1 / 1
【読み切り】月とスッポンの真実 ── 僕らが泥の中から見つけた光
しおりを挟む
昭和三十年、秋。広島。 海沿いの小さな漁村は、いまだ戦争の焼け跡のような、乾いた風が吹き抜けていた。
勇は、ざらついた網の感触を指先で確かめていた。 彼の視界は、漆黒だ。 戦火の中で光を失ったあの日から、勇にとって世界は「手触り」と「匂い」だけで編み上げられた、ささやかな物語だった。
その隣には、いつも幸子がいた。 彼女の世界には、一切の音が届かない。 幼い頃、爆風とともに鼓膜が裂け、世界は永遠の静寂に沈んだ。
そして、老犬ポチ。 戦時中、疎開する家族に置いていかれ、瓦礫の中で泥水をすすって生き延びてきた傷だらけの犬。
目が見えない勇。 耳が聞こえない幸子。 言葉を持たないポチ。
三人は、世間から「月とスッポン」と嘲笑われることもあった。 美しい月を見上げる人々に対し、地べたを這い、泥にまみれて生きる自分たちはスッポンなのだと。 それでも、三人はお互いの欠けた部分を寄せ合い、肩を寄せ合って生きていた。
だが、ある新月の夜。 その穏やかな絶望は、唐突に引き裂かれる。
海が、発光したのだ。 漆黒の海面から銀色の光が溢れ出し、三人の身体を優しく、しかし抗いようのない力で宙へと誘った。
次に目を覚ました時、そこは色彩の暴力が支配する場所だった。
「……あ、あ……」
勇が、喉の奥から絞り出すような声を上げた。 漆黒だった視界に、濁流のように色が流れ込む。 足元に広がるのは、宝石を砕いたようなクリスタルの砂漠。 そして見上げれば、頭上には、青く輝く巨大な地球が浮かんでいた。
「見える……。幸子、お前の顔が……見えるぞ!」
幸子の長い髪、琥珀色の瞳、そして溢れ出す涙。 勇は生まれて初めて、愛する人の姿をその目に焼き付けた。
幸子もまた、崩れ落ちるように耳を塞いだ。
「音が……。勇さんの声が……聞こえる……!」
風が砂を鳴らす繊細な旋律。勇の震える吐息。 音が、凍りついていた彼女の心を溶かしていく。 さらに、足元でポチがはっきりと人間の言葉を紡いだ。
「勇、幸子。俺は、あんたたちに拾われて……本当に良かった」
三人は泣きながら抱き合った。 ついに手に入れた。完璧な身体。完璧な世界。 もう、泥の中を這うスッポンではない。自分たちも、あの輝く月の一部になれたのだ。
だが、その歓喜を切り裂くように、巨大な影が差した。
そこに立っていたのは、星屑の衣を纏い、重厚な甲羅を背負った異形の賢者。 名を、スッポンといった。
「喜びはそこまでだ。地球人よ」
スッポンの声は、魂を凍りつかせるほど冷酷だった。 彼が杖を振ると、眼前の湖に、三人がひた隠しにしてきた「醜い真実」が映し出される。
戦火の中、自分だけが助かりたくて家族の手を振りほどいた勇の卑怯さ。 聞こえないふりをして、友人の助けを求める声を無視した幸子の孤独。 飢えに狂い、仲間の餌を奪い取ったポチの獣性。
「ここは救済の園ではない。地球の『負の記憶』を濾過する場所だ」 スッポンは残酷に告げる。 「今、君たちが得た光や音は、その醜い過去を忘れるための代償だ。このままここに居続ければ、君たちは『完璧な人形』となり、二度と地球へは戻れぬだろう」
勇は激しく惑った。 せっかく見えるようになったこの目を、再び暗闇に返すのか? 幸子も震えた。 再びあの恐ろしい沈黙の世界に、自分を突き落とすのか?
