学生になってから変わってしまったという指摘に自覚があり、耳が痛い思いをしている僕は中々次に出す言葉が頭に浮かばなかった。
 僕たちの間に会話がなくなってから一時の静寂が流れる。
 気不味さを胸に抱え、下を向いたままの藤を眺め続けていると、藤は顔を少し上げた。
 藤と目が合う。
 藤はふっと軽笑を浮かべると顔を完全に上げ、「でも、それは俺の思い違いだった」と子どもの頃のような無邪気な顔で笑った。

「やっぱ夕は凄えよ。夕の書いた小説を読んでたら分かる。真剣に考えて、頭を抱えながら悩んで、一生懸命に頑張って書いたものなんだって、少ししか読んでいない俺にもすげぇ伝わったんだ。夕は頑張らなくなったんじゃない。頑張るところをたった一つに絞っただけ。俺が何も知らなかっただけで、夕はずっとずっと頑張っていたんだな」

 そう言って藤は僕の両肩を掴んだ。
 それはとても強い力だった。
 藤は僕の目をただひたすらに、真っ直ぐ見つめる。
 伝われ! って、心に届け! って、そんな想いが藤の瞳には込もっていた。
 僕はその瞳を知っている。向けられたことがある。それは――

「だから……菜花さんとのことも、お前ならなんとか出来るさ。……いや、違うな。夕にしか出来ないことが、きっとある」

 ――僕の夢に対する想いを後押ししてくれた時の菜花さんと同じ瞳で、1ヶ月前にユキカさんが言ってくれた言葉と同じことを藤は僕に言った。
 ……どうしてユキカさんも藤も、そんなにも自信を持った顔をしてそう言えるのだろう?
 自分の事じゃないのに、どうして?
 未だに僕は何も出来ていないのに、どうして?
 どうして? どうして?

「言っとくけど、これは気安い励ましでもなければ同情での慰めなんかじゃねぇぞ。俺は夕が優しくて強い人間だってことを、夕よりも知っている。なんたって俺にとって夕は1番の親友だからな」

 ……それを聞いて、心の空いていた部分にストンと何かが落ちてきて、今まで満たされることの無かったものが満たされていくのを感じて――あぁ、そうか、と僕は納得した。
 藤にとって僕という存在は親友ではあれど、多数いる親友の内の1人にしか過ぎなくて、1番の友人と呼べる存在は僕以外の誰かなんだと思っていた。
 だけど本当は、僕にとって藤が1番の親友であるように、藤にとって僕が1番の親友であってほしいと、心のどこかではそう願っていたのだ。
 そう願っていたことが事実であったと藤の口から聞けて、熱い感情と共に込み上げてくるものがあって、藤の顔がボヤけた僕は目を擦った。

「ははっ。なに泣いてんだよ?」

「……はぁ? 別に泣いてなんかないし。これは風で飛んできた砂が目に入っただけだから擦ってるだけであって……」

「はいはい。そういうことにしといてやるよ」

 下手くそな誤魔化し方をする僕を藤は笑う。
 気恥ずかしくなった僕は話を変えるために適当な話題を振り――それから僕たちはいつものようにたわいのない談笑を交わした。
 「今では全く遊ばなくなったけど、幼稚園の時はあいつと仲が良かったよな?」「そうだったっけ?」「小学生の時はバカみたいなことで盛り上がっていたけど、今思うとなんであんなことで盛り上がっていたんだろうな?」「きっと数十年後の僕たちも、今の僕たちのことをそう思い返しながら同じ話をしているよ」「中学生の時の最後の県総体、怪我で出場出来ないままチームは1回戦で負けて、落ち込んでいた俺をなけなしの小遣いで買ってきたジュースを渡して励まそうとしてくれたよな。なんか、俺の誕生日が近いから買ってあげただけって訳の分からない言い訳を夕はしてたけど……嬉しかったぜ」「あの時は……あれしか励まし方が分からなかったんだよ。それだけ」「高校生の時の修学旅行で泊まったホテル。奇跡的に同じ部屋だったけど、2人して寝坊かまして先生に怒られたの、あれは傑作だった」「お前が僕の分のアラームも消してくれたおかげでな」――これまでの思い出を古い順から辿っていくように、僕たちはゆったりとした時の流れの中で会話を交わしていく。
 これが最後って訳ではないけど……僕たちの関係性の区切り目になることを僕たちは分かっていたから、2人して思い出話しに花を咲かせた。
 次第に会話と会話の間の無言の時間は長くなっていき、今日1番の長い沈黙の後、藤はベンチから立ち上がる。
 両手を上げて背中を仰け反らせる藤は「さあって、そろそろ帰りますか」と欠伸混じりに言って、僕に目を向けた。
 青色だった空は気付けば茜色に染まっていた。

