Summer Diary─向日葵の約束─

汐美 雨咲

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第11話「彷徨う少年 ─変わりゆく希望の中で─」

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──始まりの空音そらね

空はもう、すっかり夏の色だった。

白く膨らんだ雲が、のんびりと渡っていく。

蝉の声が間断なく降り注ぐなか、俺たちは校舎の裏で刷毛を手にしていた。

「……にしてもさ」

 ペンキを塗りながら、俺はふと口を開く。

「月嶺祭って、なんなんだ?」

 そう口にした瞬間、三人の手が一斉に止まった。

いや、ぴたりと動きを止めたのは気のせいじゃない。

「え……? 今なんて?」

 最初に振り返ったのは杏奈だった。

白いワンピースにペンキの飛沫をつけながら、まん丸な目で俺を見つめる。

「月嶺祭を、知らないのかしら……?」

 詩織さんが首を傾げ、少し不思議そうに言う。

その横では、智唯が目をぱちくりさせていた。

「……はじめて、聞いた」

 オレがそう答えると、三人は顔を見合わせて、次の瞬間、くすくすと笑い出した。

「そっかぁ、涼一くんは今年からだもんね」

 杏奈が楽しげに言う。

「仕方ないわね。じゃあ、特別にわたしたちが教えてあげる」

 詩織さんが刷毛を置き、手のひらをパン、と軽く叩いた。

「まず、これは“つきねさい”、って読むの」

 智唯が、そっと補足するように呟いた。

三人は順番に話しはじめた。

まとめるとこんな感じでこの村に古くから伝わる夏の祭りで、村で取れた作物や織物を“神様”に奉納して、一年の恵みに感謝する──という由緒あるものだそうだ。

屋台や賑やかな出し物もあるが、一番の見どころは、巫女による“舞い”だという。

「巫女……」

 俺は思わず声に出していた。

「そう、今年は鈴香ちゃんの役目なのよ」

 詩織さんが柔らかく笑う。

「鈴香の親戚から変わった時から毎年、あの子がひとりで舞ってるの。すっごく綺麗なのよ」

「……へえ」

 知らなかった。あいつが、そんなことを。

胸の奥に、何かが小さく波打った。

まだ見ぬ光景。まだ知らない、彼女の姿。

それを想像するだけで、どうしようもなく胸がざわつく。

「おーい、休憩入るぞー」

 誰かの声がして、俺たちは刷毛を置いた。

──空にはまだ、雲の航路が続いていた。

***

「ふぅ……ちょっと休もっか」

 詩織の提案で、俺たちは校舎の陰に腰を下ろした。

ペンキの匂いと汗の感覚が、夏の空気に混じっている。

オレは缶ジュースのプルトップを引いて、口に含む。

「涼って、やっぱり不思議な人だよね」

 詩織がぽつりとつぶやいた。

「まだ来て間もないのに、なんだか、ずっと前から私たちのそばにいた気がするの」

「……そうか?」

 苦笑しながら答えると、杏奈もくすっと笑った。

「てかさ、涼一くん。なんでこの村に来たの?私、都会から来た人って初めてでさ」

 智唯も、小さく頷いている。

「……そうだな、中学のとき、いろんなことがあった。受験とか、部活とか、家のことも、それで──」

 オレはあの頃を思い出す。

――あの頃のオレは、成績もそこそこよくて、先生の評価も悪くなかった。
でも、だからこそ、周りからは勝手に「できるやつ」って見られてた。
期待に応えなきゃって思ってた。
苦しいとか、やめたいとか、口にするのは甘えだって、どこかで思い込んでた。

家でも学校でも、ちゃんとやらなきゃ、って。
でも、何を「ちゃんと」すればいいのか、分からなくなってた。
友達の顔色ばかり見て、親の期待に怯えて。
そのうち、心のどこかがすり減っていって……。

逃げ出したい。
でも、逃げたところで何があるのかも分からなくて。
……それでも、逃げた。

「──ってことがあってな」

 缶ジュースのぬるい炭酸が、喉を通っていった。

「……そっかぁ」

 杏奈が、缶の飲み口に口をつけたまま、ぽつりとつぶやく。

「それってさ、けっこう……しんどかったよね」

 詩織も頷いた。

けれど、彼女の表情はどこかやさしく、そして、誇らしげだった。

「でも、今の涼って、すごくまっすぐに見えるよ。たぶん、あのときのことがあったから、今があるんだと思う」

「……オレが、まっすぐ?」

「うん」

 今度は智唯が、小さく息を吸ってから話し出す。

「……ちーね、ずっと、自分のことが嫌いだったのです。誰かと仲良くなろうとしても、うまくいかなくて……でも、涼一くんが言ってくれたの。『そのままでいい』って。あの言葉で、初めて、自分のことをすこしだけ……好きになれたのです」

 智唯の声は震えていた。でも、その目は、まっすぐだった。

「……ありがとう。あのときのこと、ずっと、忘れない」

 その言葉に、オレは言葉を返せなかった。

次に杏奈が──

「ずっと自分が嫌いで、誰かを失うのが怖くて、どうしても自分を偽ってた。でも、涼一くんが『そのままでいい』って言ってくれて……私、初めて、自分を少しだけ好きになれたんだ」

 杏奈はほんの少し、涙をこらえながら続ける。

「だから、涼一くんの言葉があったから、少しだけ前に進めた気がする。ありがとう」

 そして、最後に詩織さんが──

「……ずっと、“詩織”でいることが、苦しかったの。周りの期待に応えなきゃって、自分の気持ちよりも“正しくあろう”とすることばかり考えてた。でも……涼が、『無理しなくていい』って言ってくれたおかげで、初めて、自分の心に耳を傾けたの」

 彼女の声は、どこか軽やかだった。

「ほんとはね、ずっと怖かったの。自分らしく生きるって、誰かを裏切ることみたいで。でも……涼一くんの言葉で、少しだけ、前に進めた気がするの。ありがとう」

 三人の言葉が涼一の胸に深く響いた。

──気づけば、オレは誰かの力になれていた。

無意識に周りの人を変えていたこと。

それが、嬉しいような、少し驚きのような、でも何より心が温かくなる瞬間だった。

自分でも知らずに、誰かを支え、助けていた。

そんな自分に、少しだけ自信が湧いてきた。

そして、改めて振り返る。

──この村で、オレは変わった。

都会の冷たい空気から、こんな温かい日々を送ることができるなんて、考えてもいなかった。

孤独に怯え、何もかもが遠く感じていたあの頃の自分は、もうどこにもいない。

ここでは、少なくとも自分が少しずつでも、誰かのためにできることがある。

でも、まだ──鈴香がいる。

──もしかしたら、あいつのこと、オレは何も知らないのかもしれない。

いつも明るく振る舞っていて、誰とでも仲がいい。でもその裏で、ふとした瞬間に見せる静けさや、どこか遠くを見るような瞳が、気になっていた。

何を考えてるのか、何を抱えてるのか。訊いても、きっと鈴香は笑って「なんでもないよ」って言うんだろう。

──それでも、オレには、わかる気がする。

あいつの笑顔の奥には、きっとまだ、言葉にできない何かがある。

今はまだ、それが何なのかはわからない。もしかしたら、ずっとわからないままかもしれない。

それでも、あいつのそばにいたい。少しでも、力になれたらって、思う。

──オレが、鈴香を支えてやる番だ。

その言葉は、まだ頼りない決意かもしれない。でも、今のオレにできる、精一杯だった。

涼一は空を見上げる。まだ暑い夏の日差しが照りつけているが、心の中では、少しだけ涼しい風が吹いたような気がした。
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