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16.狢

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 結果的に事件解決とは無関連だったとしても、探偵業務の過程で把握せねばならないと判断されたら、この手の情報は収集され、貯まっていく。もちろんカラバンは廃棄を指示していたし、ニイカも指示に従っていた。ある時点までは。
 私的情報の悪用に手を染めるようになったきっかけは、小さなことだった。学生時代に憧れていた男性が、事務所の前で待っていたので何ごとかと思ったら、軽微な交通違反で処分を受けることになったんだが、どうにかしてないものにできないかという相談だった。普通ならにべもなく断るところだが、憧れたたことのある異性である事実に加えて、たまたま前日に見た調査メモに、交通に関わる警察のお偉いさんの不名誉なネタがあった。性的嗜好に関するネタで法には触れずとも、公になればダメージを蒙ることは必定。ニイカは期待しないで頂戴ねと前置きした上で、そのお偉いさんを訪ねて遠回しに打診してみた。するとこれが思いの外うまく、しかもあっさりと通った。ニイカは憧れの男性と付き合い始めただけでなく、警察関係者からも感謝され、金品を手渡された。
 このときは一度きりのつもりだったが、程なくしてお金に困る事態に陥った。ニイカは今度は最初から狙いを持って、調査メモを繰り、裕福で世間体を気にする人々のスキャンダルネタを集めに集めた。そうして匿名の脅迫者となって、彼女は小銭(ときに大金)をせしめることを重ねていき、味を占めるようになる。いささかでも申し訳ないという感情があったのは極初期のほんの短い間だけで、今では当然の役得だと思うようになっている。

 ニイカとモガラがお互いの不正に気付いたのは、文字通り同時だった。まさしくその場に出くわす形になったのだから。
 あるとき、提出したあとになって報告書に(改竄故の)矛盾があることに思い当たったモガラは、密かに訂正しようと深夜、事務所に忍び込んだ。暗がりの中、小さなランプの明かりを頼りにキャビネット内を探っていると、ドアを開けようとする音がした。モガラは当然、内側から鍵を掛けて“作業”していた。予期せぬ来訪者に焦りを覚えつつも、デスクの下の空間に身を隠す。空き巣狙いだとすれば打ち倒せば済む。問題は、探偵事務所の人間だった場合だ。
 息を殺して来訪者の気配を探っていると、ドアを開けようとする音がぴたりと止んだ。鍵穴に鍵を入れて回そうとしていたように、モガラには感じられた。それが正しければ、やって来たのは事務所の関係者だ。鍵を持っている人物となると限定される。
 それにしても途中で開けるのを辞めたのは何故だ。もしや、勘付かれたか?
 どう振る舞うべきか判断を迫られたモガラは、ドアを開けられない内に賭けに出ることを決めた。机の下からそっと出ると、ドアのすぐ近くまで接近。壁に身を寄せて、改めて来訪者の様子を探る。ドアは目の高さ当たりに磨りガラスがはめ込まれており、見通せない。だが、影ぐらいなら認識できた。通路側からこちらを見られるリスクを冒し、モガラはその影が小柄で、どうやら女性らしいロングヘアの持ち主だと確認。事務所の鍵を持っていて髪の長い女性となると、一人しかいなかった。探偵助手の女性は基本的に髪は短くしてある。
 ニイカ・ギップスか。彼女がこんな時間にここに用事とは一体何だ? そもそもどうして中に入るのを躊躇している? 何らかの仕掛けで侵入者があったことを察したのなら、思い切って開けるか、それが怖くてできないのであれば、警察を呼ぶかカラバン探偵に知らせるかするものだろう。扉の向こうの彼女は、何故か行動を起こさず、逡巡しているようだ。
 モガラは、あの秘書がこのまま立ち去るようなら、その間に逃げ出そうかと考えた。だが、報告書の修正はまだ終わっていない。持ち帰る訳にもいかない。まだしばらく居座って、直す必要がある。
 他に可能性を見出すとしたら、泥棒に入られて、書類を持ち去られように偽装するくらいか。だがそうするにしても、このあとのニイカ・ギップスの行動次第だ――モガラはめまぐるしく思考した。
 と、次の瞬間に女性秘書が起こした振る舞いは、モガラの予想した範疇を少々超えていた。
「中にいるのはモガラさんかしらね?」
 小声ではあったが、明瞭な発音だった。モガラは身体が震えたが、驚きの叫びを上げるのは堪えて、最終判断を下す。最早出て行くしかない。
「降参です。どうして分かったんです?」
 鍵を解錠し、ドアを開けてから両手を上げて姿を見せる。そんなモラガの様子を前にしてニイカは、緊張した面持ちのまま目だけ微かに和らげた。
「よかった、勘が冴えていたようね」
 と震え声でぽつりと漏らした。
「勘だって? 私がいると確証があった訳ではなかったのか」
「なかったけれども、可能性は高いと思っていた。何故なら書類に――」
「待て。その話の前に、場所を移さないか。こんなところで離していて、万が一、第三の人物が現れでもしたら面倒極まりない」
 警戒を露わにするモガラに対し、ニイカは薄く笑って小首を傾げた。
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