「ところで、夕はもう就職しているけど、小説はずっと趣味でやっていく感じ? プロを目指したりとかしないのか?」

 藤のその質問に、少し前の僕なら「僕なんかがプロになんてなれるわけがないだろ」と返していたかもしれない。
 でも、僕はもう前の僕とは違うから。大切な人と約束をしたから。だから、自信を持ってこう答えた。

「目指してるよ。いつか絶対に本を出すから、期待して待ってろよ」

 僕らしくないその返事に、藤はキョトンとした表情を浮かべ、そして――「本当、そういうとこは変わったよな」と嬉しそうに笑う。

「なぁ、夕がプロの小説家になったらさ、1番最初に俺にサインを書いてくれよ? まさか長年の付き合いの親友を差し置いて、付き合いの浅い女に1番最初のサインをあげたりなんてしないよな?」

 半分冗談、半分本気といった感じでそう聞いてきた藤に、僕はうっと言葉を詰まらせる。
 ……というか、藤の中では僕が菜花さんとよりを戻すのは決定事項となっているらしい。
 僕はまだ微かな希望さえも見出せていないというのに……。
 だけど、僕がそれを口に出すことはなく、僕にしか出来ないことがきっとあると言ってくれた1番の親友の期待に応えるために、「さぁ? それは約束しかねるかも」と僕は笑い返した。




 母さんと父さんと食卓を囲んで、僕は夕飯のカレーライスを食べていた。
 僕たちの食卓に会話はほとんど無い。
 今日あった出来事の報告会を食べ始めに少し交わして、あとは無言でご飯を食べ進めていくだけ。
 テレビもつけていないため、食器と箸がぶつかり合う些細な音だけがやけに大きく響く。
 それが僕らの食卓風景。それが僕らの日常――だった。数ヶ月前までは。
 カブの鍵を貸してほしい。そう僕がお願いしたあの日から、その当たり前だった僕たちの日常は少しずつ変化していった。
 会話は日毎に増え、報告会は世間話に変わり、今ではいただきますを言ってからごちそうさまを言うまで誰かが何かしらを話している。
 ……といっても、僕が2、母さんも2、父さんが6の割合で話しているので、ほぼほぼ父さんが僕か母さんと話しているか、誰に向けて話しているのか分からない独り言を言っているだけなんだけども……。
 でも、僕はこの時間が嫌いではなかった。
 
「ねぇ、夕。今日は何か良いことでもあったの?」

 僕がちょうど最後の一口を頬張った時、珍しく母さんの方から僕に話しかけてきた。

「え? なんで?」

「家に帰ってきてからずっとご機嫌だったから」

「そうか? 俺はいつもとあまり変わらない気がするけど」
 
 父さんも分からないような僕の微妙な変化。
 それを母さんは感じ取り、そしてその自分の観察力に余程の自信があるのか、母さんはいつもの無表情を崩しはしないものの「私には分かるのよ」と誇らしげに言った。
 ……やっぱり親というのは、子どものことをよく見ている。
 家に帰ってから僕は喜びや嬉しさを表立って見せるような素振りをした覚えは無かったけど、今日の藤との出来事があり、母さんの言っていたご機嫌だった自覚は正直あった。

「……うん。あったよ、良いこと」

「おっ、なんだ? やっと菜花さんとよりを戻すことが出来たのか?」

 父さんのデリカシーの無い一言に、母さんは「あなた……」と鋭く冷たい瞳で父さんを睨みつける。
 母さんに睨みつけられた父さんは「いや、だ、だって……俺は夕のことも、菜花さんのことも心配で……」と小さくなりながら肩をすくめた。
 僕が菜花さんに癌が再発したことを告げられたあの日。夜にいきなり家を飛び出した僕を、母さんは僕が家に帰ってくるなり何があったのかと問い詰めた。
 母さんは怒りはしながらも、その表情の中には心配や不安の気持ちも入り混じっていて、それを感じ取った僕は事情を話すしかなくなり――それで、父さんと母さんは菜花さんの癌が再発したことを知っていた。