「さあ、選べ。このまま月で『完璧な偽物』として永遠に生きるか。それとも、泥のような醜さを抱えたまま、再び『不自由な地上』へ戻るか」
勇は、差し伸べられた幸子の手を見て、一瞬、躊躇してしまった。 その迷いを見た幸子が、叫んだ。 声にならない声ではない。魂を切り裂くような、本当の言葉だった。
「勇さん! 私は、目が見えないあなたの『手』が好きだった!」
幸子の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「耳が聞こえない私を、誰よりも理解しようとしてくれたあなたの『心』が好きだった。光なんていらない。音がなくても、あなたの体温があれば、そこが私の天国なの!」
その言葉が、勇の胸を貫いた。 完璧な視界があるせいで、一番大切な「心の絆」を見失いかけていた。 勇は強く、自らの瞳を閉じた。 「……スッポンさん。俺たちは、戻るよ。泥の中へ」
三人がお互いの手を強く、痛いほどに握りしめた瞬間。 スッポンの甲羅が砕け散り、中から眩いばかりの純白の翼が現れた。
「合格だ。人は皆、自分を醜いスッポンだと思い込み、完璧な月を夢見る。だが、真実の救いは、その不完全な自分を愛し、寄り添う心の中にしかない」
スッポンは自らの翼を広げ、三人を包み込んだ。
「地上へ戻れば、再び暗闇が訪れるだろう。だが、君たちの魂にはもう、月光が染み込んでいる。君たちはもう、不自由な障害者ではない。誰かの心を照らす『光そのもの』だ」
目が覚めた時、そこはいつもの冷たい砂浜だった。
勇の視界は、再び漆黒に閉ざされていた。 幸子の世界からは、一切の音が消えていた。 ポチは、短く吠えることしかできない。
しかし、勇の顔には、かつてないほど清々しい微笑みが浮かんでいた。
「幸子、そこにいるんだろ?」
幸子は勇の手を握り、力強く三回、握り返した。 ──愛・して・る── 指先から伝わるその「音」は、月で聞いたどの旋律よりも美しく響いた。
勇は、幸子の手を引き、ゆっくりと歩き出す。 幸子は、勇の歩幅に合わせて寄り添い、ポチがその先頭を行く。
彼らはもう、自分たちをスッポンだとは言わない。 暗闇の中でも、心に月を宿しているからだ。
昭和三十年。 広島の海を照らす月は、これまでになく円やかに、そして優しく、彼らの歩む道をどこまでも白銀に染め上げていた。
勇は、ざらついた網の感触を指先で確かめていた。 彼の視界は、漆黒だ。 戦火の中で光を失ったあの日から、勇にとって世界は「手触り」と「匂い」だけで編み上げられた、ささやかな物語だった。
その隣には、いつも幸子がいた。 彼女の世界には、一切の音が届かない。 幼い頃、爆風とともに鼓膜が裂け、世界は永遠の静寂に沈んだ。
そして、老犬ポチ。 戦時中、疎開する家族に置いていかれ、瓦礫の中で泥水をすすって生き延びてきた傷だらけの犬。
目が見えない勇。 耳が聞こえない幸子。 言葉を持たないポチ。
三人は、世間から「月とスッポン」と嘲笑われることもあった。 美しい月を見上げる人々に対し、地べたを這い、泥にまみれて生きる自分たちはスッポンなのだと。 それでも、三人はお互いの欠けた部分を寄せ合い、肩を寄せ合って生きていた。
だが、ある新月の夜。 その穏やかな絶望は、唐突に引き裂かれる。
海が、発光したのだ。 漆黒の海面から銀色の光が溢れ出し、三人の身体を優しく、しかし抗いようのない力で宙へと誘った。
次に目を覚ました時、そこは色彩の暴力が支配する場所だった。
「……あ、あ……」
勇が、喉の奥から絞り出すような声を上げた。 漆黒だった視界に、濁流のように色が流れ込む。 足元に広がるのは、宝石を砕いたようなクリスタルの砂漠。 そして見上げれば、頭上には、青く輝く巨大な地球が浮かんでいた。
「見える……。幸子、お前の顔が……見えるぞ!」
幸子の長い髪、琥珀色の瞳、そして溢れ出す涙。 勇は生まれて初めて、愛する人の姿をその目に焼き付けた。
幸子もまた、崩れ落ちるように耳を塞いだ。
「音が……。勇さんの声が……聞こえる……!」
風が砂を鳴らす繊細な旋律。勇の震える吐息。 音が、凍りついていた彼女の心を溶かしていく。 さらに、足元でポチがはっきりと人間の言葉を紡いだ。
