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第5話:ただ、一緒にいたいだけ
しおりを挟む春の風が頬を撫でてゆく。どこかで焼き栗の香ばしい匂いが漂い、鼻先をくすぐった。
朝から賑わう市場のざわめきに紛れながら、俺は小脇にリネンの束を抱え、人の波を縫うように歩く。
セスに似合いそうな布を探して、何軒も見て回った末にようやく見つけた。
淡い生成色で、やわらかく、指に吸いつくような手触り。春の陽射しに映えるその布が、彼の肌によく似合う気がして——そう思っただけで、少しだけ胸が弾んだ。
——そのときだった。
「……で、最近ずっとあんたの話をしてたんだよ」
ふいに、聞き慣れた声が耳に届いた。
振り返らなくてもわかる。セスの声。楽しげな響きが、風に乗って届く。
「リセルくんって、ほんと器用なんだなあ。あの上着、仕立てたのは彼なんだろう?」
「まあな。でも最近なんか様子がおかしくてさ、何考えてんのかわかんねーし。おれのこと、嫌いになったのかとか思ってて」
俺がセスを嫌いになる?
……ダメだ。
これ以上は、聞いていられない。
足を速めて通りを抜ける。誰かの背中に紛れ、人波に飲まれるようにして市場の外れまで歩いた。
腕に抱えた布の重みが妙に熱く、肌にじんわりと汗が滲んでいた。
胸が、ぎゅうっと締めつけられる。
息が、うまく吸えなかった。
(……嫌いになんか、なれるわけないじゃないか)
それだけは、誰よりも、俺がわかってる。
◇◇◇
市場の帰り道、寄り道せずにまっすぐ帰ろうとしていたところで、不意に「リセルくん」と呼び止められた。
振り向くと、王子——ライナルト殿下が、少し息を切らしながら立っていた。
「やはり君だったね。あの角を曲がるところで見かけたような気がして、失礼ながら追いかけてしまった」
品のある微笑みに、俺は少し面食らった。
「……殿下。こんな通りまで……」
「抜け道はよく覚えているよ。君たちの案内のおかげでね」
言われてみれば、以前セスと三人で街を案内したとき、確かにこの裏通りも通った。覚えていたらしい。
「それに……君とほんの少しだけ、話がしたくて」
王子はそう言って、視線を落とした布の束に気づいたのか、微笑みを深めた。
「それは、誰かのための布かい?」
「……はい。友人に、春物のシャツを。彼に似合いそうな色だったので」
「君の目利きは確かだからな。セスは、きっと喜ぶだろうね」
友人としか伝えなかったのに“セス”という名前が、王子の口から自然に出てくる。
そのことが少し、胸に引っかかった。
どうして、そんなに当たり前のようにセスの名を呼ぶのか。
どうして、そんなに迷いなく、優しく微笑むのか。
だからだろうか。ふと、口が勝手に動いていた。
「……殿下は、セスのことをどう思っていますか?」
問うた瞬間、自分の言葉の棘に気づいて、思わず目を伏せる。二人の邪魔なんて、しちゃいけないのに。そんな資格、俺にはないのに。
けれど王子は、意外にも真面目な顔で少しだけ考え込むと、静かに言葉を紡いだ。
「……とても、眩しい人だと思っているよ」
その答えに、嘘はないように感じた。
けれど、俺の知りたいそれ以上のことは語られなかった。
何かを飲み込んだままの王子の表情に、言葉の続きがあるのかもしれないと思ったが、俺はそれを聞く勇気を持てなかった。
「君は、どう思っているの?セスのこと」
「……誰よりも幸せになって欲しい大切な友人、だと思っています」
慎重に選んだ言葉だった。だけどそれでも、胸が軋んだ。
言い終えた瞬間、自分の声が少しだけ震えていたことに気づく。
「……そう。羨ましいな」
王子は目を伏せて笑った。
その微笑みに滲んだものが、何だったのかはわからない。
少しだけ、会話が途切れた。
「ああごめん、……春の風のせいかな。君と話すと、つい時間を忘れてしまいそうになる」
言葉とは裏腹に、王子の視線はどこか遠く、静かな湖のようだった。
穏やかで、でも底が見えない。
(……王子も、セスのことが気になっているんだろうな)
モヤモヤする気持ちを、胸の奥へ押し込める。
答えを探すより、逃げ出す方がずっと簡単だった。
「……では、これで。縫うものがあるので」
深くは踏み込まれないように、礼を取る。
王子は名残惜しそうに手を振り、俺もそれ以上の言葉を交わすことなく背を向けた。
あとに残った春風が、妙に胸に沁みた。
◇◇◇
家まで、あと数歩。
石畳の角を曲がったその瞬間——
「おい、リセル!」
呼び止める声に、心臓が跳ねた。
次の瞬間には、セスが俺の腕を掴んでいた。
少し強くて、でも決して乱暴ではない、まっすぐな力。
「お前、なんで最近、俺のこと避けんだよ!」
……来てしまった。
向き合うことから逃げていた問いが、とうとう、目の前に差し出される。
セスの視線に、喉が詰まった。
目を合わせられないのは、俺の弱さだ。
「……避けてなんか、ないよ」
「嘘つけ。目も全っっ然合わせねーし、今日だって近くにいたの気づいてたくせに逃げただろ。俺、見てたんだからな。声ぐらいかけろよ。あ、まさか、俺が王子サマと話してるのが嫌だったとか?」
「っ……そうじゃない。そうじゃ、ないんだ……」
胸の奥がきしむ。
言葉にすれば壊れてしまいそうで、唇が震えた。
(……本当はただ、一緒にいたい。そばにいたい。笑ってほしい。触れたい。でも、それが叶わない未来を知ってるから。俺は、この気持ちに蓋をするしかない)
「……セスが、大切だからだよ」
それは、ひとりでに漏れた言葉。
風にさらわれるほど、小さな声。
セスが、ほんの一瞬だけ、目を伏せた。
「……何だって?」
「……なんでもない。……ごめん。帰るね」
そっと手を振りほどいて、背を向ける。
走り出した背中の奥で、何度も涙がこみあげた。
こぼれるのを堪えて、うつむいたまま黙って歩いた。
◇◇◇
夜の部屋。机の上には、広げられた縫いかけのシャツ。
選んだのは、春風みたいにやさしい白。
王子みたいに華やかじゃないけれど、日差しの中できっと映える。
指先で布を撫でながら、ぽつりとこぼす。
「最後に、もう一着だけ作らせて……お願いだから、それくらいは、許して」
誰に向けた言葉かも、わからない。
けれど、縫い針を手に取ったとき、ぽたりと涙が糸の上に落ちた。
止めようとしても、止められなかった。
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