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8月編
89話 嫌いな自分
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商店街の南口を出た先にある、総合公園の広場。僕と楓はこじんまりとした時計台の周りに並べられているベンチに座り、花火が打ち上がるのを待っていた。
…………といっても、今の時間は午後の7時30分。花火が打ち上がるまで、まだ30分も時間がある。
そんな早い時間だからか、公園内にはまだ人がまばらにしか集まっていない。
僕と楓はベンチに座ってから少しの間はたわいもない話をしていたが、今は2人とも黙りこくり、公園の広場を行き交う人々を僕はただぼーっと眺めている。
1日中歩き周った疲れもあるが、なんといっても話すネタが尽きてしまっていた。
このまま残りの30分を黙りっぱなしで待つのは心が耐えきれる気がしないので、ずっと何か話せる話題はないかと探してはいるのだが……未だにそれは見つからないまま。
楓の方も神妙な面持ちで何かを考え込んでいるところを見るに、きっと僕と同じような事を考えているのかもしれない。
そんな事を思っていると、楓がこちらに振り向き目が合った。
「ねぇ、ヤンキー君」
楓は僕の目を真っ直ぐに見つめて言い、固い表情を崩して微笑む。
「君の名前が知りたいな」
「え……名前?」
「うん。ヤンキー君の本当の名前」
今さら? と言いそうになったが僕はすぐに口を紡ぐ。
もとはといえば、僕の名前を知りたがっていた楓に、僕がかたくなに名前を教えなかったのが原因だった。
そういえば、かたくなに名前を教えなかった理由はなんだったっけ…………あぁ、そうだ。思い出した。本名を教えて隣街でも変な噂が流れるのが嫌だったからだ。それが始まりだ。
そして、自分のことを不良少年だなんて名乗ってしまい、その恥ずかしさも相まって後に引けなくなり、ずっと名前を教えなかったままだった。
楓は僕が自分の名前を言うのを期待した顔で待っている。
既に忘れかけていたあの時の理由なんて、今の僕にとってはもうどうでもいい。恥ずかしい姿は今日1日で充分過ぎるほどに見せた。変な噂をたてるような子ではないと楓のことを信じている。
きっと楓とは2度と会うことはないかもしれない。だけど、僕たちは互いに今日のことを忘れないと言い合った。
このまま僕が名前を教えずに別れてしまえば、楓が今日の事を思い出す度に出てくる僕は『名前の知らない男の子』のままだ。
僕は楓という彼女の名前を知っている。楓は僕の名前を何一つ知らない。
僕はそれをとても寂しいと感じ、嫌だと思った。
「僕の名前は銘雪 陸」
「銘雪……陸……」
楓は一つ一つの音を確認する様に僕の名前を声に出して、楽しそうに笑う。
「ちゃんと名前を教えたんだから、もうヤンキー君って呼ぶのをやめろよ」
「うん、そうだね。それじゃあ……りっくんって呼ぶね」
りっくん――楓にそう言われ、迂闊にも僕はドキッとしてしまった。
僕の好きな人も僕のことをそう呼んでいた。
楓と好きな人の容姿がところどころ似ていることもあってか、楓が僕の名前を呼んだ瞬間、楓と好きな人が重なって見えたのだ。
「りっくんにもう一つ聞きたいことがあるんだけど……いいかな?」
楓は先程とは打って変わって、オドオドしく遠慮がちな声で僕に聞いた。
不安と怯えが入り混じったかの様な顔で僕のことを見つめる楓に、僕はいったい何が聞かれるのだろうと身構えながら「いいよ」と頷く。
「ボクがりっくんの事を優しいって言った時、どうして君はいつも否定するの?」
僕のことを何度も優しいと言いながらも、その度に僕の否定を聞くだけで理由を聞くことをしてこなかった楓が今まで踏み込まなかった一線を越えた。
たった1日だけの付き合い。僕がどんな悩みや問題を抱えているかなんて、これから僕と関わることのない楓にとっては関係のない話だ。聞いたところで何も出来ないかもしれない。聞いてしまったことで後悔してしまうかもしれない。
そうだと分かっているはずなのに、それでも楓は理由を聞いてきた。
きっと、僕と過ごした今日1日が楓の背中を後押ししたのだろう。
そして……それは僕もまた同じだった。
話したところで何になる? 長い間ずっと悩んできた問題が解決するはずがない。ただただ空気を悪くするだけ。話さない方がお互いのため。
そうだと分かりきっているのに楓と過ごした今日1日が、彼女になら全てを話していいかもしれない、なんて思わせていた。
いや、違う。『なら』ではない。『いいかもしれない』でもない。
楓に全てを話したい。楓に全てを聞いて欲しい。
そう思ってしまっている、僕がいた。
「少し前まではさ。『誰かのために生きる』っていう、小さい子どもが夢見るような生き方に憧れていたんだよ。でもそれは所詮、ただの憧れだった」
僕は思い出す。憧れていた生き方を諦め、また、今日学校をサボるきっかけとなった出来事を――
「もう数ヶ月前の話だ。クラスメイトがイジメにあってた。それに気付いた僕はそのクラスメイトを助け、そのあとすぐにその助けたクラスメイトに裏切られた。そして僕は一時の感情に身を任せて暴力で問題を解決してしまったんだ。そのタイミングも悪かった。自分の身が危うくなると力ずくで解決しようとする人。そう周りのみんなから思われるようになって、次第に僕は孤立していった。救いの手はあったにはあったんだけど……僕はそれらをも自分勝手な考えで振り解いてしまった。そしてとうとう僕は1人ぼっちになった」
助けようと思うこと自体はきっと正しいことだった。
それじゃあ、いったい何がいけなかったのだろうか?