「菜花さんとはまだ……今日はたまたま藤と会ってさ、6年間も秘密にしていたことをやっと言えたんだ」

「へぇ。その秘密にしてたことって何なんだ?」

 母さんに睨み続けられている父さんは逃げ場を求めるように僕の話に食い気味に質問する。
 母さんは呆れたように小さくため息を吐いて、父さんに向けていた視線を僕の方に変えた。
 2人の視線が集中し、僕は続く言葉を詰まらせる。
 菜花さんの癌のことを2人には話したものの、僕は自分が小説を書いていることをまだ伝えてはいなかった。
 「僕と藤の秘密だから2人には言えない」と言ってはぐらかしてしまおうか? それとも、適当なことを話して誤魔化してしまおうか?
 そんな選択肢が頭の中に一瞬だけ過ぎる。
 だけど、藤の話を2人にした時点で僕の腹は決まっていた。
 藤に知ってもらったように、僕が一生懸命に頑張ってしていることを、2人にも知ってほしいと思った。

「実は……小説を書いてるんだ。そしてそれを……ネットに上げてる」

 きっとそれは母さんと父さんにとっては予想外過ぎる発言だったみたいで、和やかだった雰囲気は一変し、何もかもがリセットされてしまったみたいに食卓がしんと静まり返った。
 父さんと母さんは顔を見合わせ、お互いの聞いたことが聞き間違いじゃなかったかを確認し合う。
 そして、2人は再び僕の方を向くと、何も言わないまま僕を見つめた。
 僕はどうしたらいいか、何を言えばいいかも分からないまま、2人を見つめ返す。
 そうしてしばらくの沈黙が続いた後、1番最初に口を開いたのは父さんだった。

「小説って……夕が読んでいるあの小説? を夕が書いてるのか?」

「ネットに上げているというのは……サイトやブログを立ち上げて、そこに投稿してるってことなの?」

「小説を投稿出来るサイトがあってそこに投稿しているだけだから、全然大したことはしてないんだけどね。書籍化しているわけでもなければ、収益化しているわけでもないし」

 実はプロの作家として活動しています。ここでそう言えればカッコよかったかもしれないが、所詮僕は趣味でネットに小説を投稿しているだけのただの一般人。
 父さんと母さんに小説を書いていることを話すと腹を決めてはいたけど、恥ずかしいものはやっぱり恥ずかしく、僕はこの感情を紛らわすためにほとんど何も入っていない空のコップを仰いだ。
 そんな僕を見て、父さんと母さんはもう一度顔を見合わせ、2人してクスッと笑い、そしてその笑顔をそのまま僕に向けた。

「それでも凄いじゃないか。父さんにも夕の書いた小説を読ませてくれないか?」

「えぇ、そうね。私も読んでみたいわ」

 その2人の声は優しかった。
 2人が僕に向ける瞳には確かな期待感が込められていた。
 僕の腹の底からぐっと熱い感情が湧いてきて。涙も一緒に込み上げてきて。空のコップを仰いだぐらいじゃこの感情を紛らわすことなんて出来ないと分かっていた僕は2人から少しだけ顔を逸らし、作家名と今までに投稿してきた作品の中で1番多くの反応が貰えた作品名を2人に教えた。

 夕食を食べ終わり食器を片付けたあと、僕たちはリビングで各々のスマホを眺めていた。
 いや、もっと正確に言うならば、母さんと父さんは僕の書いた小説を読んでいて、僕だけがスマホを見ているフリをしながら2人の反応を窺っていた。
 母さんはいつもは感情の読み取れない堅い無表情をしているが、僕の小説を読んでいる時は表情をしきりに変えていた。
 笑ったり、困ったり、怒ったり、悲しんだり――どの表情も顔のパーツが大きく動くほどの変化は無く、目尻が上がったり下がったり、口元が少し開いたりキュッと結んだりと小さな変化ではあったが、母さんがどんな気持ちで小説を読んでいるのか僕には分かった。
 ……あぁ、この人ってこんな表情もするんだな。そう思いながら、僕は今度は父さんの方に目を向ける。
 父さんは表情に出やすい人だったが、そのいつもとは逆で、ずっと眉間にシワを寄せた険しい顔つきで僕の小説を読んでいた。
 小説を読み始めて長い時間が経ったが、父さんの表情は読み始めた時とほとんど変わらない。
 瞳だけが細かく動き続けていて、文章を一生懸命に目で追いかけていることは分かる。
 本をよく読むお母さんと違って父さんは本をあまり読まない人だから、活字慣れしていなくて、小説を読むのに苦戦しているのかもしれない。
 でも、そんな父さんが、僕が一生懸命頑張ったことを一生懸命に理解しようとしてくていることだけはちゃんと僕に伝わった。
 ――僕の小説を2人が読み始めて3時間近くが経とうとした時、それまでずっと険しい顔つきだった父さんが表情を緩め、自分の持っているスマホを母さんに見せながら話かけた。

「母さん、これを見て。『この小説に救われました』だってさ」

「えぇ、他のコメントにも『夢に対する勇気を貰えました』って……ふふっ、凄いわね」

「あぁ、本当に……」

 どちらかは分からないが、鼻の啜る音が聞こえた。
 あるいは2人……いや、それは3人のものだったのかもしれない。
 母さんは瞳に涙を滲ませながら微笑んでいた。
 父さんも母さんと同じ表情をしていた。
 そして……きっと僕も。
 僕が2人に読んでもらった小説はつい1ヶ月半前に完結したものだった。
 菜花さんに神社で話をかけられるまで、2ヶ月間も更新が止まっていたあの小説。
 主人公の性格のモデルは元々僕自身と決めていたが、ヒロインの性格や夢に対する想いは書き進めていく内に菜花さんに似ていった。
 プロの有名作家であり、明るい性格でもありながら、夢に対する不安を抱え、病に苦しむヒロイン。
 そんなヒロインに触発されて、段々と変化していく主人公。
 それはまさに僕と菜花さんを描いたような物語り。
 僕は終盤に病気で亡くなる予定だったヒロインを生かした。ヒロインに死んでほしくなかった。ヒロインが死んでしまったら、モデルになった菜花さんも死んでしまう気がした。生きてほしいと思った。幸せになってほしいと願った。主人公とヒロインに結ばれてほしかった。
 元々亡くなるはずだった登場人物を生かすのには、ストーリーの進展上やっぱり少し無理があって、愛とやらの力が起こした奇跡としか言えないような、そんな救い方になってしまった。
 途中までは綺麗にまとまっていたのに、終盤がごちゃついてしまったなんとも陳腐で拙い小説。
 でも、僕はその小説を今まで自分が書いてきた小説の中で1番好きだと思えた。
 そして、その小説は今までに投稿してきた作品の中で1番多くの反応を貰えた。
 『作者はきっと脳内お花畑なんだろうなw』 『こんなもんで心の痛みが救えるはずがない』 『これを書いた奴は幸せ者。人生順風満帆で大した苦労をしてないのがよくわかる』――そんな心ないようなコメントも中にはあった。
 だけど、『主人公の想いに共感した』 『私もこういう風に生きたいと思いました』 『夢に対する勇気を貰えました』 『感動した! すっごく良かった!』 『この小説に救われました』――そんな心温まるようなコメントが大多数だった。
 かつて菜花さんが言っていた通り、僕が一生懸命書いた小説は誰かの心を動かすことが出来た。
 そしてそれは――僕の両親も例外ではなかった。

「知らなかったわ……私が知らない間にこんなにも立派に成長していたのね」

「まぁ、父さんはなんとなく分かっていたけどな。俺たちの知らないところで、俺たちには計り知れないような凄いことを夕はやっているんだろうなぁって」

「ちょっと、それは調子良すぎない? 夕とツーリングに行くのは色々な世界を観て触れていつか凄い人になってほしいからって、ついこの間話してたのに?」

「お、おい……それをこのタイミングで言うのは無しだろ?」

 情けない声を上げて慌てるお父さんを、母さんと僕は一緒になって笑う。
 そして、ひとしきり笑い終えたあと、母さんは僕の方に目を向けた。
 母さんと目が合いそうになって、僕はつい反射的に母さんから目を逸らしてしまった。

「大切なことを言うから、ちゃんとこっちを向きなさい」

 不満げな声で母さんにそう言われ、僕はおずおずと再び母さんの方に顔を向ける。
 母さんはやはり不機嫌そうな顔で僕のことを見ていたが、僕がちゃんと母さんの方を向いたのを確認すると――母さんは表情を緩めてふっと笑みを溢した。

