虫けら

崎田毅駿

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5.描写視点

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 有森礼一郎は同僚の誘いを断って退社すると、地下鉄の駅へ向かった。定刻より二時間ほど遅い。下り階段に差し掛かって、歩速を若干落とし、慎重な足取りで進む。混雑していないのは、有森がわざと不便な出入口まで遠回りしてきたからだ。ここの地上出入口を利用する者は、オフィス街にあって数少ない。
 改札を通り、フォームへ出る。さすがにここは人が多かった。だが、ごった返すと表現するほどではない。有森は、先頭車両前から二つ目のドアが開く位置に移動した。誰も並んでいないが、有森は決して先頭に立とうとはしない。かつてはそうではなかった。何年か前、列の先頭に立っていた会社員が、後ろから見知らぬ男(精神障害者で通院歴があったらしいが詳しくは分からない)に押され、線路に転落、折しも入ってきた電車にひかれて死亡するという事故を知って以来、先頭に立たなくなった。立てなくなったのかもしれない。今は、フォームの幅のちょうど中程、歯科医の広告を腹巻きにした円柱に寄り掛かり、電車を待つのが習慣。
 待つ間、線路を挟んで向こうにある壁を見つめるようにする。プラットフォームの人々に目を向けると、つまらぬ点ばかり気になってしまう。ごみのぽい捨て、喫煙コーナー以外での喫煙、階段の端に腰掛けて馬鹿話に興じる高校生グループ、ベンチを二人分占領して化粧に専念する女、どんな嫌なことがあったのか早々と酔い潰れている男。
 電車が来た。この駅にいる客全員を乗せたらちょうど満員になる、それくらいの混み方。だが実際は降りる客も多少はいるし、フォームの人間全てが乗り込む訳でもない。実際、有森の乗った一両目には、たった一つだが空席もあった。有森は座れなかったが。
 吊革を持ち、目を瞑る。車輌内でも目を開けていると、他人の行動が気になって仕方がない。できれば耳も閉じたいくらいだ。耳栓では効果が薄いし、ヘッドホンやイヤホンの類は、逆に自らが騒音の源になる危険性をはらんでいるので、使いたくなかった。
 今日もまた、携帯電話の様々な音が耳障りだったが、辛抱を重ねる。三駅先のK浜駅で降りた有森は地上に出ると、晴れ晴れとした表情になった。
 しかしそれを即座に引っ込め、自然な顔つきになる。そしてしっかりした足取りで、夜道を急ぐ。
 やがて住宅街に通じる十字路に差し掛かり、右手に折れると、有森は塀際にしゃがんだ。外灯の下、革靴の紐を結び直す。右、左の順に、きつく。
 時刻を確認すると、すっくと立ち上がった。

 ~ ~ ~

 “戯殺神”は標的の存在を夜道に認めると、歩みを速めた。同時に、懐から得物を取り出す。レストランでくすねてきた大ぶりなフォーク。手の内側にそっと隠し持つ。全ては静かに、気配を消して。
 背広姿の男の背中に近付き、今や、目と鼻の先。手を伸ばせば肩に届く。だが、相手の男が感づいた様子は皆無だ。
「すみません」
 相手が角を折れた刹那、戯殺神は自ら声を掛けた。綿菓子にくるまれたような声は、穏やかで優しげな響きを持つ。
「はい? 何でしょうか」
 この男もまた、警戒心を抱かずに振り返ったようだ。直線移動をしているときよりも、曲がった直後の方が隙が生じやすい。スピードを緩めるからだろうか。
「すみません、クラブハウスのSロックウェルの場所をご存知ありませんか」
「ああ、Sロックウェルなら」
 腕を肩の高さまで持ち上げ、ある方角を指差そうとする男。
 戯殺神は背後から手を回し、相手の開いた口にフォークの先をくわえさせ、後頭部を強く押した。間髪入れず、足を払う。
 フォークの柄がアスファルト道路に押された。当然のごとく、その反対側は喉奥に食い込む。突き刺さった切っ先は、あっさりと脳髄に達した。
 男はしばらく虫の息だったが、程なくして絶命した。生ある者が死に至る瞬間。戯殺神にはそれがよく分かった。経験を積むことで自然に体得した感覚。
 フォークを放置し、戯殺神は立ち去った。同じ殺害方法を採らない戯殺神にとって、指紋を残すミスさえ犯さなければ、全く問題のない行為である。一刻も早く現場から離れる方が重要だ。何しろ、周りは家屋だらけ。物音はほとんど立てなかったが、それでも気配を感じ取って窓を開けたり、たまたま通りかかったりする者がいないとは言い切れない。
 戯殺神は駅に通じる道を、急ぐでなく、のんびりするでもなし、歩き始めた。

 ~ ~ ~

「この前一緒に来ていた男、誰よ?」
 大澤美祐おおさわみゆうに興味津々に尋ねられ、伊之上はため息をついた。
 休日の午後、伊之上と大澤がお喋りをする場は、この欧風レストラン――先日、有森と入った――であることがほとんどだった。それは、大澤が夜ここでウェイトレスのアルバイトをするのと無関係ではない。
「期待に添えなくて悪いけれど、彼氏とかじゃないわよ」
 その返事に、大澤はまだ疑わしそうに目玉を動かした。
「本当に?」
「小学校のときの友達。ばったり会って、ちょうど昼だったから、一緒にってことになった、ただそれだけ」
「小学校? よく覚えていたわねえ。顔も姿も全然違うでしょうに」
「小学校のときからの友達よ。高校まで同じだったわ」
「そういうのって、普通、高校のときの友達と言わない?」
「高校のときは、友達と呼べるほど親しくなかったからなあ。ほら、女子と男子が一緒になって遊べる機会って、小学生の頃が一番多いでしょう?」
 納得したのかどうか、大澤は話を進めた。
「結局、再会してみて、どうだったのよ。恋心が燃え上がりはしなかった?」
「まあねえ、いい感じはしたけれど、一回では判定のしようがないわ」
 それからしばらく、伊之上は有森のことを話して聞かせた。大澤の好奇心を眠らせるには、これが最も早い。隠すと逆効果だ。経験上、分かっていた。
 一段落すると、今度は大澤が喋り出す。
「多分、あんた達二人が感動の再会を果たした日だと思うんだけどさ」
「感動の再会って訳じゃないわよ」
「その日の夜、ここのバイトに入ったんだけど、ちょっとした事件が」
 伊之上の小さな抗議を無視し、話を続けたかと思うと秘密めかす大澤。伊之上は負けじと、相手のウィンクに気付かぬふりをした。
「フォークが一本、消えたのよ」
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