和也が僕を裏切ったのがいけなかった? 周りのみんなが僕のことを理解せずに避けたのがいけなかった?
いいや、そうじゃない。
僕だ。僕がいけなかった。
僕が最初を間違えたのが全ての始まりだ。
「助けたクラスメイトに裏切られた時はさ、どうして僕なんだよと思ったよ。僕は正しいことをしたはずだろ、って。でも、今思えばクラスメイトを1番初めに助けた時、僕は彼の事を助けきれていなかったんだ。言ってしまうならば、その場しのぎをしただけで完全な解決にはなっていなかった。最後まで彼と一緒に戦ってあげるべきだったのに、僕は関与するだけしておいて、彼を1人にしてしまった。本当に彼の事を想っていたなら、そんなことなんてしないはずなのにな。きっと今までも僕は誰かの為に行動しながらも、本当に誰かの為を想って行動することが出来ていなかった。『僕は誰かの為に生きている』っていう自己満足。ただ、それだけしかなかった」
誰かの為に生きる。その生き方に憧れて、そう生きようとした。
しかし、事実そう生きれてなどいなかった。
誰かの為に生きている様で誰かの為に生きれていない。
それが僕のしている生き方だった。
こんな自分の事しか考えていない奴が優しいと言われる筋合いもなければ、讃えられて良いはずがない。
これまでは、たまたま運良くことが進んでいただけだっただけ。
それがあの時になって、やっとこれまでの報いを受けたのだ。
和也のことを僕がちゃんと救ってやる事が出来ていれば、和也が僕を裏切ることをしなかった。先生や周りにもっと相談していれば、暴力以外で解決する道があったかもしれない。そうすれば周りのみんなから避けられることもなかった。救いの手を振り払わずに掴む勇気があれば、僕は1人になることはなかった。
誰かが悪いわけではない。
最初にミスを犯し、その後も間違え続けた僕のせいだ。
何もかも自分が招いた結果。
誰かの為に生きる。本当にそう生きることが出来ていたならば、きっとこんな事にはならなかった筈なんだ。
「憧れだったものは、僕には到底なれることのないものだと分かってしまった。僕にはヒーローみたいに上手く全てを助けられる力量もなければ考える事の出来る頭もなかったし、誰かに頼る勇気もなかった。何よりも致命的だったのは、憧れていた生き方を望んでいなかったことに僕自身が気付いてしまったことだ。これまでも僕は誰かを助けて自分が損をすると、心のどこかで僅かながらだけど、辛いと思ったり悲しいと思ったりしていた。本当に誰かのことを想っているのなら、自分がどうなろうと、傷付きもしないし悲しいとも思わないはずなのにさ」
突然、楓の顔が滲んでボヤけた。
僕は焦って目元を拭い、再び楓をの方を見る。
楓の顔が一瞬だけハッキリと映ったが、すぐにまた彼女の顔が滲んでボヤけた。
もうきっと何をしたって無意味だ。
それを理解した僕は抗うのを辞め、このままで話を続ける。
「人生は一度っきりだ。望んでいない生き方をする意味なんてない。自分が生きたい様に生きればいい。だけど、僕はこれまでずっとずっと同じ生き方を貫いてきたせいで、自分が本当に望んでいる生き方を分かってはいなかった。僕はどうなりたい? 僕はどう生きればいい? それを見つけようと頑張ったけど、やっぱり必ず出てくるのは今までの自分だ。だから今日は何もかもをリセットする為に僕は学校をサボった。誰も僕のことを知らない、僕が知らない場所。そこでなら僕が本当に望んでいる生き方を見つけられると思ったからだ。それなのに……そのくせして、また誰かの為に僕は動いていた。本当は望んでいないくせに……誰かのことなんて想っていないくせに……。結局僕はそういうふうにしか生きれなくて…………自分はどう生きたいのか分からないままで……きっと僕は……これからも望んでもいない生き方をし続ける…………」
言葉が途切れ途切れになる。
声が震える。
言葉にして誰かに話すことにより、目を背けていたどうすることもできない現実が突きつけられ、強く強く僕の心を締め付けていた。
どうして僕は上手く誰かを救うことができない?