「勇、幸子。俺は、あんたたちに拾われて……本当に良かった」
三人は泣きながら抱き合った。 ついに手に入れた。完璧な身体。完璧な世界。 もう、泥の中を這うスッポンではない。自分たちも、あの輝く月の一部になれたのだ。
だが、その歓喜を切り裂くように、巨大な影が差した。
そこに立っていたのは、星屑の衣を纏い、重厚な甲羅を背負った異形の賢者。 名を、スッポンといった。
「喜びはそこまでだ。地球人よ」
スッポンの声は、魂を凍りつかせるほど冷酷だった。 彼が杖を振ると、眼前の湖に、三人がひた隠しにしてきた「醜い真実」が映し出される。
戦火の中、自分だけが助かりたくて家族の手を振りほどいた勇の卑怯さ。 聞こえないふりをして、友人の助けを求める声を無視した幸子の孤独。 飢えに狂い、仲間の餌を奪い取ったポチの獣性。
「ここは救済の園ではない。地球の『負の記憶』を濾過する場所だ」 スッポンは残酷に告げる。 「今、君たちが得た光や音は、その醜い過去を忘れるための代償だ。このままここに居続ければ、君たちは『完璧な人形』となり、二度と地球へは戻れぬだろう」
勇は激しく惑った。 せっかく見えるようになったこの目を、再び暗闇に返すのか? 幸子も震えた。 再びあの恐ろしい沈黙の世界に、自分を突き落とすのか?
「さあ、選べ。このまま月で『完璧な偽物』として永遠に生きるか。それとも、泥のような醜さを抱えたまま、再び『不自由な地上』へ戻るか」
勇は、差し伸べられた幸子の手を見て、一瞬、躊躇してしまった。 その迷いを見た幸子が、叫んだ。 声にならない声ではない。魂を切り裂くような、本当の言葉だった。
「勇さん! 私は、目が見えないあなたの『手』が好きだった!」
幸子の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「耳が聞こえない私を、誰よりも理解しようとしてくれたあなたの『心』が好きだった。光なんていらない。音がなくても、あなたの体温があれば、そこが私の天国なの!」
その言葉が、勇の胸を貫いた。 完璧な視界があるせいで、一番大切な「心の絆」を見失いかけていた。 勇は強く、自らの瞳を閉じた。 「……スッポンさん。俺たちは、戻るよ。泥の中へ」
三人がお互いの手を強く、痛いほどに握りしめた瞬間。 スッポンの甲羅が砕け散り、中から眩いばかりの純白の翼が現れた。
「合格だ。人は皆、自分を醜いスッポンだと思い込み、完璧な月を夢見る。だが、真実の救いは、その不完全な自分を愛し、寄り添う心の中にしかない」
スッポンは自らの翼を広げ、三人を包み込んだ。
「地上へ戻れば、再び暗闇が訪れるだろう。だが、君たちの魂にはもう、月光が染み込んでいる。君たちはもう、不自由な障害者ではない。誰かの心を照らす『光そのもの』だ」
目が覚めた時、そこはいつもの冷たい砂浜だった。
勇の視界は、再び漆黒に閉ざされていた。 幸子の世界からは、一切の音が消えていた。 ポチは、短く吠えることしかできない。
しかし、勇の顔には、かつてないほど清々しい微笑みが浮かんでいた。
「幸子、そこにいるんだろ?」
幸子は勇の手を握り、力強く三回、握り返した。 ──愛・して・る── 指先から伝わるその「音」は、月で聞いたどの旋律よりも美しく響いた。
勇は、幸子の手を引き、ゆっくりと歩き出す。 幸子は、勇の歩幅に合わせて寄り添い、ポチがその先頭を行く。
彼らはもう、自分たちをスッポンだとは言わない。 暗闇の中でも、心に月を宿しているからだ。
昭和三十年。 広島の海を照らす月は、これまでになく円やかに、そして優しく、彼らの歩む道をどこまでも白銀に染め上げていた。
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
光の図書館 ― 赦しの雨が上がるまで
108
恋愛
「あの日、私を救ったのは、あなたの未来でした」
