藤城皐月物語

音彌

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第10章 修学旅行 奈良編

489 夢殿

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 藤城皐月ふじしろさつき筒井美耶つついみやと話しているところに月花博紀げっかひろき村中茂之むらなかしげゆきたちがやって来た。
「皐月、ここって何の仏像?」
「聖徳太子」
「へぇ……。法隆寺って、本当に聖徳太子のことを推してるんだな」
 博紀たちが聖徳太子像を覗き込んでいると、松井晴香まついはるかが一人で夢殿ゆめどのを下りて小川美緒おがわみお惣田由香里そうだゆかりのところへ行ってしまった。
「どう?」
「う~ん。どうって言われても、何て答えたらいいのやら……」
「俺は東大寺の法華堂ほっけどうで見た不空羂索観音ふくうけんさくかんのんの方が良かったな」
 勉強のよくできる博紀と比べて、勉強の苦手な茂之の方がしっかりとした受け答えをしたので、皐月と美耶は驚いた。それだけでなく、茂之が不空羂索観音を正確に憶えていたことに感動した。
「さすがは茂之しげ、お目が高い!」
「私も不空羂索観音、好きだよ~」
 美耶に共感されて、茂之は顔がニヤけていた。
「さっき見た百済観音くだらかんのんもよかった。やっぱり仏像は造る職人の気合の入り方が違うな。茂之しげはどう思った?」
「俺も百済観音には感動した。仏像は信仰の対象だもんな。後光も射してるし」
 皐月は気楽に話ができると思って美耶に会いに来たのに、茂之と仏像の話をすることになるとは思ってもなかった。だが、これはこれで悪くなかった。
「じゃあさ、法隆寺はこんなに聖徳太子を推しているのに、なんでもっといい仏像を用意できなかったんだよ?」
 博紀は少し憤慨しているようだ。
「もっといい仏像は秘仏になっている救世観音ぐぜかんのん像じゃん」

 皐月は聖徳太子の生誕の逸話を話すことにした。
「聖徳太子のお母さんが妊娠する前に夢の中で救世観音菩薩に会ったんだって。それで『この世を救済するために、人間の姿をとって現れたいから、お前の腹を借りるからな』と言われて、生まれたのが聖徳太子なんだ。つまり、聖徳太子は救世観音菩薩だってこと」
「皐月、よくそんなこと知ってんな」
「修学旅行の前に予習したんだよ。だから秘仏になっている救世観音像イコール聖徳太子なんだから、やっぱり法隆寺はめっちゃ聖徳太子を推してるだろ?」
「そう言われると、確かにそうだな。夢殿は聖徳太子を崇拝するために造った建物だったな」
 皐月は南側の救世観音像の前に移動した。ここから見ても救世観音像は厨子の中にあって見られない。
「俺、いつか救世観音像を見に来ようと思ってるんだ」
 皐月は今までそこまでして救世観音像を見たいとは思っていなかった。だが、厨子ずしの中に隠れている救世観音像を目の前にしたら、どうしても実物を見たくなった。

「藤城っていろんなこと、よく知ってるよな」
「たまたま調べたことを偉そうにしゃべってるだけだよ。茂之しげも勉強してから来ればよかったのに。その方が面白いぞ」
「先に勉強してから来たら、感動が薄れるのかと思ってた。逆なんだな」
「そうだよ。知識があればあるほど実物を見た時が楽しいんだ」
 夢殿の南正面にいると、晴香から美耶に声がかかった。
「美耶~。もうそろそろ、こっちにおいでよ」
「わかった。行く~」
 美耶が慌てて石段を下りた。運動神経のいい美耶は美緒や由香里のようなへっぴり腰ではなく、飛び跳ねるように石段を駆け下りた。
「お前らは夢殿をみないの? 外からこの建物を見てみろよ。すっげー美しいから」
「そうだな。これから見に行くか」
「松井たちと一緒に見ればいいじゃん。博紀、行ってやれよ」
「ああ……そうだな」
 博紀はあまり乗り気ではなかった。美耶と一緒に見られたら嬉しいはずの茂之もどこか躊躇していた。
「じゃあ、俺たちも行くわ」
 博紀たちも夢殿から離れて、廻廊に向かって歩き出した。

 皐月は博紀たちを見送りながら、夢殿の基壇きだんの上から礼堂らいどうを眺めてみた。近くで見た時と違って、廻廊とセットで礼堂を見ると、かつて中門だったことがよくわかる。
 今来た方へ戻り、皐月は廻廊を眺めながら北側の舎利殿の方へ移動した。東側の舎利殿は仏舎利ぶっしゃりが納められている建物で、西側の絵殿えでんは壁面に聖徳太子の生涯を描いた絵画がはめ込まれている建物だ。長い切妻造の本瓦葺ほんかわらぶき屋根が伸びやかで、見ていて気持ちが良い。
 皐月は残りの諸尊をざっと見てから石段を下りた。目の前の絵殿及び舎利殿の前に佇んでいると、栗林真理くりばやしまり二橋絵梨花にはしえりかがやって来た。真理たちは出口付近でみんなが集まるのを待っていた。
「もう全部見たの?」
「ああ」
 皐月と真理が交わした言葉はこれだけだった。一緒にいた絵梨花は何も話さなかった。三人はただじっとその場に佇んでいた。
 無言でいると、皐月は次第に気持ちが悪くなってきた。聖徳太子が存在したこととして立花玲央奈たちばなれおなの話を聞き、博紀たちに生誕時の逸話を話した。聖徳太子はいなかったと思っているのに、いるものとして行動したことが皐月を苦しめた。

 出口付近に6年4組の児童たちが集まって来た。ガイドの立花と話をしていた前島先生が児童たちを集合させ、人数の確認を始めた。最後に神谷秀真かみやしゅうまがやって来て、クラス全員が出口に集まった。
 皐月と秀真が列の最後尾にいると、ガイドの立花が皐月たちの所へやって来た。
「あれっ? 立花さんは先頭じゃないの?」
中宮寺ちゅうぐうじは前島先生が引率するから、私は後ろでいいの。みんなの入場料、前jま先生が奢ってくれるんだって」
「本当?」
「ええ。前島先生が個人的に中宮寺に行きたくて、法隆寺の参拝コースを変更したの。どうしても如意輪観音にょいりんかんのん像が見たいんですって」
 前島先生が歩き出したので、皐月たちも後に続いて歩きだした。廻廊の北西の角の出口から出ると、皐月は急に寂しくなって振り向いた。
「どうしたの?」
「うん……名残惜しいなって思って」
「旅行なんて、それくらいが丁度いいのよ」
 立花に背中を押されて、廻廊のスロープを下りた。皐月が玲央奈と触れあったのはこれが初めてだった。背中から伝わる玲央奈の手のひらの温もりで、ごちゃごちゃとした気持ち悪さが消えてなくなっていくような気がした。
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