魔力欠乏の義弟を救うため、魔族の末王子に嫁入りします

キノア9g

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第1話 崩れ去る日常と絶望の森

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 茜色に染まった空を見上げると、一番星が白く輝き始めていた。
 商店街のスピーカーからは、「夕焼け小焼け」のメロディが少しノイズ混じりに流れている。
 俺、篠宮湊(しのみや みなと)は、スーパーの特売袋を片手に、少し早足で歩いていた。袋の中からは、特売の豚コマと長ネギが顔を覗かせている。今夜は豚汁にしよう。優斗の好物だし、野菜もたっぷり摂れるから一石二鳥だ。

「……よし、今日はギリギリ間に合ったな」

 息を切らして辿り着いたのは、地域でも評判の良い保育園の前だった。
 門をくぐり、教室の方へ顔を出すと、積み木遊びをしていた金色のふわふわした頭が、ピクリと反応して振り返る。

「あ! にーちゃん!」

 天使だ。いや、本気でそう思う。
 俺の姿を見つけた瞬間、花が咲くような笑顔で駆け寄ってくるこの小さな生き物は、五歳になる義理の弟、優斗(ゆうと)だ。

「ゆうと、お待たせ。いい子にしてたか?」
「うん! きょうね、おすなばでトンネルつくったんだよ! あとね、せんせいにおうたほめられた!」
「そっかそっか、すごいな優斗は」

 しゃがみこんで目線を合わせ、柔らかい金髪を撫でてやると、優斗は嬉しそうに目を細めて俺の掌に頭を擦り付けてくる。
 この瞬間、学校での疲れも、家事の慌ただしさも、すべてが吹き飛んでいくようだった。

 俺たちの家庭は、少し複雑だ。
 俺の実の父は、俺が幼い頃に母と離婚している。母は女手一つで俺を育ててくれたが、俺が中学生の時に再婚した。その相手が優斗の父親だったのだが、その義父も、優斗が生まれてすぐに事故で亡くなってしまった。
 結果、残されたのは働き詰めの母と、高校生の俺、そして幼い優斗の三人。母は生活費を稼ぐために朝から晩まで働いている。だから、優斗の面倒や家事全般は、自然と俺の役割になっていた。

 でも、俺はそれを不幸だなんて思ったことは一度もない。
 だって、優斗がかわいくて仕方がないからだ。血は繋がっていなくても、こいつは俺の大切な弟だ。俺が守ってやらなきゃいけない、世界で一番大事な存在なんだ。

「さあ、帰ろうか。今日は豚汁だぞ」
「わーい! にーちゃんのとんじるだいすき!」
「ふふ、美味しいの作るからな」

 保育園の先生に挨拶をして、俺たちは手を繋いで帰り道を歩き出した。
 小さな手が、俺の手をぎゅっと握り返してくる。その温もりが愛おしくて、俺は自然と頬が緩んでしまうのを止められなかった。

「あしたもね、にーちゃんといっしょがいいな」
「なんだよ急に。明日も明後日も、ずっと一緒だろ」
「えへへ、そうだよね」

 ありふれた日常。ささやかだけど、何よりも代えがたい幸福な時間。
 この幸せがずっと続くと信じていた。
 あの瞬間までは。

 ――ガクンッ。

 唐突に、足元の感覚が消失した。
 マンホールの蓋が外れたとか、そんな生易しいものじゃない。地面そのものが、世界そのものが、俺たちの足元からごっそりと消え失せたような浮遊感。

「え……?」
「にーちゃ……!?」

 優斗の小さな手が、恐怖で強張るのがわかった。
 視界が真っ白な光に包まれる。商店街の喧騒も、夕方のチャイムも、車の音も、すべてが遠ざかっていく。
 俺は反射的に優斗の手を強く引き寄せ、その小さな体を抱きしめた。
 何が起きているのかわからない。でも、優斗だけは離しちゃいけない。その本能だけで、俺は意識を保とうと必死に目を見開いていた。

 やがて、強烈な光が収束し、代わりに湿った土の匂いと、冷たい風が頬を打った。

「……っ、ここ……どこだ?」

 目を開けた俺は、絶句した。
 そこは、見慣れた商店街のアスファルトの上ではなかった。
 空を覆い尽くすようにうねる、見たこともない巨大な木々。薄暗く、じめじめとした空気。頭上に見える空は、夕焼けの茜色ではなく、不気味な紫色が混じったような、毒々しい色をしている。

「にーちゃん……ここどこぉ……くらいよぉ……」
「っ、大丈夫だ優斗。俺がいる」

 震える優斗を抱きしめ直しながら、俺は周囲を見渡した。
 どう考えても日本じゃない。いや、地球上のどこかですらないかもしれない。
 いわゆる「異世界転移」というやつだろうか。ラノベや漫画で見たことはあるが、まさか自分が、しかも幼い弟と一緒に巻き込まれるなんて。

(落ち着け。まずは現状把握だ。優斗を怖がらせちゃいけない)

 俺は震えそうになる膝を叱咤し、できるだけ明るい声を作った。

「優斗、ちょっと遠くの公園までワープしちゃったみたいだな。すごいな、魔法みたいだ」
「まほう……?」
「ああ。でももう暗いから、お家に帰る方法を探そう。おんぶしてやるから、乗れ」

 優斗を背負い、スーパーの袋を提げたまま、俺は森の中を歩き出した。
 制服のブレザーの下に着ているのは、安物のパーカーだけ。森の空気はひんやりとしていて、肌寒さを感じる。
 とにかく、人のいる場所を探さなければ。スマホを取り出してみたが、当然のように圏外だ。

 どれくらい歩いただろうか。
 最初は「にーちゃん、おばけでない?」なんて話していた優斗の口数が、次第に減っていった。
 背中から伝わる体温が、異常に熱い。

「……優斗? どうした、眠いか?」
「はぁ……はぁ……にー、ちゃん……くる、しい……」
「優斗!?」

 慌てて近くの木の根元に優斗を下ろす。
 スマホのライトで照らされた優斗の顔を見て、俺は心臓が止まるかと思った。
 顔面は紙のように白く、唇は紫色に変色している。呼吸は浅く早く、まるで水のない場所で喘ぐ魚のようだ。

「優斗! しっかりしろ! どこが痛い!?」
「いき……が……できない……むねが、あついよぉ……」

 ただの風邪や疲れじゃない。
 直感が告げていた。これは、もっと悪い何かだ。この異常な森の環境が、優斗の体に悪影響を及ぼしているのかもしれない。
 焦りが全身を駆け巡る。思考が真っ白になりかけたが、優斗の苦しむ顔が俺を現実に引き戻した。

「大丈夫だ、大丈夫だからな……!」

 俺は再び優斗を背負い直した。さっきよりも体が重く感じる。いや、実際に優斗の意識が混濁して、脱力しているからだ。
 走らなきゃ。早く、誰か大人のいるところへ。病院へ。医者のいるところへ。

 道なき道を、泥だらけになりながら進んだ。
 木の枝が頬を切り、パーカーが破れる。足がもつれて何度も転びそうになるが、そのたびに歯を食いしばって耐えた。背中の優斗に衝撃を与えないように、必死に踏ん張った。

「誰か! 誰かいませんか! 弟が、弟が死にそうなんです!!」

 喉が張り裂けそうなほど叫び続けた。
 永遠にも思える彷徨の果てに、木々の隙間から微かな灯りが見えたとき、俺は涙が出るほど安堵した。
 そこは、粗末な木の柵で囲まれた、小さな村だった。
 家々は土と木で作られ、服装も見たことのないボロ布を纏った人々。文明レベルは明らかに現代ではない。
 村の入り口で倒れ込むようにして叫ぶ俺を、村人たちが槍を向けて囲んだ。

「な、なんだお前は! どこの国の密偵だ!」
「違います! 怪しいものじゃありません! 弟が……弟が病気なんです! お医者様を、誰か助けてください!」

 俺の必死の形相と、背中でぐったりとしている子供の姿を見て、村人たちの警戒心が少しだけ解けた。
 中から一人の老婆が出てくる。村長か、あるいは治療師のような存在らしい。

「……子供を見せてごらん」

 老婆は優斗の顔を覗き込み、その胸に手を当てた。
 そして、数秒もしないうちに、悲痛な面持ちで首を横に振った。

「手遅れになる前に、楽にしてやるべきかもしれんね」
「は……?」

 何を言われたのか、理解できなかった。
 楽にする? 殺すってことか? ふざけるな。

「何言ってるんですか……! ただの熱でしょう!? 薬があれば、病院に行けば……!」
「落ち着きなされ、異人の子よ。この子の症状は『魔力欠乏症』じゃ」
「魔力……?」
「お主ら、おそらく『あちら側』から迷い込んだんじゃろう。ここは魔素が薄い。魔力を持たぬ人間は平気じゃが、この子のように体内で魔力を生成できず、かつ外部からの魔力を必要とする特異体質の子にとっては、ここは真空の中におるようなものじゃろう」

 老婆の言葉は、あまりにも絶望的だった。
 優斗は、息をしているだけで命を削っているというのだ。
 この世界には、現代医療なんてものはきっとない。あるのは魔法と、魔力という未知の概念。そして優斗は、その魔力が足りなくて死にかけている。

「助ける方法は……ないんですか……?」

 俺の声は震えていた。
 老婆は、哀れむような目で俺たちを見つめ、静かに言った。

「高純度の『魔石』があれば、一時的な延命はできるかもしれん。じゃが、そんな高価なもの、この貧しい村には一つもない」
「魔石……。それ、どこにあるんですか」
「ここから山を越えた先に、城塞都市バルドがある。そこにはダンジョンがあり、魔石が採掘されるというが……とてもじゃないが、子供を背負って歩ける距離じゃ」

 それに、と老婆は言い淀んだ。

「たとえ街に着いたとしても、魔石は金貨何枚もする高価な品じゃ。お主のような異人が手に入れられる代物ではない。……諦めるんじゃ。このままでは、あと二日と持たん」

 二日。
 たったの、二日。
 今日の夕方まで、あんなに元気に笑っていたのに。
 砂場で作ったトンネルの話をしてくれたのに。
 明日の朝には、冷たくなっているかもしれないなんて。

(……ふざけるな)

 俺の奥底で、ドロリとしたどす黒い感情と、それ以上に熱い炎が燃え上がった。
 諦めろ? 見捨てろ?
 そんなこと、できるわけがない。

 俺は優斗を抱きしめる腕に力を込めた。
 高熱でうなされる優斗の寝顔は、苦しそうだけど、まだ生きている。心臓は動いている。
 俺の命なんてどうでもいい。こいつがいない世界で生きていくくらいなら、どんな無茶だってしてやる。

「……行きます」
「なんじゃと?」
「その街へ行きます。魔石を手に入れて、絶対に優斗を助けます」

 俺は立ち上がった。
 足はガクガク震えているし、疲労で目の前が霞んでいる。
 それでも、俺の瞳に宿る光だけは消えていなかったはずだ。

「おばあさん、お願いします。この街の方角と、ここから一番近い売買所を教えてください」

 俺は自分の腕にはめていた腕時計を外した。父の形見の、それなりにいい時計だ。これと、着ているブレザー、それにスーパーの袋に入っている食料。売れるものは全部売る。
 靴の底がすり減ろうが、泥水を啜ろうが構わない。

 優斗。お兄ちゃんが絶対に助けてやるからな。
 だから、お願いだ。死なないでくれ。

 俺は、意識のない優斗を背負い直し、闇に包まれた見知らぬ異世界の道を、一歩踏み出した。
 それが、後に魔界の王子と出会い、俺の運命を大きく変える旅の始まりになるとは、今はまだ知る由もなかった。
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