「夕の書いた小説、とても良かった。凄く感動した。それで……その……もしかしてだけど、この小説の主人公って夕自身がモデルなの? 私……夕に偉い人になってもらいたいとか、立派なことをする人になってほしいとは一度も思ったことないわ。ただ健康でいてくれて、夕が幸せだと思う人生を歩んでくれたら、それでいいって思ってた」

 そう語る母さんの表情は穏やかだった。
 だけど、その瞳はしっかりと僕を捉えていた。
 
「でも……これが夕の選んだ生き方なのね。夕が頑張っていることは、どんな形であれ沢山の人の心を動かしてる。それはとても凄いことで、とても素晴らしいことよ。母さんには出来ないし、父さんにも出来ない。そんな生き方を夕はしているの。私はそんな夕のことを、母親として誇りに思うわ」

 母さんはそう言って最後に「ねっ? あなた」と父さんに同意を促す。
 父さんは「あぁ、そうだな」と言い、優しく微笑みながら同意した。
 そんな2人を見ていて、僕の顔に熱が集中していく。
 2人の姿がボヤけて、目から溢れ出した涙が頬を伝って流れ落ちていくのを感じる。
 僕は……何でもいいから母さんと父さんに認めてもらいたかった。
 産んで良かったってそう思ってもらえるような、そんな息子でありたかった。
 長年願い続けていたそれが、今日やっと叶った気がした。
 僕はぼろぼろと溢れていく涙を必死に拭う。
 僕の目にはっきりと映った母さんと父さんは優しい顔をしていて、僕のことを見つめていた。
 その2人の瞳には優しい表情とは違い、確かな力強い意志が込められていた。
 ――僕はその瞳を知っている。
 そう思った瞬間、母さんが口を開いた。

「誰かには出来ない、夕にしか出来ないことがきっとある」

 言った人は違えど、この数週間の間に何度も言われた言葉に、何度も向けられた表情に――僕はやっと自分がやらなきゃいけないことが分かった。
 いや、違う。何の取り柄もない僕に出来ることなんて考えるまでもなく、たった1つだけしかなかった。
 僕は自分の部屋に戻るために立ち上がる。
 長い間溜め続けていたこの感情を、心を、自分の全てを、すぐにでもぶつけたかった。
 扉を開けてリビングを出る直前――僕はふと思い留まり、立ち止まる。
 別に今言わなくていいことかもしれない。明日以降になろうが、この気持ちを伝えることに何ら変わりはない。それよりもやらないといけないことが、今の僕にはある。
 ――だけど、この機会を逃せば2度と言えないと思った。
 この気持ちを伝えるのにふさわしい瞬間は、今まさにこの時だと、そう思った。
 それを伝えるために、僕は母さんと父さんの方を振り返る。

「母さん、父さん。あのさ……僕、凄く幸せだよ。2人が僕の親で、本当に良かったと思ってる」

 突然の僕の告白に、母さんと父さんは目を大きく見開いて驚くような顔をした。
 僕はなんだか照れ臭くなって、2人から顔を逸らしてしまいたかった。
 気を抜いてしまえば、また涙が溢れてしまいそうだった。
 でも、僕は気を張ってそれらを我慢し、母さんと父さんのことをちゃんと見て、そして――僕は微笑む。

「僕を育ててくれてありがとう。見ててね。自慢の息子だって、誰かに笑いながらそう言えるような、そんな人生を僕は生きてみせるから」




 僕に出来ることなんて、たった1つしかなかった。
 自分にはこれまで観てきた沢山の物語の主人公のように奇跡を起こせる力なんて持ってやいない。
 そんなこと、他の誰でもない自分が1番よく理解している。
 だから僕は――ありのままの自分で菜花さんを救うしかないんだ。
 大丈夫。あぁ、そうだ。きっと大丈夫だ。
 色々な人達が『僕にしか出来ないことがある』って言ってくれたんだ。
 だからきっと、僕なら出来る。
 僕は部屋の椅子に座り、スマホを取り出し、[小説]と題の打たれたファイルを開いた。
 僕はそこに次々と文字を打ち込んでいく。
 書け。『これまで』のことを、『これから』の為に。
 これは――たった1人のために書いた小説だ。
しおりを挟む

処理中です...