月とスッポン ── 銀光の淵で、声を拾う

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【読み切り】月とスッポンの真実 ── 僕らが泥の中から見つけた光

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 昭和三十年、秋。広島。  海沿いの小さな漁村は、いまだ戦争の焼け跡のような、乾いた風が吹き抜けていた。



 勇は、ざらついた網の感触を指先で確かめていた。  彼の視界は、漆黒だ。  戦火の中で光を失ったあの日から、勇にとって世界は「手触り」と「匂い」だけで編み上げられた、ささやかな物語だった。



 その隣には、いつも幸子がいた。  彼女の世界には、一切の音が届かない。  幼い頃、爆風とともに鼓膜が裂け、世界は永遠の静寂に沈んだ。



 そして、老犬ポチ。  戦時中、疎開する家族に置いていかれ、瓦礫の中で泥水をすすって生き延びてきた傷だらけの犬。



 目が見えない勇。  耳が聞こえない幸子。  言葉を持たないポチ。



 三人は、世間から「月とスッポン」と嘲笑われることもあった。  美しい月を見上げる人々に対し、地べたを這い、泥にまみれて生きる自分たちはスッポンなのだと。  それでも、三人はお互いの欠けた部分を寄せ合い、肩を寄せ合って生きていた。



 だが、ある新月の夜。  その穏やかな絶望は、唐突に引き裂かれる。



 海が、発光したのだ。  漆黒の海面から銀色の光が溢れ出し、三人の身体を優しく、しかし抗いようのない力で宙へと誘った。





 次に目を覚ました時、そこは色彩の暴力が支配する場所だった。



「……あ、あ……」



 勇が、喉の奥から絞り出すような声を上げた。  漆黒だった視界に、濁流のように色が流れ込む。  足元に広がるのは、宝石を砕いたようなクリスタルの砂漠。  そして見上げれば、頭上には、青く輝く巨大な地球が浮かんでいた。



「見える……。幸子、お前の顔が……見えるぞ!」



 幸子の長い髪、琥珀色の瞳、そして溢れ出す涙。  勇は生まれて初めて、愛する人の姿をその目に焼き付けた。



 幸子もまた、崩れ落ちるように耳を塞いだ。



「音が……。勇さんの声が……聞こえる……!」



 風が砂を鳴らす繊細な旋律。勇の震える吐息。  音が、凍りついていた彼女の心を溶かしていく。  さらに、足元でポチがはっきりと人間の言葉を紡いだ。



「勇、幸子。俺は、あんたたちに拾われて……本当に良かった」



 三人は泣きながら抱き合った。  ついに手に入れた。完璧な身体。完璧な世界。  もう、泥の中を這うスッポンではない。自分たちも、あの輝く月の一部になれたのだ。



 だが、その歓喜を切り裂くように、巨大な影が差した。





 そこに立っていたのは、星屑の衣を纏い、重厚な甲羅を背負った異形の賢者。  名を、スッポンといった。



「喜びはそこまでだ。地球人よ」



 スッポンの声は、魂を凍りつかせるほど冷酷だった。  彼が杖を振ると、眼前の湖に、三人がひた隠しにしてきた「醜い真実」が映し出される。



 戦火の中、自分だけが助かりたくて家族の手を振りほどいた勇の卑怯さ。  聞こえないふりをして、友人の助けを求める声を無視した幸子の孤独。  飢えに狂い、仲間の餌を奪い取ったポチの獣性。



「ここは救済の園ではない。地球の『負の記憶』を濾過する場所だ」  スッポンは残酷に告げる。 「今、君たちが得た光や音は、その醜い過去を忘れるための代償だ。このままここに居続ければ、君たちは『完璧な人形』となり、二度と地球へは戻れぬだろう」



 勇は激しく惑った。  せっかく見えるようになったこの目を、再び暗闇に返すのか?  幸子も震えた。  再びあの恐ろしい沈黙の世界に、自分を突き落とすのか?



「さあ、選べ。このまま月で『完璧な偽物』として永遠に生きるか。それとも、泥のような醜さを抱えたまま、再び『不自由な地上』へ戻るか」





 勇は、差し伸べられた幸子の手を見て、一瞬、躊躇してしまった。  その迷いを見た幸子が、叫んだ。  声にならない声ではない。魂を切り裂くような、本当の言葉だった。



「勇さん! 私は、目が見えないあなたの『手』が好きだった!」



 幸子の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。



「耳が聞こえない私を、誰よりも理解しようとしてくれたあなたの『心』が好きだった。光なんていらない。音がなくても、あなたの体温があれば、そこが私の天国なの!」



 その言葉が、勇の胸を貫いた。  完璧な視界があるせいで、一番大切な「心の絆」を見失いかけていた。  勇は強く、自らの瞳を閉じた。   「……スッポンさん。俺たちは、戻るよ。泥の中へ」



 三人がお互いの手を強く、痛いほどに握りしめた瞬間。  スッポンの甲羅が砕け散り、中から眩いばかりの純白の翼が現れた。



「合格だ。人は皆、自分を醜いスッポンだと思い込み、完璧な月を夢見る。だが、真実の救いは、その不完全な自分を愛し、寄り添う心の中にしかない」



 スッポンは自らの翼を広げ、三人を包み込んだ。



「地上へ戻れば、再び暗闇が訪れるだろう。だが、君たちの魂にはもう、月光が染み込んでいる。君たちはもう、不自由な障害者ではない。誰かの心を照らす『光そのもの』だ」





 目が覚めた時、そこはいつもの冷たい砂浜だった。



 勇の視界は、再び漆黒に閉ざされていた。  幸子の世界からは、一切の音が消えていた。  ポチは、短く吠えることしかできない。



 しかし、勇の顔には、かつてないほど清々しい微笑みが浮かんでいた。



「幸子、そこにいるんだろ?」



 幸子は勇の手を握り、力強く三回、握り返した。  ──愛・して・る──  指先から伝わるその「音」は、月で聞いたどの旋律よりも美しく響いた。



 勇は、幸子の手を引き、ゆっくりと歩き出す。  幸子は、勇の歩幅に合わせて寄り添い、ポチがその先頭を行く。



 彼らはもう、自分たちをスッポンだとは言わない。  暗闇の中でも、心に月を宿しているからだ。



 昭和三十年。  広島の海を照らす月は、これまでになく円やかに、そして優しく、彼らの歩む道をどこまでも白銀に染め上げていた。
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