どうして僕は誰かのことを想うことができない?
どうして僕は憧れていた生き方を望むことができない?
頭に浮かぶのはそんな激しい後悔ばかりだ。
あぁ、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして――
「そんな……自分の事が嫌いだ……」
出さなくてもいい言葉が勝手に出た。
ぼろぼろと涙が自分の目から溢れていく。
止まらない涙を何度も何度も僕は拭う。
普段の日常から離れる事で本当に望んでいる生き方が分かると思っていた。
でもそれは違っていて、今日という1日で分かったのはいかに自分がどうしようもない奴であるかということだけだった。
「自分のことを嫌いになる気持ちはボクもすごく分かるよ。自分のことが嫌で嫌で堪らなくて、それでも変わることが出来なくて。いっそのこと違う誰かになれたらいいのに……ってさ。だけどボクは……りっくんに自分のことを好きになってほしいな」
僕の話をずっと黙って聞いてくれていた楓が、泣きじゃくっている我が子をあやす様な優しい顔をして僕にへと言った。
でも、僕は分かっている。
楓は僕と違って本当に優しいから、気遣ってそう言ってくれただけだと。
性格が良くて容姿も優れている楓の様な人が、自分のことを嫌いになる訳がない。
例え本当に自分のことが嫌いになる気持ちが分かっていたとしても、僕が自分のことを好きになったらいけないってことくらい楓だって分かっているはずだ。
「駄目だ。自分の事を好きになんてなれない……いや、なってはいけない」
誰かの幸せを願えない利己的な人間。
そんな奴を好きになれる訳がないだろ。
しかもそれは他の誰でもない自分自身だ。救いようがないにも程がある。
こんな自分のことを好きになっていい理由なんて、何一つとしてない。
「そんなことないよ。なってもいいんだよ。いや……」
楓はそこで一旦言葉を止めて、じっと僕のことを見つめる。
今日何度も見た、強い意志の込められた真っ直ぐな目だ。
彼女は目をそのままに、優しく微笑みながら僕にこう言った。
「りっくんは自分のことを好きになるべきだよ」
楓の言葉でスイッチが切り替わるのを僕は感じた。
…………なるべき? こんな自分勝手な僕を?
ずっと溜まっていた自分に対しての怒りが矛先を変える。
今から僕がやろうとしていることは、楓の優しさを無碍にする行為だと分かっていた。ただの八つ当たりだ。絶対にしてはいけないことだ。――でも、止まらなかった。
「なんでだよ⁈ なんでそう言い切れるんだよ⁈」
僕は声を荒げて楓に言った。
駅で会った白いワンピースの女の子もそうだった。一度助けられただけで僕の事を優しい人だと思い込み、不良たちに絡まれていた楓を助けようとしない僕に「らしくない」と言った。本当の僕は優しくなんかないのにだ。ワンピースの女の子時も、楓の時も、妊婦さんの時も、お爺さんの時も、迷子の女の子の時も、全部全部全部偶然だ。あと少し遅かったら僕ではない他の誰かが助けてくれたかもしれない。たまたまタイミング良く僕が助けただけだ。
「たった1日の付き合いで僕のことを分かった気になるな! 僕は自分の事が大切で誰かの幸せを願えない、ゴミみたいな人間なんだよ!」
そう言い切って、また楓の顔が滲んでボヤけた。
辛い、苦しい、悲しい、消えてしまいたい。色々な感情がごちゃ混ぜになって胸を締め付ける。
楓はもう微笑んではいない。
怯えの見える、強張った表情を彼女はしている。
「でも、りっくんは……ボクのことを助けてくれたじゃん……」
その楓の声は震えていた。弱々しくて、今にも消えてしまいそうな儚い声だった。
「それは……」
躊躇いが次に出そうとしている言葉を詰まらせる。
あの時に思ってもいなかった世間体を気にしていたから、なんて嘘を言ったのはどうしてだ?
どちらにせよ嘘を付くなら近い方がいい?
この時点でおかしいだろ。
どうして嘘を付く必要があった?