雨の匂いが立ち込める午後の図書館。司書の栞(しおり)の前に現れたのは、影を帯びた瞳の青年・直人だった。 彼はいつも、絶版になった古い物語『赦しについての短い話』を借りていく。 少しずつ距離を縮める二人。しかし、直人の震える右手には、五年前の雨の日に隠された、残酷で優しい秘密が宿っていた――。
記憶の棲む図書館を舞台に、「喪失」を抱えた二人が「再生」を見つけるまでを描いた、静謐で美しい愛の物語。
九十九歳の砂時計、十の後悔、十の忘却
108
ライト文芸
「もしも、人生の最期に、過去をやり直す権利を与えられたら?」
一九四〇年代から二〇二〇年代まで、激動の昭和・平成・令和を駆け抜けた実業家、石川慎一郎。九十九歳で孤独な死の淵にいた彼の手元に、不思議な「砂時計」が現れる。
それは、人生で最も悔いている「十の後悔」をやり直すためのタイムリープの鍵。 慎一郎は愛する人を救うため、親友を助けるため、そして世界をより善い場所にするために、過去の自分へと意識を飛ばす。
しかし、歴史を書き換えるたび、彼は残酷な「代償」を突きつけられた。 **「何かを救うたびに、それに関するすべての記憶を失う」**という等価交換。
戦火から救った親友の顔が思い出せない。 命を救ったはずの最愛の妻が、誰だか分からない。 守り抜いた故郷の景色が、どこの場所か思い出せない。
後悔を消し去るたびに、慎一郎の人生は「完璧な成功」へと塗り替えられていくが、彼の魂は真っ白に漂白され、空虚な「聖人」へと近づいていく。
救済の果てにあるのは、至福の充足か、それとも絶望の孤独か。 失われた記憶の代わりに、彼が最後に見つけた「透明な幸福」とは——。
一人の男が自らの存在を賭けて挑んだ、十日間の「人生の書き換え」が今、始まる。
私を騙したあなたへ ―― 記憶を盗んだのは、あなたでした。
108
ライト文芸
失われた記憶の断片に、必ず現れる“あの人”の影。
愛だったのか、欺きだったのか——真実に近づくほど、彼女の世界は静かに崩れ始める。
優しい嘘、甘い罠、消えた記憶。
最も信じた人こそ、最も疑わなければならない相手なのか。
私を騙したあなたへ——記憶を盗んだのは、あなたでした。
心を締めつける心理サスペンス、開幕。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
現代文学
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
お飾り王妃の死後~王の後悔~
ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。
王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。
ウィルベルト王国では周知の事実だった。
しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。
最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。
小説家になろう様にも投稿しています。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
彼女にも愛する人がいた
まるまる⭐️
恋愛
既に冷たくなった王妃を見つけたのは、彼女に食事を運んで来た侍女だった。
「宮廷医の見立てでは、王妃様の死因は餓死。然も彼が言うには、王妃様は亡くなってから既に2、3日は経過しているだろうとの事でした」
そう宰相から報告を受けた俺は、自分の耳を疑った。
餓死だと? この王宮で?
彼女は俺の従兄妹で隣国ジルハイムの王女だ。
俺の背中を嫌な汗が流れた。
では、亡くなってから今日まで、彼女がいない事に誰も気付きもしなかったと言うのか…?
そんな馬鹿な…。信じられなかった。
だがそんな俺を他所に宰相は更に告げる。
「亡くなった王妃様は陛下の子を懐妊されておりました」と…。
彼女がこの国へ嫁いで来て2年。漸く子が出来た事をこんな形で知るなんて…。
俺はその報告に愕然とした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる