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2章
第13話:『拒絶する森の主』
しおりを挟む北の別荘に到着した翌日のことだった。
レンオリスは、朝霧が立ち込める庭に出て、深く息を吸い込んだ。
冷たく澄んだ空気が肺を満たす。都会の屋敷では感じられなかった、土と緑の匂い。
それが体に入ってきた瞬間、胸の奥で燻っていた焦燥感が、ふっと鎮まるのを感じた。
(……やっぱり。僕は、ここを知っている)
記憶にはない場所だ。生まれて初めて来たはずの土地だ。
なのに、肌が、細胞が、この空気を歓喜して受け入れている。まるで、長い旅を終えて故郷に帰ってきたかのような安堵感。
レンオリスは、庭の柵の向こうに広がる、鬱蒼とした森を見つめた。
別荘の管理人や使用人たちは、口を揃えて言っていた。
『あの森は呪われています』
『入った者は誰も戻ってきません』
『絶対に近づいてはいけません』
確かに、森からは異様な気配が漂っていた。木々は冬枯れのように葉を落とし、ねじれた枝が空に向かって苦痛を訴えるように伸びている。色彩のない、灰色の世界。
普通の人間なら、本能的な恐怖を感じて足がすくむだろう。
けれど、レンオリスには、その森が「怖い」とは思えなかった。
むしろ、寂しそうに見えた。
誰かが森の奥で、膝を抱えて泣いているような——そんな切ない気配を感じて、胸が締め付けられる。
(行かなくちゃ)
レンオリスは、周囲を見回した。護衛の姿はない。
彼は柵の低い部分を乗り越え、禁止された領域へと足を踏み出した。
一歩、落ち葉を踏みしめる。
カサリ、という乾いた音が、静寂に響く。
その音さえも、どこか懐かしい。
レンオリスは、道なき道を進み始めた。
迷うことはなかった。心臓の鼓動が羅針盤のように、行くべき方向を教えてくれている気がした。
奥へ進むにつれ、空気は冷たく、重くなっていく。肌を刺すような冷気。けれど、なぜかその冷たさが心地よい。
まるで、熱に浮かされた体を冷やしてくれる氷のような、あるいは、誰かの冷たい手が頬に触れているような感覚。
どれくらい歩いただろうか。
不意に、視界が開けた。
そこには、かつて壮麗であったろう建造物の残骸があった。
崩れかけた石造りの壁。砕けた窓ガラス。蔦が絡まることもなく、ただ風化して朽ち果てた廃墟。
その光景を見た瞬間、レンオリスの目から、理由もわからず涙がこぼれ落ちた。
(どうして……こんなに、悲しいんだろう)
胸が張り裂けそうだ。
ここは、もっと美しい場所だったはずだ。花が咲き乱れ、穏やかな時間が流れる、楽園のような場所だったはずなのに。
なぜ自分は、そんなことを思うのだろう。
レンオリスが涙を拭おうとした、その時だった。
廃墟の入り口に、人影があることに気づいた。
世界から色が抜け落ちたような灰色の風景の中で、そこだけが、鮮烈な「闇」を纏っていた。
一人の男が、瓦礫の上に腰掛けていた。
夜の闇をそのまま切り取ったような漆黒の髪。陶器のように白い肌。
彼はうつむき、手の中にある何か——枯れた小さな花を、じっと見つめていた。
レンオリスは息を呑んだ。
美しい。
男であれ、女であれ、これほどまでに美しい存在を、レンオリスは見たことがなかった。
それは、美術品のような造形美というだけではない。
彼の纏う空気、孤独、絶望、そして底知れない静寂。その全てが、レンオリスの魂を強烈に揺さぶった。
胸に空いていた巨大な穴が、彼の姿を見た瞬間に埋まっていくような衝撃。
「……あ」
無意識に、声が漏れた。
男が、ゆっくりと顔を上げた。
目が合った。
深い、深い、紫色の瞳。
そこには光がなく、すべてを飲み込む虚無が広がっている。
けれど、レンオリスはその瞳を見た瞬間、全身に電流が走るような感覚を覚えた。
知っている。この目を、知っている。
夢の中で何度も見た、自分を呼ぶ誰かの目。
男の瞳が、驚愕に見開かれた。
まるで、死人が生き返ったのを見たかのような、あるいは見てはいけない幻影を見たかのような表情。
「……蓮?」
男の唇が動き、微かな声が風に乗って届いた。
レン? 誰のことだろう。
レンオリスは一歩、彼に近づこうとした。
「あの……」
レンオリスの声を聞いた瞬間、男の表情が一変した。
驚きと、喜びにも似た縋るような光が一瞬浮かび——そして、即座に冷徹な氷の仮面が被せられた。
ヒュオオオオッ!!
突風が吹き荒れ、レンオリスの体を押し戻した。
男が立ち上がる。その全身から、圧倒的な威圧感と、肌を切り裂くような冷気が放たれた。
「……立ち去れ」
地を這うような低い声。
それは警告であり、明確な拒絶だった。
「ここは人間が足を踏み入れていい場所ではない。……死にたくなければ、今すぐ消えろ」
普通の人間なら、その殺気に当てられて腰を抜かし、逃げ出すだろう。
けれど、レンオリスの足は動かなかった。
恐怖よりも、「彼と話したい」「彼のそばに行きたい」という渇望が勝っていたからだ。
「あなたは……誰ですか?」
レンオリスは、風に抗って声を張り上げた。
その問いに、男の眉がピクリと動く。
「誰、だと……?」
男は自嘲するように口元を歪めた。
その笑顔はあまりにも悲しく、レンオリスの胸を締め付けた。
「そうか。……貴様には、俺が誰に見える?」
「とても……綺麗で、悲しい人に見えます」
正直な感想だった。
男の瞳が揺らぐ。紫の奥に、隠しきれない動揺と、燃えるような熱がチラついた気がした。
だが、男はすぐに視線を逸らし、冷淡に言い放った。
「戯言を。……俺は、この森の主。生けるものを喰らい、土に還す化け物だ」
男が手を軽く振るうと、足元の枯れ草が黒く変色し、瞬時に崩れ去った。
それは、彼が触れるもの全てを死に至らしめる存在であるという、無言の証明だった。
「貴様もこうなりたいのか? 俺に近づけば、その命、吸い尽くしてやるぞ」
男は脅すように目を細めた。
しかし、レンオリスには、それが下手な演技に見えて仕方がなかった。
彼の言葉は鋭い刃のようだが、その切っ先はレンオリスではなく、彼自身に向けられているように思えたのだ。
「来るな」「傷つきたくなければ離れろ」と、必死に遠ざけようとする不器用な優しさ。
(どうして……そんなに苦しそうな顔をするんですか)
レンオリスは、恐怖を感じるどころか、彼を抱きしめたいという衝動に駆られた。
記憶にないはずの彼が、なぜか愛おしくてたまらない。
「あなたは……化け物なんかじゃありません」
レンオリスは一歩踏み出した。
「だって、そんなに寂しそうな目をしている」
「……ッ!」
男が息を呑む。
レンオリスは、突風の勢いが弱まった隙に、さらに近づいた。
「この森がこんなに静かなのは、あなたが泣いているからでしょう? ……僕には、そう見えます」
気づけば、レンオリスの頬にはまた涙が流れていた。
自分でも訳が分からなかった。ただ、目の前の彼が孤独であることが、自分の身を切られるよりも辛かった。
男——ゼルフィードは、呆然とレンオリスを見つめていた。
記憶を消され、別人として生まれ変わったはずの青年。
それなのに、その魂の根底にある優しさと、核心を突く鋭さは、何ひとつ変わっていなかった。
それが、ゼルフィードには嬉しく、そして残酷なほどに痛かった。
「……寄るなと言っている!」
ゼルフィードが叫び、腕を大きく払った。
ドォンッ!!
衝撃波が発生し、レンオリスの体は軽々と吹き飛ばされた。
「うわっ!」
背中から地面に叩きつけられる。枯れ葉の山がクッションになったおかげで怪我はないが、肺から空気が押し出され、一瞬息が詰まった。
「げほっ、ごほっ……」
レンオリスが顔を上げると、ゼルフィードは冷酷な眼差しでこちらを見下ろしていた。
「次は首を刎ねる。……二度と来るな」
彼はそう言い捨てると、黒い外套を翻し、廃墟の奥へと姿を消した。
拒絶の意志を示すように、レンオリスの目の前には漆黒の茨の壁が出現し、道を塞いだ。
レンオリスは、しばらくその場から動けなかった。
体中が痛い。冷たい地面に座り込み、惨めな姿だ。
普通なら、怒るか、恐怖して二度と近づかないだろう。
けれど。
レンオリスは、自分の胸に手を当てた。
心臓が、早鐘を打っている。
それは恐怖によるものではなかった。
恋だ。
理不尽に突き放され、化け物だと脅されたのに、レンオリスの心は熱く燃え上がっていた。
「……また、会いたい」
口から零れたのは、紛れもない本音だった。
あの寂しげな瞳が、頭から離れない。
あの一瞬、彼が見せた「蓮」と呼んだ時の表情。その切実な響きが、耳にこびりついて離れない。
彼は僕を知っているのだろうか。
僕が忘れてしまった「何か」を、彼は知っているのだろうか。
「諦めない」
レンオリスは立ち上がり、泥を払った。
貴族として育てられた品行方正な彼は、もうそこにはいなかった。
あるのは、自分の魂が求める場所へ、どんな障害があろうとも辿り着こうとする、一途な情熱だけ。
茨の壁の向こうを見据え、レンオリスは誓った。
明日もまた来よう。
何度追い返されても、彼が僕を見てくれるまで。
忘却の貴公子は、痛む体を引きずりながら、しかし心に灯った確かな熱を感じながら、森を後にした。
それが、二度目の恋の始まりだった。
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