そんなの決まっている。事実はもっと酷いものだと分かっていたからだ。
だからあの時、僕は言えなかった。
でも、もう躊躇う必要なんかない。言ってしまえ。楓を失望させろ。
だって僕は優しくない、ただのゴミ屑なんだから。
「嘘をついた。本当は世間体を気にしてですらない。あの時本当は僕の意思で動いたわけじゃないんだ。周りにいた見知らぬ人に『お前が行ってこい』って言われただけ。仕方なくだった」
最早、僕の意思すら関係なかったのが相当なショックだったのか、楓の瞳が涙で潤んだのが分かった。
あぁ、楓から目を逸らしてしまいたい。
今すぐにでも走り出して、この場から逃げ出してしまいたい。
それでも僕は楓から目を逸らさないし、逃げることもしない。
今僕の頭の中を埋め尽くしているのは、沢山の後悔ばかりだ。
だけどそれを、絶対に楓には勘付かれてはいけない。
もしかしたら僕が嘘をついているかもしれないという希望を、楓に僅かたりとも抱かせるな。
あれは嘘でもなんでもない、本当のことなんだから。
「ぼ……ボクの時はそうだったかもしれない……。でも、妊婦さんの時は誰かに言われなくても君は動いた」
「あぁ、そうだ。自分から声を掛けた。でもそれは周りからいい人だって見られたかったからだ。お爺さんの荷物を運んだ時だって言っただろ? 世間体を気にしてだって。好きで優しくなんてしてない」
「で、でも……」
どうして楓はこうまでも食い下がる?
もう何も言いたくないのに。自分自身のことも、楓のことも、傷付けたくはないのに。
何かを言おうとしている楓よりも先に僕は言葉を発す。
「それに、すぐに声をかけたわけじゃないんだ。楓の時も妊婦さんの時もお爺さんの時も女の子の時も、声をかける前に迷っていた。本当に心の底から誰かのために生きたいと思っているのなら、そんな時間なんて必要ないはずなのに!」
いつの間にか、怒りの矛先はまた自分にへと向いていた。
情けない。みっともない。これはただの嘆きだ。
同情して欲しい訳でも、反論して欲しい訳でもない、ただの嘆き。
他に吐き場所がなくって最後まで残していたもの。それがこれだ。
自分の言葉でヒビが入っていた最後の壁はとうとう決壊してしまった。
ずっと溜めてきたものが怒涛の勢いで溢れ出し、堰き止められなかった。
「それどころか誰かを助けない為に、救わない為の理由を一生懸命探していた! 本当はありもしないと分かっている『もしかしたら』を頑張って出し続けていた! もし本当にそんなものがあったとしても、助ける理由に勝るはずがないと分かっていたのに……! それでもまだ楓は言うのか? 僕は自分の事を好きになるべきだって! こんなにも僕は酷い人間なの――」
言葉も、思考も、感情も、何もかもが全て止まった。
いや、止められた。
楓が僕の体を強引に引っ張り、僕の頭を抱き抱えるように抱きしめたからだ。
たったそれだけのことで、自分がもう止められないと思っていたものは、いとも簡単に止められてしまった。
「そうやってさ……自分のことを責めるのはもうやめようよ。苦しそうで……見ているのが辛いよ」
僕に酷いことを散々言われたのに、楓のその声は優しかった。
「本当にどうでもいいならそうやって悩まないし、苦しむこともないよ。世間体の為なら助けた時点で満足できるはずなのに、りっくんは少しでも躊躇ってしまったことに本気で後悔だってしてる」
クリアになった頭の中に楓の声だけが入っていく。
言葉がゆったりと心に落ちてきて、染み込んでいくのを感じる。
湧き上がる感情と共に涙が一緒に込み上がる。
「なによりも見過ごすことだって出来たのに、りっくんは助けることを選んでたじゃん。誰かに言われてかもしれない。世間体のためだったのかもしれない。その理由がなんであれ、りっくんは結果的には誰かの為に動いたんだよ。辛いことや悲しいことがあって、もう嫌だって思うのは当たり前。でもそれは望んでいなかった事にはならない。だって君は何度も誰かの為に動いたんだから。それに――」
僕が顔を上げて楓の顔を見ると、彼女は微笑みながら涙を流していた。
楓の言葉に嘘はない。そう確信を持てる表情だった。
もうこの時点で僕は救われていたのかもしれない。いや、きっと救われていた。
だけど――
「りっくんは幸せそうに笑う人たちを見て、いつも幸せそうに笑っていたよ」
その言葉が正真正銘の救いとなった。
心のどこかで他人の幸せを喜んでいた僕がいる。
それを楓は教えてくれた。
僕の目から涙がぼろぼろと自然と溢れる。
「あれもボクや周りからいい人だと思われたかっただけの演技だったの? もし自覚がなかったのなら、それはりっくんが心の底から他人の幸せを喜んでいた証明にはならない?」
楓が追い討ちをかけるように全てを言った。
もう充分だと、僕は無言で頷く。
そして、僕は周りの目など気にせずに、楓の腕の中で声を上げて泣いた。
…………といっても、今の時間は午後の7時30分。花火が打ち上がるまで、まだ30分も時間がある。
そんな早い時間だからか、公園内にはまだ人がまばらにしか集まっていない。
僕と楓はベンチに座ってから少しの間はたわいもない話をしていたが、今は2人とも黙りこくり、公園の広場を行き交う人々を僕はただぼーっと眺めている。
1日中歩き周った疲れもあるが、なんといっても話すネタが尽きてしまっていた。
このまま残りの30分を黙りっぱなしで待つのは心が耐えきれる気がしないので、ずっと何か話せる話題はないかと探してはいるのだが……未だにそれは見つからないまま。
楓の方も神妙な面持ちで何かを考え込んでいるところを見るに、きっと僕と同じような事を考えているのかもしれない。
そんな事を思っていると、楓がこちらに振り向き目が合った。
「ねぇ、ヤンキー君」
楓は僕の目を真っ直ぐに見つめて言い、固い表情を崩して微笑む。
「君の名前が知りたいな」
「え……名前?」
「うん。ヤンキー君の本当の名前」
今さら? と言いそうになったが僕はすぐに口を紡ぐ。
もとはといえば、僕の名前を知りたがっていた楓に、僕がかたくなに名前を教えなかったのが原因だった。
そういえば、かたくなに名前を教えなかった理由はなんだったっけ…………あぁ、そうだ。思い出した。本名を教えて隣街でも変な噂が流れるのが嫌だったからだ。それが始まりだ。
そして、自分のことを不良少年だなんて名乗ってしまい、その恥ずかしさも相まって後に引けなくなり、ずっと名前を教えなかったままだった。
楓は僕が自分の名前を言うのを期待した顔で待っている。
既に忘れかけていたあの時の理由なんて、今の僕にとってはもうどうでもいい。恥ずかしい姿は今日1日で充分過ぎるほどに見せた。変な噂をたてるような子ではないと楓のことを信じている。
きっと楓とは2度と会うことはないかもしれない。だけど、僕たちは互いに今日のことを忘れないと言い合った。
このまま僕が名前を教えずに別れてしまえば、楓が今日の事を思い出す度に出てくる僕は『名前の知らない男の子』のままだ。
僕は楓という彼女の名前を知っている。楓は僕の名前を何一つ知らない。
僕はそれをとても寂しいと感じ、嫌だと思った。
「僕の名前は銘雪 陸」
「銘雪……陸……」
楓は一つ一つの音を確認する様に僕の名前を声に出して、楽しそうに笑う。
「ちゃんと名前を教えたんだから、もうヤンキー君って呼ぶのをやめろよ」
「うん、そうだね。それじゃあ……りっくんって呼ぶね」
りっくん――楓にそう言われ、迂闊にも僕はドキッとしてしまった。
僕の好きな人も僕のことをそう呼んでいた。
楓と好きな人の容姿がところどころ似ていることもあってか、楓が僕の名前を呼んだ瞬間、楓と好きな人が重なって見えたのだ。
「りっくんにもう一つ聞きたいことがあるんだけど……いいかな?」
楓は先程とは打って変わって、オドオドしく遠慮がちな声で僕に聞いた。
不安と怯えが入り混じったかの様な顔で僕のことを見つめる楓に、僕はいったい何が聞かれるのだろうと身構えながら「いいよ」と頷く。
「ボクがりっくんの事を優しいって言った時、どうして君はいつも否定するの?」
僕のことを何度も優しいと言いながらも、その度に僕の否定を聞くだけで理由を聞くことをしてこなかった楓が今まで踏み込まなかった一線を越えた。
たった1日だけの付き合い。僕がどんな悩みや問題を抱えているかなんて、これから僕と関わることのない楓にとっては関係のない話だ。聞いたところで何も出来ないかもしれない。聞いてしまったことで後悔してしまうかもしれない。
そうだと分かっているはずなのに、それでも楓は理由を聞いてきた。
きっと、僕と過ごした今日1日が楓の背中を後押ししたのだろう。
そして……それは僕もまた同じだった。
話したところで何になる? 長い間ずっと悩んできた問題が解決するはずがない。ただただ空気を悪くするだけ。話さない方がお互いのため。
そうだと分かりきっているのに楓と過ごした今日1日が、彼女になら全てを話していいかもしれない、なんて思わせていた。
いや、違う。『なら』ではない。『いいかもしれない』でもない。
楓に全てを話したい。楓に全てを聞いて欲しい。
そう思ってしまっている、僕がいた。
「少し前まではさ。『誰かのために生きる』っていう、小さい子どもが夢見るような生き方に憧れていたんだよ。でもそれは所詮、ただの憧れだった」
僕は思い出す。憧れていた生き方を諦め、また、今日学校をサボるきっかけとなった出来事を――
「もう数ヶ月前の話だ。クラスメイトがイジメにあってた。それに気付いた僕はそのクラスメイトを助け、そのあとすぐにその助けたクラスメイトに裏切られた。そして僕は一時の感情に身を任せて暴力で問題を解決してしまったんだ。そのタイミングも悪かった。自分の身が危うくなると力ずくで解決しようとする人。そう周りのみんなから思われるようになって、次第に僕は孤立していった。救いの手はあったにはあったんだけど……僕はそれらをも自分勝手な考えで振り解いてしまった。そしてとうとう僕は1人ぼっちになった」
助けようと思うこと自体はきっと正しいことだった。
それじゃあ、いったい何がいけなかったのだろうか?
和也が僕を裏切ったのがいけなかった? 周りのみんなが僕のことを理解せずに避けたのがいけなかった?
いいや、そうじゃない。
僕だ。僕がいけなかった。
僕が最初を間違えたのが全ての始まりだ。
「助けたクラスメイトに裏切られた時はさ、どうして僕なんだよと思ったよ。僕は正しいことをしたはずだろ、って。でも、今思えばクラスメイトを1番初めに助けた時、僕は彼の事を助けきれていなかったんだ。言ってしまうならば、その場しのぎをしただけで完全な解決にはなっていなかった。最後まで彼と一緒に戦ってあげるべきだったのに、僕は関与するだけしておいて、彼を1人にしてしまった。本当に彼の事を想っていたなら、そんなことなんてしないはずなのにな。きっと今までも僕は誰かの為に行動しながらも、本当に誰かの為を想って行動することが出来ていなかった。『僕は誰かの為に生きている』っていう自己満足。ただ、それだけしかなかった」
誰かの為に生きる。その生き方に憧れて、そう生きようとした。
しかし、事実そう生きれてなどいなかった。
誰かの為に生きている様で誰かの為に生きれていない。
それが僕のしている生き方だった。
こんな自分の事しか考えていない奴が優しいと言われる筋合いもなければ、讃えられて良いはずがない。
これまでは、たまたま運良くことが進んでいただけだっただけ。
それがあの時になって、やっとこれまでの報いを受けたのだ。
和也のことを僕がちゃんと救ってやる事が出来ていれば、和也が僕を裏切ることをしなかった。先生や周りにもっと相談していれば、暴力以外で解決する道があったかもしれない。そうすれば周りのみんなから避けられることもなかった。救いの手を振り払わずに掴む勇気があれば、僕は1人になることはなかった。
誰かが悪いわけではない。
最初にミスを犯し、その後も間違え続けた僕のせいだ。
何もかも自分が招いた結果。
誰かの為に生きる。本当にそう生きることが出来ていたならば、きっとこんな事にはならなかった筈なんだ。
「憧れだったものは、僕には到底なれることのないものだと分かってしまった。僕にはヒーローみたいに上手く全てを助けられる力量もなければ考える事の出来る頭もなかったし、誰かに頼る勇気もなかった。何よりも致命的だったのは、憧れていた生き方を望んでいなかったことに僕自身が気付いてしまったことだ。これまでも僕は誰かを助けて自分が損をすると、心のどこかで僅かながらだけど、辛いと思ったり悲しいと思ったりしていた。本当に誰かのことを想っているのなら、自分がどうなろうと、傷付きもしないし悲しいとも思わないはずなのにさ」
突然、楓の顔が滲んでボヤけた。
僕は焦って目元を拭い、再び楓をの方を見る。
楓の顔が一瞬だけハッキリと映ったが、すぐにまた彼女の顔が滲んでボヤけた。
もうきっと何をしたって無意味だ。
それを理解した僕は抗うのを辞め、このままで話を続ける。
「人生は一度っきりだ。望んでいない生き方をする意味なんてない。自分が生きたい様に生きればいい。だけど、僕はこれまでずっとずっと同じ生き方を貫いてきたせいで、自分が本当に望んでいる生き方を分かってはいなかった。僕はどうなりたい? 僕はどう生きればいい? それを見つけようと頑張ったけど、やっぱり必ず出てくるのは今までの自分だ。だから今日は何もかもをリセットする為に僕は学校をサボった。誰も僕のことを知らない、僕が知らない場所。そこでなら僕が本当に望んでいる生き方を見つけられると思ったからだ。それなのに……そのくせして、また誰かの為に僕は動いていた。本当は望んでいないくせに……誰かのことなんて想っていないくせに……。結局僕はそういうふうにしか生きれなくて…………自分はどう生きたいのか分からないままで……きっと僕は……これからも望んでもいない生き方をし続ける…………」
言葉が途切れ途切れになる。
声が震える。
言葉にして誰かに話すことにより、目を背けていたどうすることもできない現実が突きつけられ、強く強く僕の心を締め付けていた。
どうして僕は上手く誰かを救うことができない?
どうして僕は誰かのことを想うことができない?
どうして僕は憧れていた生き方を望むことができない?
頭に浮かぶのはそんな激しい後悔ばかりだ。
あぁ、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして――
「そんな……自分の事が嫌いだ……」
出さなくてもいい言葉が勝手に出た。
ぼろぼろと涙が自分の目から溢れていく。
止まらない涙を何度も何度も僕は拭う。
普段の日常から離れる事で本当に望んでいる生き方が分かると思っていた。
でもそれは違っていて、今日という1日で分かったのはいかに自分がどうしようもない奴であるかということだけだった。
「自分のことを嫌いになる気持ちはボクもすごく分かるよ。自分のことが嫌で嫌で堪らなくて、それでも変わることが出来なくて。いっそのこと違う誰かになれたらいいのに……ってさ。だけどボクは……りっくんに自分のことを好きになってほしいな」
僕の話をずっと黙って聞いてくれていた楓が、泣きじゃくっている我が子をあやす様な優しい顔をして僕にへと言った。
でも、僕は分かっている。
楓は僕と違って本当に優しいから、気遣ってそう言ってくれただけだと。
性格が良くて容姿も優れている楓の様な人が、自分のことを嫌いになる訳がない。
例え本当に自分のことが嫌いになる気持ちが分かっていたとしても、僕が自分のことを好きになったらいけないってことくらい楓だって分かっているはずだ。
「駄目だ。自分の事を好きになんてなれない……いや、なってはいけない」
誰かの幸せを願えない利己的な人間。
そんな奴を好きになれる訳がないだろ。
しかもそれは他の誰でもない自分自身だ。救いようがないにも程がある。
こんな自分のことを好きになっていい理由なんて、何一つとしてない。
「そんなことないよ。なってもいいんだよ。いや……」
楓はそこで一旦言葉を止めて、じっと僕のことを見つめる。
今日何度も見た、強い意志の込められた真っ直ぐな目だ。
彼女は目をそのままに、優しく微笑みながら僕にこう言った。
「りっくんは自分のことを好きになるべきだよ」
楓の言葉でスイッチが切り替わるのを僕は感じた。
…………なるべき? こんな自分勝手な僕を?
ずっと溜まっていた自分に対しての怒りが矛先を変える。
今から僕がやろうとしていることは、楓の優しさを無碍にする行為だと分かっていた。ただの八つ当たりだ。絶対にしてはいけないことだ。――でも、止まらなかった。
「なんでだよ⁈ なんでそう言い切れるんだよ⁈」
僕は声を荒げて楓に言った。
駅で会った白いワンピースの女の子もそうだった。一度助けられただけで僕の事を優しい人だと思い込み、不良たちに絡まれていた楓を助けようとしない僕に「らしくない」と言った。本当の僕は優しくなんかないのにだ。ワンピースの女の子時も、楓の時も、妊婦さんの時も、お爺さんの時も、迷子の女の子の時も、全部全部全部偶然だ。あと少し遅かったら僕ではない他の誰かが助けてくれたかもしれない。たまたまタイミング良く僕が助けただけだ。
「たった1日の付き合いで僕のことを分かった気になるな! 僕は自分の事が大切で誰かの幸せを願えない、ゴミみたいな人間なんだよ!」
そう言い切って、また楓の顔が滲んでボヤけた。
辛い、苦しい、悲しい、消えてしまいたい。色々な感情がごちゃ混ぜになって胸を締め付ける。
楓はもう微笑んではいない。
怯えの見える、強張った表情を彼女はしている。
「でも、りっくんは……ボクのことを助けてくれたじゃん……」
その楓の声は震えていた。弱々しくて、今にも消えてしまいそうな儚い声だった。
「それは……」
躊躇いが次に出そうとしている言葉を詰まらせる。
あの時に思ってもいなかった世間体を気にしていたから、なんて嘘を言ったのはどうしてだ?
どちらにせよ嘘を付くなら近い方がいい?
この時点でおかしいだろ。
どうして嘘を付く必要があった?
そんなの決まっている。事実はもっと酷いものだと分かっていたからだ。
だからあの時、僕は言えなかった。
でも、もう躊躇う必要なんかない。言ってしまえ。楓を失望させろ。
だって僕は優しくない、ただのゴミ屑なんだから。
「嘘をついた。本当は世間体を気にしてですらない。あの時本当は僕の意思で動いたわけじゃないんだ。周りにいた見知らぬ人に『お前が行ってこい』って言われただけ。仕方なくだった」
最早、僕の意思すら関係なかったのが相当なショックだったのか、楓の瞳が涙で潤んだのが分かった。
あぁ、楓から目を逸らしてしまいたい。
今すぐにでも走り出して、この場から逃げ出してしまいたい。
それでも僕は楓から目を逸らさないし、逃げることもしない。
今僕の頭の中を埋め尽くしているのは、沢山の後悔ばかりだ。
だけどそれを、絶対に楓には勘付かれてはいけない。
もしかしたら僕が嘘をついているかもしれないという希望を、楓に僅かたりとも抱かせるな。
あれは嘘でもなんでもない、本当のことなんだから。
「ぼ……ボクの時はそうだったかもしれない……。でも、妊婦さんの時は誰かに言われなくても君は動いた」
「あぁ、そうだ。自分から声を掛けた。でもそれは周りからいい人だって見られたかったからだ。お爺さんの荷物を運んだ時だって言っただろ? 世間体を気にしてだって。好きで優しくなんてしてない」
「で、でも……」
どうして楓はこうまでも食い下がる?
もう何も言いたくないのに。自分自身のことも、楓のことも、傷付けたくはないのに。
何かを言おうとしている楓よりも先に僕は言葉を発す。
「それに、すぐに声をかけたわけじゃないんだ。楓の時も妊婦さんの時もお爺さんの時も女の子の時も、声をかける前に迷っていた。本当に心の底から誰かのために生きたいと思っているのなら、そんな時間なんて必要ないはずなのに!」
いつの間にか、怒りの矛先はまた自分にへと向いていた。
情けない。みっともない。これはただの嘆きだ。
同情して欲しい訳でも、反論して欲しい訳でもない、ただの嘆き。
他に吐き場所がなくって最後まで残していたもの。それがこれだ。
自分の言葉でヒビが入っていた最後の壁はとうとう決壊してしまった。
ずっと溜めてきたものが怒涛の勢いで溢れ出し、堰き止められなかった。
「それどころか誰かを助けない為に、救わない為の理由を一生懸命探していた! 本当はありもしないと分かっている『もしかしたら』を頑張って出し続けていた! もし本当にそんなものがあったとしても、助ける理由に勝るはずがないと分かっていたのに……! それでもまだ楓は言うのか? 僕は自分の事を好きになるべきだって! こんなにも僕は酷い人間なの――」
言葉も、思考も、感情も、何もかもが全て止まった。
いや、止められた。
楓が僕の体を強引に引っ張り、僕の頭を抱き抱えるように抱きしめたからだ。
たったそれだけのことで、自分がもう止められないと思っていたものは、いとも簡単に止められてしまった。
「そうやってさ……自分のことを責めるのはもうやめようよ。苦しそうで……見ているのが辛いよ」
僕に酷いことを散々言われたのに、楓のその声は優しかった。
「本当にどうでもいいならそうやって悩まないし、苦しむこともないよ。世間体の為なら助けた時点で満足できるはずなのに、りっくんは少しでも躊躇ってしまったことに本気で後悔だってしてる」
クリアになった頭の中に楓の声だけが入っていく。
言葉がゆったりと心に落ちてきて、染み込んでいくのを感じる。
湧き上がる感情と共に涙が一緒に込み上がる。
「なによりも見過ごすことだって出来たのに、りっくんは助けることを選んでたじゃん。誰かに言われてかもしれない。世間体のためだったのかもしれない。その理由がなんであれ、りっくんは結果的には誰かの為に動いたんだよ。辛いことや悲しいことがあって、もう嫌だって思うのは当たり前。でもそれは望んでいなかった事にはならない。だって君は何度も誰かの為に動いたんだから。それに――」
僕が顔を上げて楓の顔を見ると、彼女は微笑みながら涙を流していた。
楓の言葉に嘘はない。そう確信を持てる表情だった。
もうこの時点で僕は救われていたのかもしれない。いや、きっと救われていた。
だけど――
「りっくんは幸せそうに笑う人たちを見て、いつも幸せそうに笑っていたよ」
その言葉が正真正銘の救いとなった。
心のどこかで他人の幸せを喜んでいた僕がいる。
それを楓は教えてくれた。
僕の目から涙がぼろぼろと自然と溢れる。
「あれもボクや周りからいい人だと思われたかっただけの演技だったの? もし自覚がなかったのなら、それはりっくんが心の底から他人の幸せを喜んでいた証明にはならない?」
楓が追い討ちをかけるように全てを言った。
もう充分だと、僕は無言で頷く。
そして、僕は周りの目など気にせずに、楓の腕の中で声を上げて泣いた。
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